山崎達之輔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年1月31日 (金) 08:16時点におけるOmaemona1982 (トーク)による版
山崎 達之輔(やまざき たつのすけ、1880年(明治13年)6月19日 - 1948年(昭和23年)3月15日)は、日本の官僚、政治家。1924年(大正13年)以来衆議院議員総選挙に連続7回当選した。
来歴・人物
福岡県大川市出身。自治大臣を務めた山崎巌は達之輔の弟にあたる。また、元国土庁長官の山崎平八郎は達之輔・巌兄弟の甥にあたるが、平八郎の実父・四郎(達之輔の弟で巌の兄)が早世したため、子供のいない達之輔が平八郎を引き取って実の息子のように育てた。そのため人名事典等で「山崎平八郎は達之輔の息子」という記述が見られることがある。
後の衆議院議長・保利茂は山崎が岡田内閣の農林大臣時代に農相秘書官を務めた。故に保利は山崎の弟子であるといえる。
略歴
- 1906年(明治39年):京都帝国大学法科大学独法科を卒業し、台湾総督府参事官として官界に入り、その後文部省に転じる。
- 1924年(大正13年):退官して郷里の福岡県第13区[1]から無所属で第15回衆議院議員総選挙に立候補し初当選[2]。初め中正倶楽部に属したが、その後立憲政友会に転じた。
- 1927年(昭和2年):田中義一内閣の文部政務次官に就任。
- 1928年(昭和3年):中選挙区制に変更されてから最初に行われた衆議院議員総選挙である第16回衆議院議員総選挙に福岡県第3区から政友会公認で立候補し2度目の当選[3]。
- 1930年(昭和5年):第17回衆議院議員総選挙に政友会公認で立候補し3度目の当選[4]。
- 1932年(昭和7年):第18回衆議院議員総選挙に政友会公認で立候補し4度目の当選[5]。
- 1934年(昭和9年):岡田内閣に党議に反して農林大臣として入閣したため政友会を除名。
- 1935年(昭和10年):床次竹二郎ら他の政友会除名・脱党組とともに昭和会を結党。
- 1936年(昭和11年):第19回衆議院議員総選挙に昭和会公認で立候補し5度目の当選[6]。
- 1937年(昭和12年):林内閣の農相兼逓信大臣として入閣。この頃より親軍的新党の結党を目指す。第20回衆議院議員総選挙に昭和会公認で立候補し6度目の当選[7]。
- 1939年(昭和14年):旧昭和会のうち政友会出身者とともに政友会革新同盟(総裁・中島知久平)に合流。
- 1940年(昭和15年):聖戦貫徹議員連盟を結成、大政翼賛会総務に就任。
- 1942年(昭和17年):第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦候補として立候補し7度目の当選[8]。翼賛政治会政調会長に就任。その後常任総務、代議士会長を歴任。
- 1943年(昭和18年):東條内閣の農相として入閣。その後農商務大臣となる。
- 1945年(昭和20年):日本進歩党の結党に参加。
- 1946年(昭和21年):公職追放。
- 1948年(昭和23年)3月15日:不遇のうちに67歳で死亡。
業績
- 文部省時代は普通学務局長、図書監査官等を歴任した。
- 政友会では政調会長、総務等を歴任した。
脚注・出典
関連項目
- 福岡県出身の人物一覧
- 京都大学の人物一覧
- 旧制第五高等学校 - 山崎が学んだ旧制高校。
- ↑ 当時の総選挙の選挙区制度は小選挙区制だった。
- ↑ 第15回衆議院議員選挙 - 福岡13区 - 株式会社VoiceJapanが運営する選挙と政治の総合サイト・ザ・選挙内のページ。
- ↑ 第16回衆議院議員選挙 - 福岡3区 - ザ・選挙内のページ。
- ↑ 第17回衆議院議員選挙 - 福岡3区 - ザ・選挙内のページ。
- ↑ 第18回衆議院議員選挙 - 福岡3区 - ザ・選挙内のページ。
- ↑ 第19回衆議院議員選挙 - 福岡3区 - ザ・選挙内のページ。
- ↑ 第20回衆議院議員選挙 - 福岡3区 - ザ・選挙内のページ。
- ↑ 第21回衆議院議員選挙 - 福岡3区 - ザ・選挙内のページ。