文化学院

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テンプレート:専修学校 文化学院(ぶんかがくいん)は、東京都千代田区神田駿河台2-5に本部を置く日本専修学校である。1921年大正10年)に開校した。

概要

学校全体

専門課程は1学科3コースの2年制。高等課程は1学科3コースの3年制。大正時代に開校しており、歴史のある専門学校及び高等専修学校として、現在までに多くの人材を輩出している。

2009年度より高等課程による、日本で初めてのシネマリテラシー教育を開始。前期と後期でドキュメンタリー、短編ドラマの制作を行う。

建学の精神

西村伊作与謝野晶子与謝野鉄幹石井柏亭らによって創設され、「国の学校令によらない自由で独創的な学校」という新しい教育を掲げ、「小さくても善いものを」「感性豊かな人間を育てる」などを狙いとした教育が展開された。しかし、この教育により、後の戦時中に国から弾圧を受けることになった。日本で初めての男女平等教育を実施、共学を実現した。日本文化のみならず、キリスト教精神、西洋文化的教育が盛んに行われ、教員に多くの西洋人を招いた。創立当時から制服はなく、和服より洋服を推奨し、当時では珍しく、生徒のほとんどが洋服を着ていた。その頃から文化学院はオシャレの代名詞として知られていた。 アメリカのイェール大学をモチーフに、慶應義塾大学の構成に則って創設、運営された。創立当時から現在に至るまで、多くの日本を代表する著名人、文化人、芸術家、西洋人たちによって教育が行われ、さらに多くの著名人、文化人、芸術家を輩出している。日本の現代史、文化史においても重要な位置づけであり、戦時中や学生運動、カルチェ・ラタン闘争真っただ中であっても、常に自由思想の先頭にあった学校である。広辞苑に載っている数少ない学校の一つでもある。かつて教員はじめ、在校生、卒業生たちからはユートピアと評され、学生の憧れの的だったという。「自由」、「知性」、「芸術」の象徴であった。

創設

伊作の長女アヤの小学校卒業を機に、あらゆる女学校などを見て回るが、自分の教育方針から適する学校がないと考えた伊作は娘のために自らが考える真の学校教育を模索し、当時さまざまな芸術家、文化人との交流のなか、歌人与謝野晶子、画家石井柏亭に当時の学校令に縛られない自由でより創造的な学校を作ることを打ち明ける。両者は大いに賛同し、1921年4月25日に東京に文化学院を創立[1]。当時の中学校令や高等女学校令に縛られず、各種学校として認可を取り[1]、一流人たちによる芸術・学問の教育を行う快活で自由な学校をめざした教育を開始した。開校時の生徒は女子のみ43名、教師は伊作のほか、与謝野寛、与謝野晶子、石井柏亭、山田耕作河崎なつ有島生馬高浜虚子ら25名でスタートした[1]

国との方針が違ったため補助金はなく、誰からの援助も受けず、すべて伊作自身の資産で運営された。祖母が残した山林を売って資金を得ていた。当時、与謝野鉄幹が慶応義塾の教授に就いたこともあり、文化学院は慶應義塾の構成に則って作られた。そのため文化学院の開校式には文部次官と共に慶應義塾塾長も臨席。また、文化学院の歴代教員などの関係者には慶應義塾出身者が多い。広辞苑にのる数少ない学校の一つとなった。河崎なつ、与謝野晶子らを中心に独自の教科書が作られ、授業を行った。

校舎は伊作自身の設計で建てられ、当時の学校建築の常識を離れ、英国のコテージ風の建て物にし、かなりの話題を呼んだ。しかし1923年の関東大震災で校舎が全焼し、再び校舎を建てなおすこととなった。長野県軽井沢ル・ヴァン美術館に創立当時の校舎が復元され、創立当時をうかがい知ることができる。

その後、中学部の幼い生徒たちにも、当時の一流の学者、芸術家たちが親しく教え、職業的な教師によらない高踏的な人間教育がなされた。

石井柏亭が率いる二科会山下新太郎、有島生馬、正宗得三郎中川紀元等や水彩の赤城泰舒棟方志功ノエル・ヌエットらが美術面を、また文学部長に、与謝野鉄幹、晶子夫妻や、菊池寛川端康成佐藤春夫などをはじめ、有島武郎茅野蕭々戸川秋骨竹友藻風エドワード・ガントレット等の作家・文学者が文学方面を担当し、後には奥野新太郎堀口大学北原白秋芥川龍之介遠藤周作、高浜虚子、萩原朔太郎等がつづいて加わる。

音楽面では主に、山田耕筰、エドワード・ガントレット、伊達愛萩野綾子浅野千鶴子ハンカ・ペッオード等がそれぞれ毎週幾クラスかを受け持った。他にも、横光利一小林秀雄等が創作と文芸評論を担当、三宅周太郎北村喜八伊籐筰朔が演劇と文学方面に多彩な力強さを発揮した。

1923年、関東大震災で校舎が全焼。校舎に保管されていた、与謝野晶子が14年かけて現代語に翻訳した源氏物語が灰となる。校舎はかろうじて残った土台の上に、新しく積み上げて作り変えられた。30年代、世界恐慌、ドイツでのナチスの台頭、満州事変などの時代に、文化学院は心ある人々からオアシスのように慕われ、戦時中も自由主義の教育を続けて世評を恐れなかった。三木清田中美知太郎福武直清水幾太郎美濃部達吉吉野作造等の政治学者、法律学者、哲学者、思想家が講義をはじめたのもこの頃である。 「賀頌」(与謝野晶子・詩、山田耕作・作曲)を式歌とする。

1943年、反政府思想による天皇批判、自由思想によって不敬罪で拘禁され、文化学院の閉鎖命令を受ける。伊作は半年間投獄され、釈放後も裁判やり直しを求めたが、終戦の混乱で自然回避した。戦後、文化学院を再興する。戦時中、文化学院は捕虜収容所となっていたため、米軍の空襲を免れ、そのおかげで近くの山の上ホテルも焼けずに済んだという。しかし同じお茶の水にあるアテネ・フランセは空襲で焼失し、戦後は文化学院の校舎の一部を借りて講義を再開、1962年に新校舎が完成するまで文化学院内で講義が行われた。

現在まで多くの著名な芸術家、作家、役者等々を輩出している。詳しくは文化学院の人物一覧を参照のこと。

設置学科

高等課程

  • 総合芸術科
    • アクターズコース
    • 文芸コース
    • アート・デザインコース

専門課程

  • 総合芸術学科
    • 演劇・声優コース
    • アート・デザインコース
    • 文芸コース

募集を停止した課程(非公式)

  • 放送・映画学科
    • 放送・映画コース

沿革


学校関係者一覧

撮影・ロケ

その他、映画、ドラマ、PV、バラエティー番組などで多数使用。

交通

脚注

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  1. 1.0 1.1 1.2 『教育改革者の群像』中野光

参考文献

  • 文化学院五十年史『愛と叛逆』
  • 山崎博久『私の文化学院日記』

関連項目

  • 慶應義塾大学 - 与謝野鉄幹が教授に就任していたこともあり文化学院の開校式には文部次官と共に慶應義塾塾長も臨席。また、文化学院の歴代教員などの関係者には慶應義塾出身者が多い。

外部リンク

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