ひらかた大菊人形
ひらかた大菊人形(ひらかただいきくにんぎょう)は、京阪電気鉄道の主催で、2000年代中頃まで毎年10月上旬から11月下旬(年によっては9月から12月に延びる場合もあった)に、大阪府枚方市にある遊園地「ひらかたパーク」で行われていた菊人形の展覧会である。
目次
歴史
1910年(明治43年)10月15日、京阪本線の天満橋駅 - 五条駅(現・清水五条駅)間の開業記念事業として東京両国国技館で開催されていた菊人形に着目。名古屋の黄花園主と契約、大阪府北河内郡友呂岐村(現在の寝屋川市)にあった「香里遊園地」で第1回菊人形を開催、京阪電車で往復乗車の観客には入場無料・関係先に招待券を配布するなどの積極策をとり成功を収めた。翌1911年も内容を充実して菊人形展が開催されたが前年以下の成績で、香里園遊園地の土地も住宅地として売却されてしまった。香里園遊園地の代替として枚方駅(現在の枚方公園駅)の側に約1万平方メートルの土地を購入し、岐阜菊楽園の浅野善吉を中心とする菊師らによって1912年(大正元年)10月6日 - 11月25日第3回菊人形が開催された。以後1918年(大正7年)まで順調に続けられたが、金銭トラブル(電車の乗客数に対してのバックマージンの金額で折り合いが付かなかった)で岐阜菊楽園が請負を辞退した。
そのため宇治で菊人形展開催を熱望していた料亭の主人「別所吉松」との話し合いの結果、1919年(大正8年)宇治橋と国鉄宇治駅の間に新たな菊人形館を建てて開催された。枚方時代より優れた菊人形が名人によって製作され、水戸・高松の芸妓の余興を見せたのに好評では有ったが毎年欠損を出し、1922年(大正11年)の菊人形展終了後に火災で菊人形館が焼失、宇治での開催は不可能になった。そこに南海鉄道の後援で堺大浜で菊人形を興業していた東京相撲協会年寄、春日野・中田の両名から枚方に移したいとの申し入れが有り、大浜の菊人形館を枚方に移築して1923年(大正12年)の菊人形展が枚方に戻って来た。1924年(大正13年)には本館・余興館・ボート池・滑り台・ブランコなどが整備され、1925年(大正14年)には枚方遊園は実質京阪電気鉄道の経営となった。これが『ひらかたパーク』の起源である。
その後、太平洋戦争で菊人形展は1943年(昭和18年)の「戦力増強決戦菊人形」の後、枚方遊園一帯は軍需工場や農地に転用されることになり1944年(昭和19年)・1945年(昭和20年)は開催中止(この間に京阪は阪神急行電鉄と合併して京阪神急行電鉄と改称)。1947年(昭和22年)と1948年(昭和23年)は、農地調整法の影響で菊人形館一帯が復旧していなかったため、現在の関西大学の敷地内にあった吹田の千里山花壇(千里山遊園)で「千里山ひらかた菊人形」として開催(千里山花壇では、これ以前にも菊人形展を開催していた実績があった)。京阪が阪急と分かれる直前の1949年に枚方に戻り、以後毎年、ひらかたパークの秋の風物詩として開催されるようになった。
開催地は同遊園地のイベントホールで、その同ホールを菊いっぱいに彩る菊の祭典。主にNHKの大河ドラマ等をテーマに何場面かに分けて其々の違った菊の雰囲気を醸し出す。菊の匂いに引き込まれそうなその人形は将に大河ドラマなど題材となった作品を忠実に再現したようで見る者を感動させた(大河ドラマが現代ものとなった場合は他のテーマとなった。1984年から1986年はNHK新大型時代劇をテーマとした。また時代ものでも題材が「徳川家康」だったときには土地柄により別テーマとなった。)。
しかし、菊人形を製作する“菊師(きくし)”の高齢化と後継者不足などを理由に、2005年12月4日、第94回大会「義経」の閉幕をもって「ひらかた大菊人形」は毎年行われる開催としては96年の歴史に幕を下ろした。
ひらかた大菊人形に関する主なデータ
入場料
5銭から始まって8銭、15銭、30銭、35銭、40銭、50銭、65銭、70銭、5円、20円、50円、80円、100円、120円、130円、150円、180円、200円、230円、260円、300円、350円、380円、400円、550円、700円、800円、900円、1000円、1200円と来て現行の1300円になったのは1991年(平成3年)の第80回記念大会/「太平記」から。2010年・2012年ひらかたパークの入場料と別に入館料400円。
場面数最多記録
第1位は1975年(昭和50年)の第64回大会/「にっぽんの祭り」で場面数は何と37場面。第2位は1973年(昭和48年)の第62回大会/「東海道」と1970年(昭和45年)の第59回大会/「古都絵巻」で共に33場面。第4位は1959年(昭和34年)の第48回大会/「浮世絵風俗絵巻」で32場面と続いている。
記念大会での場面数最多記録
記念大会とは下一桁の数字が0か5の大会数のことで5年に1度、開催された。ここでの第1位は1966年(昭和41年)の第55回記念大会/「江戸」で場面数は何と32場面。第2位は1976年(昭和51年)の第65回記念大会/「伝統六十五年名作絵巻」と1981年(昭和56年)の第70回記念大会/「おんな太閤記」で共に30場面。第4位は1956年(昭和31年)の第45回記念大会/「義経絵巻」で27場面と続いている。なお、記念大会は2001年(平成13年)の第90回記念大会/「源氏物語」を最後に終わった。
ひらかた大菊人形テーマ(過去50年)
- 年度-回数-テーマ
- 1942年-第--回-大東亜戦争
- 1955年-第44回-古今演劇名舞台
- 1956年-第45回-義経絵巻
- 1957年-第46回-伝統50年の特集
- 1958年-第47回-大阪城物語
- 1959年-第48回-浮世絵風俗絵巻
- 1960年-第49回-名作絵巻物語
- 1961年-第50回-中国物語絵巻
- 1962年-第51回-お国自慢
- 1963年-第52回-お祭り百景
- 1964年-第53回-赤穂浪士
- 1965年-第54回-王将一代
- 1966年-第55回-江戸
- 1967年-第56回-汽笛一声
- 1968年-第57回-ふるさとの祭
- 1969年-第58回-天と地と
- 1970年-第59回-古都絵巻
- 1971年-第60回-天皇の世紀
- 1972年-第61回-新・平家物語
- 1973年-第62回-東海道
- 1974年-第63回-勝海舟
- 1975年-第64回-にっぽんの祭り
- 1976年-第65回-伝統65年名作絵巻
- 1977年-第66回-花神
- 1978年-第67回-太閤秀吉
- 1979年-第68回-源義経
- 1980年-第69回-西遊記
- 1981年-第70回-おんな太閤記
- 1982年-第71回-忠臣蔵絵巻
- 1983年-第72回-浪華
- 1984年-第73回-宮本武蔵
- 1985年-第74回-真田太平記
- 1986年-第75回-武蔵坊弁慶
- 1987年-第76回-独眼竜政宗
- 1988年-第77回-武田信玄
- 1989年-第78回-春日局
- 1990年-第79回-翔ぶが如く
- 1991年-第80回-太平記
- 1992年-第81回-信長
- 1993年-第82回-炎立つ
- 1994年-第83回-花の乱
- 1995年-第84回-八代将軍 吉宗
- 1996年-第85回-秀吉
- 1997年-第86回-毛利元就
- 1998年-第87回-徳川慶喜
- 1999年-第88回-元禄繚乱
- 2000年-第89回-葵
- 2001年-第90回-源氏物語
- 2002年-第91回-利家とまつ
- 2003年-第92回-武蔵
- 2004年-第93回-新選組
- 2005年-第94回-義経
- 2010年-第95回-龍馬伝
- 2012年-第96回-平清盛
枚方の菊人形その後
2005年をもって100年近い歴史を閉じた「ひらかた大菊人形」ではあるが、枚方で菊人形を見ることができなくなったわけではない。かつてのような大掛かりな大菊人形展はなくなったが、翌年以後もひらかたパークでは菊人形の何体かを飾っている。また、「ひらかた大菊人形」が閉幕する以前から、枚方市が主催する講習会で市民ボランティアが菊人形作りを学んでおり、閉幕の翌年から、枚方市民会館前などで、市民ボランティアが作成した菊人形が飾られている。菊の季節には、市民が育てたたくさんの菊の花も市民会館周辺や京街道沿いに飾られている。このように、かつての民間遊園地の集客事業としての菊人形から、市民に根ざした地域文化として菊人形を存続させていく方向で、関係団体や市民が動いているのが現在の状況である。
2010年秋は、京阪電車開業100周年記念として、10月9日~11月28日の期間復活開催された[1][2]。
2012年秋、ひらかたパーク開業100周年を記念して、10月6日から11月25日までの期間で「大菊人形祭」が復活した[3]。この年の菊人形展では、竹と藁でつくった「胴殻」に,根の周りに水苔を巻いた菊をU字型に曲げて取り付ける、という伝統的な菊人形のほかに、「トピアリー菊人形」という新しい技術を使った菊人形も登場した。後者の場合、園芸用の支柱と針金で胴殻を作り,鉢植えの菊をそれに沿って育ててゆく、という手法を使っている。
脚注
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:PDFlink (京阪電鉄 平成22年6月8日付けプレスリリース)
- ↑ ひらかたの秋 菊人形祭 時代を変えた男 平清盛と源頼朝ひらかたパーク