マリー・アントワネット
テンプレート:出典の明記 テンプレート:基礎情報 皇族・貴族 マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ(テンプレート:Lang-fr, 1755年11月2日 - 1793年10月16日)は、フランス国王ルイ16世の王妃。
フランス革命中の1793年に刑死した。
目次
生涯
幼少期・結婚まで
1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンとオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身につけたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。
当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、アントーニアとフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。
1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵が大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。
1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。
宮廷生活
デュ・バリー夫人との対立
結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[1]
ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。
2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。
結婚生活
マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、趣味・気質などの不一致や、ルイの性的不能もあって(後日、その治療を受けるまで子どもは生まれなかった)、思わしくなかったと言われる。彼女はその寂しさや慣れないフランス王室での生活を紛らわすため奢侈に没頭していたという説があり、夜ごと仮面舞踏会で踊り明かしたという。また彼女は大変に移り気かつ享楽的な性格で、読書も嫌いであったという。
母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存する[何処に?])。さらに賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。
また、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させるなどもしていた。母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だった離宮(小トリアノン宮殿)を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。
フランス王妃として
1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。しかし、誰が王妃に下着を渡すかでもめたり、廷臣の地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステイタスであった宮廷内の人々にとっては、アントワネットが彼らが無駄だと知りながらも今まで大切にしてきた特権を奪う形になってしまい、逆に反感を買ってしまった。
また、プチ・トリアノン宮で田舎娘の格好をするのを好み、ここにはポリニャック伯爵夫人などの、極端に寵愛したお気に入りの少数の貴族達のみしか出入りできなかった。
こうした中で、マリー・アントワネットとスウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセンとの浮き名が、宮廷では専らの噂となった。地味な人物である夫のルイ16世を見下している所もあったという。ただしこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。一方、彼女は大貴族達を無視し、彼女の寵に加われなかった貴族達は、彼女とその寵臣をこぞって非難した。
彼らは宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まっていた。ヴェルサイユ以外の場所、特にパリではアントワネットへの中傷がひどかったという。多くは流言飛語の類だったが、結果的にこれらの中傷がパリの民衆の憎悪をかき立てることとなった。
1785年には、マリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルである首飾り事件が発生する。このように彼女に関する騒動は絶えなかった。
これらはルイ16世が側室や愛人を生涯において一人たりとも持たなかったため、格好の標的にされてしまった事も大きい。
フランス革命
1789年7月14日、フランスでは王政に対する民衆の不満が爆発し、フランス革命が勃発した。ポリニャック公爵夫人(伯爵夫人から昇格)ら、それまでマリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは、彼女を見捨てて亡命してしまう。彼女に最後まで誠実だったのは、王妹エリザベートとランバル公妃マリー・ルイーズだけであった。国王一家はヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移されたが、そこでマリー・アントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世に助けを求めようと計画する。
1791年6月20日、計画は実行に移され、国王一家は庶民に化けてパリを脱出する。アントワネットも家庭教師に化けた。フェルセンは疑惑をそらすために国王とマリー・アントワネットは別々に行動することを勧めたが、マリー・アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢な(そして足の遅い)ベルリン馬車に乗ることを主張して譲らず、結局ベルリン馬車が用意された。また馬車に、銀食器、衣装箪笥、食料品など日用品や咽喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積めこまれた。このため元々足の遅い馬車の進行速度を更に遅らせてしまい、逃亡計画を大いに狂わせてしまうこととなった。国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、6月25日にパリへ連れ戻される。このヴァレンヌ事件により、国王一家は親国王派の国民からも見離されてしまう。
1792年、フランス革命戦争が勃発すると、マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が立った。8月10日、パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃し、マリー・アントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズ、ルイ・シャルル、エリザベート王女の国王一家はタンプル塔に幽閉される(8月10日事件)。
タンプル塔では、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見るなど、束の間の家族団らんの時があった。10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。
革命裁判
1793年1月、革命裁判は夫ルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンでの斬首刑とした。息子である王位継承者のルイ・シャルルはジャコバン派の靴屋シモンにひきとられ、ぞんざいな扱いを受けたという。マリー・アントワネットは8月2日にコンシェルジュリー牢獄に移され、その後裁判が行われたが、結果は初めから決まっていた。急進化する革命裁判所は多数の反革命を処刑するための、最初の生贄としてアントワネットを欲していた。しかし、アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、裁判は予想以上に難航。業を煮やした裁判所は息子のルイ17世の非公開尋問をおこない、「母親に性的行為を強要された」とアントワネットが息子に対して無理矢理に近親相姦を犯した旨を証言させた。しかし、この汚い企みに対しアントワネットは裁判の傍聴席にいた全ての女性に自身の無実を主張し、大きな共感を呼んだ。
しかし、この出来事も判決を覆すまでには至らず10月15日、彼女は革命裁判で死刑判決を受け、翌10月16日、コンコルド広場において夫の後を追ってギロチン送りに処せられることとなった。
処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベト宛ての遺書を書き残している。内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった。この遺書は看守から後に革命の独裁者となるロベスピエールに渡され、ロベスピエールはこれを自室の書類入れに眠らせてしまう。遺書はフランス革命後に再び発見され、マリー・テレーズがこの文章を読むのは1816年まで待たなければならなかった。
ギロチン処刑
遺書を書き終えた彼女は、朝食についての希望を部屋係から聞かれると「何もいりません。全て終わりました。」と述べたと言われる。そして白衣に白い帽子を身に着けた。斬首日当日、マリー・アントワネットは特別な囚人として肥桶の荷車でギロチンへと引き立てられて行った(ルイ16世の場合は馬車だった)。コンシェルジュリーを出たときから、髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られていた。その最期の言葉は、死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンの足を踏んでしまった際に発した「ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。でも靴が汚れなくてよかった」だったと伝えられる。
通常はギロチンで処刑の際に顔を下に向けるが、マリー・アントワネットの時には顔をわざと上に向け、上から刃が落ちてくるのが見えるようにされたという噂が当時流れたとの説もあるが、これは真実ではない。しかしこのような噂話が実しやかに語られるほど、彼女に対するフランス国民の憎悪の念が激しかったという証拠にはなろう。12時15分、ギロチンが下ろされ刑が執行された。処刑された彼女を見て群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたという。
死後
遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地[2]に葬られた。後に王政復古が到来すると、新しく国王となったルイ18世は私有地となっていた旧墓地[3]を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。その際、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立った。発見されたマリー・アントワネットの亡骸はごく一部であったが、1815年1月21日、歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂に夫のルイ16世と共に改葬された。
評価
その後、マリー・アントワネットの名誉回復には、結局死後30年以上を要した。現在では、後述の「パンがなければ」の発言をはじめとする彼女に対する悪評は、そのほとんどが中傷やデマだということが判明している。ただし、彼女が一部の寵臣のみ偏愛し、ヴェルサイユの品位の低下などを招いたこと、また無類の浪費家でギャンブルにふけったことは事実であり、彼女個人や王権そのものへの反対者たちによって、それらの失態が多大に誇張されてパリに意図的に流され、彼女や王権に対する悪意と憎悪がことさら生み出された。
しかしながら、マリー・アントワネットの浪費だけでフランス一国の財政が傾いた訳ではない。1778年の場合を例に取ると、王室および特権貴族の出費は3600万リーブルであり国全体の6%程度に過ぎず、彼女の支出はさらにその一部である。フランスのシンボルたる王妃としての体裁を繕うための出費が含まれると考えれば、「彼女がフランス財政を崩壊させた」ということはあり得ないと言える。既にフランスの財政は先代ルイ15世の時代から傾いていた(過去の王達が愛人を多数囲っていたのと戦争により巨額の支出が最大の原因と言われている)のであり、当時の貴族は免税の特権があった。また、アントワネットが所有したと言われる「60万リーブルのドレス」「50万リーブルの耳飾り」と言った豪華な品々も現在では誇張が含まれていたとされ、信憑性が疑問視されている。
マリー・アントワネットに対するフランス国民の怒りは、むしろ革命が始まってからの方が大きかったと言われている。彼女はフランスの情報を実家であるオーストリア皇室などに流し、革命に対する手立てが取れない夫ルイ16世に代わって反革命の立場を取り、あえて旧体制を守ろうとしたのである。このことがフランスの国益を外国に売った裏切り行為ととられ(外敵通牒)、それだけでも死に値する罪状となったのである。彼女自身は王政を維持する為に良かれと思ってした行為が、逆に大革命に火を付け、さらに燃え上がらせる結果となってしまうのである。
このように、不幸な王妃の代表格といわれることも多い。しかし、夫ルイ16世は彼女以外に寵姫や愛人を持つこともなく、断頭台に登る間際まで彼女を案じる手紙(彼女には何の落ち度も無いことを訴える内容のもの)を残すなど、王政廃止から二人が処刑される間のほんの短い間であったとしても、妻としては幸福な一生だったとも言えるだろう。死刑が決定した直後のマリー・アントワネットがエリザベート王女にあてた書簡には、「犯罪者として処刑されるのではないので、何ら恥ずべきことではない」といった内容が記されていた。民衆は、王妃の政治的無知さや、その結果としての民衆への配慮の欠如や、国費の浪費などに対して死刑という判決を下したとも考えられる。しかし、「不幸になって初めて、人は本当の自分が何者であるかを知るものです」という言葉のように、晩年は置かれた現実を把握をしていたとも言える。
「パンがなければ」の発言
マリー・アントワネットは、フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したと紹介されることがある(ルイ16世の叔母であるヴィクトワール王女の発言とされることもある)。原文は、テンプレート:Lang-fr-short、直訳すると「彼らはブリオッシュを食べるように」となる。ブリオッシュは現代ではパンの一種の扱いであるが、かつては原料は小麦粉・塩・水・イーストだけのパン(フランスパン)でなく、バターと卵を使うことからお菓子の一種の扱いをされていたものである。お菓子ではなくケーキまたはクロワッサンと言ったという変形もある。なおフランスを代表するイメージであるクロワッサンやコーヒーを飲む習慣は、彼女がオーストリアから嫁いだ時にフランスに伝えられたと言われている。
しかし、これはマリー・アントワネット自身の言葉ではないことが判明している[4]。ルソーの『テンプレート:仮リンク[5]』(1766年頃執筆)の第6巻に、ワインを飲むためにパンを探したが見つけられないルソーが、“家臣からの「農民にはパンがありません」との発言に対して「それならブリオッシュを食べればよい」とさる大公夫人が答えた”ことを思い出したとあり、この記事が有力な原典のひとつであるといわれている。庇護者で愛人でもあったヴァラン夫人とルソーが気まずくなり、マブリ家に家庭教師として出向いていた時代(1740年頃)のことという。
テンプレート:仮リンクは、1843年に出版した『悪女たち』の中で、執筆の際にはこの発言は既にマリー・アントワネットのものとして流布していたが、1760年出版のある本に「トスカーナ大公国の公爵夫人」のものとして紹介されている、と書かれている。実際はこれは彼女を妬んだ他の貴族達の作り話で、彼女自身は飢饉の際に子供の宮廷費を削って寄付したり、他の貴族達から寄付金を集めるなど、国民を大事に思うとても心優しい人物であったとされる。トスカーナは1760年当時、マリー・アントワネットの父であるフランツ1世(フランツ・シュテファン。神聖ローマ帝国皇帝)が所有しており、その後もハプスブルク家に受け継がれたことから、こじつけの理由の一端になった、ともされる。
人物
音楽
上記の通りウィーン時代にグルックらから音楽を教わっていた。また彼女が7歳だった1762年9月、各国での演奏旅行の途上、シェーンブルン宮殿でのマリア・テレジアを前にした御前演奏に招かれたモーツァルト(当時6歳)からプロポーズされたという音楽史上よく知られたエピソードも持つ。
後年、ルイ16世の元に嫁いでからもハープを愛奏していたという。タンプル塔へ幽閉された際もハープが持ち込まれた。歌劇のあり方などをめぐるオペラ改革の折にはグルックを擁護し、彼のオペラのパリ上演の後援もしている。
なおマリー・アントワネットは作曲もし、少なくとも12曲の歌曲が現存している。彼女の作品の多くはフランス革命時に焼き捨てられ、ごく一部がパリ国立図書館に収蔵されているのみである。近年では“C'est mon ami”(それは私の恋人)などの歌曲がCDで知られるようになった。
2005年には漫画『ベルサイユのばら』の作者でソプラノ歌手の池田理代子が、世界初録音9曲を含む12曲を歌ったCD「ヴェルサイユの調べ~マリー・アントワネットが書いた12の歌」をマリー・アントワネットの誕生日である11月2日に発売し、この曲が2006年上演の宝塚歌劇『ベルサイユのばら』で使用された。
このマリー・アントワネットの曲集は日本で世界初の楽譜[6]も出版された。
入浴・香水
マリー・アントワネットが幼少期を過ごしたオーストリアには当時から入浴の習慣があった。母マリア・テレジアも幼い頃から彼女に入浴好きになるよう教育している。入浴の習慣がなかったフランスへ嫁いだ後も彼女は入浴の習慣を続け、幽閉されたタンプル塔にも浴槽が持ち込まれたという記録がある。
入浴をする習慣は、体臭を消すという目的が主だった香水に大きな影響をもたらした。マリー・アントワネットは当時のヨーロッパ貴族が愛用していたムスクや動物系香料を混ぜた非常に濃厚な東洋風の香りよりも、バラやスミレの花やハーブなどの植物系香料から作られる軽やかな香りの現代の香水に近い物を愛用し、これがやがて貴族達の間でも流行するようになった。もちろん、このお気に入りの香水もタンプル塔へ持ち込まれている。
家具
家具に非常に興味を持っており、世界中から沢山の木材を取り寄せた。マホガニー、黒檀、紫檀、ブラジル産ローズウッドなどを使い家具を作らせた。珊瑚や銀も家具の装飾用として使われた。ドイツ人家具職人を多く抱えルイ16世様式の家具を多く貴族に広めている。また日本製や中国製の家具や漆工芸品をとても好んでおり、マリア・テレジアからも贈られている。これらは現在もルーブル美術館に展示されている。
ファッションリーダー
王妃になってまもなく、テンプレート:仮リンクという新進ファッションデザイナーを重用する。ベルタンのデザインするドレスや髪型、宝石はフランス宮廷だけでなく、スペインやポルトガル、ロシアの上流階級の女性たちにも流行し、アントワネットはヨーロッパのファッションリーダーとなっていった。 何より女性達の視線を集めたのがその髪型で、当初は顔の1.5倍の高さだった盛り髪スタイルは徐々にエスカレートし、飾りも草木を着けた“庭ヘアー”や船の模型を載せた“船盛りヘアー”など、とにかく革新的なスタイルで周囲の目を惹きつけた。
即位後最初の数年間を過ぎてからは、簡素なデザインのものを好むようになった。[7] この頃ベルタンはアントワネットのために袖や長い裳裾を取り払ったスリップドレスをデザインしている。
現代においても、ロリータ・ファッションのシーンではアイコン的存在として雑誌等に取り上げられる機会が多い。
容姿
テンプレート:要出典範囲 裁縫師のエロフ夫人の日誌によると、ウエストは58~59cm、バストが109cmで、当時のモードに合った体型であった。[8]
顔は瓜実顔で額が広すぎ、鼻は少し鷲鼻気味で、顎がぼってりし、『ハプスブルク家の下唇』と言われる特徴があった。しかし、輝くばかりの真珠のような白い肌と、眩い金髪を持つ魅力的な容姿であった。 教育係であったド・ヴェルモン神父は、「もっと整った美しさの容姿を見つけ出すことはできるが、もっとこころよい容姿を見つけ出すことはできない。」と、王妃の小姓であったド・ティリー男爵は、「美しくはないが、すべての性格の人々をとらえる眼をしている。」「肌はすばらしく、肩と頸もすばらしかった。これほど美しい腕や手は、その後二度とみたことがない。」と、王妃の御用画家であったルブラン夫人は「顔つきは整っていなかったが、肌は輝かんばかりで、すきとおって一点の曇りもなかった。思い通りの効果を出す絵の具が私にはなかった。」と述べている。[9]
身のこなしの優雅さでも知られ、前述のド・ティリー男爵は「彼女ほど典雅なお辞儀をする人はいなかった。」、ルブラン夫人は「フランスじゅうで一番りっぱに歩く婦人だった。」と述べている。[10]
子女
- マリー・テレーズ - アングレーム公爵夫人(1778年12月19日 - 1851年10月19日)
- ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワ (王太子)(1781年10月22日 - 1789年6月4日)
- ルイ・シャルル(王太子、ルイ17世)(1785年3月27日 - 1795年6月8日)
- マリー・ソフィー・ベアトリス(1786年7月29日 - 1787年6月19日)
4人の子供たちはいずれも子を残していないため、直系の子孫はいない。
登場作品
小説
- 王妃マリー・アントワネット (遠藤周作 朝日新聞社、1979年-1980年 のち新潮文庫)
マンガ
- ベルサイユのばら - ルイ15世末期からフランス革命前後までのヴェルサイユ宮殿を舞台とした漫画。
アニメーション
- ラ・セーヌの星 - フランス革命の頃のパリが舞台のテレビアニメ。
映画
- マリー・アントアネットの生涯 - W・S・ヴァン・ダイク監督、ノーマ・シアラー主演のマリー・アントワネットを主人公にした原作シュテファン・ツヴァイク『テンプレート:仮リンク』の映画化。
- マリー・アントワネット (映画) - ソフィア・コッポラ監督、キルスティン・ダンスト主演のマリー・アントワネットを主人公にした青春映画。
劇
- マリー・アントワネット (ミュージカル) - 遠藤周作の小説『王妃マリー・アントワネット』を原作としたミュージカル。
- 首のない王妃・マリーアントアネットのその後 (博品館劇場2012年9月舞台、武田光太郎主演)
ラジオドラマ
- フランツ・ルフレルの天使たち-杉崎智介のle Salon テレビ東京InterFM - フランス革命前後のマリー・アントワネットを描いたラジオドラマ。(声:ReeSya)、脚本・杉崎智介
その他
- マリー・アントワネットの生涯 (藤本ひとみ 中央公論社、1998年7月 のち文庫)
- マリー・アントワネット (ジョーン・ハスリップ/櫻井郁恵訳 近代文芸社、1999年6月)
- マリー・アントワネット (アントニア・フレイザー/野中邦子訳、2006年12月 ハヤカワ文庫)
- 王妃マリー・アントワネット 華やかな悲劇のすべて (藤本ひとみ、角川書店 2008年6月)
- マリー・アントワネット曲集 王妃様の作った愛の歌 (佐伯真魚、中央アート出版社、2010年6月)
参考文献
- 王妃マリー・アントワネット 青春の光と影 (藤本ひとみ 角川書店、2006年10月)
- マリ=アントワネット (アンドレ・カストロ/村上光彦訳、みすず書房、1972年)
以下、脚注にないもの。
- マリー・アントワネット (フランク・W.ケニョン/岡田真吉訳、潮書房、1956年)
- マリー・アントワネット (アレクサンドル・デュマ/木村毅、大倉燁子訳、小山書店新社、1957年)
- マリー・アントワネット 或る月並な女人の肖像 (ツヴァイク/山下肇訳 角川文庫、1958年-1959年)
- デュバリー伯爵夫人と王妃マリ・アントワネット ロココの落日 (飯塚信雄、文化出版局、1985年3月)
- 物語マリー・アントワネット (窪田般弥、白水社、1985年1月)
- 王妃マリー・アントワネット (エヴリーヌ・ルヴェ/塚本哲也監修、遠藤ゆかり訳、創元社「知の再発見」双書、2001年11月)
- マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡 (パウル・クリストフ編/藤川芳朗訳、岩波書店、2002年9月)
- マリー・アントワネットとヴェルサイユ 華麗なる宮廷に渦巻く愛と革命のドラマ (新人物往来社(別冊歴史読本)、2003年8月)
- ロココの花嫁マリー・アントワネット ベルサイユへの旅路 (ケーラー・鹿子木美恵子、叢文社、2005年5月)
- マリー・アントワネット38年の生涯 断頭台に散った悲運の王妃 (新人物往来社(別冊歴史読本)、2008年1月)
- マリー・アントワネットとフランスの女たち 甘美なるロココの源流 堀江宏樹 春日出版, 2008.8.
- マリー・アントワネットの「首飾り事件」 (アンタール・セルプ/リンツビヒラ裕美訳、彩流社、2008年10月)
- 王妃マリー・アントワネット (新人物往来社 編(ビジュアル選書)、2010年4月)
- 王妃マリー・アントワネット 美の肖像 (南川三治郎写真、世界文化社、2011年3月)
- マリー・アントワネット運命の24時間 知られざるフランス革命ヴァレンヌ逃亡 (中野京子、朝日新聞出版、2012年2月)
脚注
関連項目
- マリア・ルイーザ (パルマ女公) - 兄レオポルト2世の孫で、やはりフランスへ嫁いだ。
- 首飾り事件
- ホープダイヤモンド
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- ↑ 角川書店 藤本ひとみ 王妃マリー・アントワネット―青春の光と影 P126「はみ出し者」~P159「元旦のできこと」まで。同筆者 マリー・アントワネット物語(中) 恋する姫君より。
- ↑ 当時のアンジュー通りの角で、寺院の敷地の外であり、パリ8区にある現在のマドレーヌ寺院とはかなり離れている。贖罪教会は旧敷地の一部に立ち、ルイ18世が兄夫妻の冥福を祈って建てさせたものである
- ↑ 1794年3月25日に墓地は閉鎖されていた
- ↑ 『学習漫画 世界の伝記 マリー・アントアネット』集英社
- ↑ テンプレート:Cite wikisource
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ アンドレ.カストロ『マリ=アントワネット1』、211頁。
- ↑ アンドレ.カストロ『マリ=アントワネット2』、298頁。
- ↑ アンドレ.カストロ『マリ=アントワネット2』、5、185-187頁。
- ↑ アンドレ.カストロ『マリ=アントワネット2』、186頁。