「水城」の版間の差分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(画像追加。) |
(相違点なし)
|
2014年1月26日 (日) 17:40時点における最新版
水城(みずき)は、7世紀中頃に構築された国防施設。現在の福岡県大野城市から太宰府市にかけてあった。
1921年3月3日、水城跡(みずき あと)ととして特別史跡に指定。史跡指定面積15万0805.80平方メートル。
歴史
『日本書紀』には次のことがらが記されているので、水城構築の背景には安全保障上の並々ならぬ懸念があったことが分かる。
- 663年、日本は百済に味方して朝鮮半島で唐・新羅連合軍と戦ったが大敗した(白村江の戦い)。
- 当時称制を執っていた中大兄皇子は、唐・新羅がさらには博多湾から大宰府に攻め込むことを想定し、万一の場合に備えて翌664年に水城を築かせた。
- 翌665年には北九州から瀬戸内海沿岸にかけて大野城、基肄城、長門城などの古代山城(朝鮮式山城)を築かせた。
- 667年には都を内陸部の近江大津宮に遷した。
- その翌年の正月に中大兄皇子はやっと即位した(天智天皇)。
- 築城にあたっては、亡命百済人の憶礼福留(おくらいふくる)、四比福夫(しひふくふ)が建設の指揮を執った。
後年、1274年の文永の役では、襲来する蒙古軍に対する防衛線として改修が施されたが、ここが実際に戦場となることはなかった。
構造と用途
水城は、博多湾方面からの攻撃から大宰府を守るための防御線となる直線状の堀と土塁である。土塁は、高さ10メートル以上、幅80メートル、長さ1.2キロメートルあり、その博多湾側にあった堀は、幅60メートル、深さ4メートルで水を貯えていた。土塁には2箇所に開口部があり、そこに門があったことが発掘によって確認されている。土塁の内部には、御笠川から堀に水を流すための木樋が通っている。
南西の尾根を越えた場所には、現在は小水城(しょうみずき)と呼ばれる長さ80メートルの土塁がある。これは、主要部の水城と合わせて大宰府を防御するための施設だと考えられている。
大宰府政庁跡に隣接して設けてある「大宰府展示館」では、水城を俯瞰するパノラマや、構造を示すレプリカを見ることができる。
- Mizuki zenkei.JPG
全景(東南側より)
- Mizuki sokumen.JPG
側面(東側より)
- Mizuki toi.JPG
木樋(復元)
- Mizuki higashi-mon soseki.JPG
東門跡礎石
用途の異説
水城の用途についてはこれが単なる城壁ではなく、いざという時は御笠川をせき止め、外側の空堀に敵兵が入ってきた所へ水を一気に放流してこれを押し流すためのものだとする説がある。ただし、水をせき止めるには不都合な門と木樋の存在、そして小水城の存在意義を考えると、この説は説得力に欠けるという見方もある。
現在に残る名称
- 九州旅客鉄道の鹿児島本線には「水城駅」という駅がある。
- 太宰府市には「水城」という地名がある。
- 太宰府市には水城小学校がある。
- 大野城市には「小水城」という地名がある。
- 春日市平田台に「水城寺(すいじょうじ)」という法華宗陣門流の寺がある。
関連項目
参考文献
- 太宰府市 編、『太宰府市史』
- 筑紫豊『さいふまいり』西日本新聞社、1976年
- 森弘子『太宰府発見』海鳥社、2003年、ISBN 4-87415-422-0
- 浦辺登『太宰府天満宮の定遠館』弦書房、2009年、ISBN 978-4-86329-026-6
外部リンク
- 大野城市教育委員「歴史と文化財」
- 国指定文化財等データベース → 以下を入力して「検索」をクリック:
- 名称: 水城跡(記入)
- 文化財分類: 史跡名勝天然記念物(プルダウン)
- 種別: 特別史跡(ボックス)
- 都道府県: 福岡県(プルダウン)