宮本隆治

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テンプレート:基礎情報 アナウンサー 宮本 隆治(みやもと りゅうじ、1950年10月8日 - )は、ノースプロダクション(旧イースト・プロダクション)所属のフリーアナウンサータレント司会者である。サイバー大学客員教授。元NHKアナウンサー

略歴

福岡県門司市(現:北九州市門司区)出身。母親はボランティア活動に熱心であり、父親は市長秘書でGHQの通訳も務めていた。多忙な両親のために、幼い頃から自分と弟の食事を作ることも多かった。この時に『きょうの料理』を視聴していたのが、NHKとの出会いであった。小学生時代にはボーイスカウトに入団。制服が好きで毎日のように着ていたという。とにかく好奇心が旺盛で、合唱や落語、相撲に興味を持つ。中学生の頃に自身の声が西郷輝彦の声に似ていると言われ、ものまねをしたことがきっかけとなり、特技が「ものまね」になった。NHKの採用面接でも「声帯模写」として面接官の前で披露したという。

私立明治学園中学校福岡県立小倉高等学校と進学し、高校ではESSに入部、部長を務めた。加山雄三に憧れ、加山の後輩になりたいと思い、1969年慶應義塾大学文学部に進学。馬術部に入部したが、友人の誘いで少林寺拳法部へ見学に行ったところ、先輩に入部させられた。少林寺拳法の全国大会で場内アナウンスを担当したことから、アナウンサーという仕事に喜びとやりがいを感じ、将来の夢として志望することになる。

1973年に慶應義塾大学を卒業しNHKへ入局。同期に大塚範一池上彰らがいる。目標は『NHK紅白歌合戦』の司会を務めることであった(入局23年目の1995年に実現し、以後2000年まで6年連続で総合司会を務めた)。元々は民放志望だったが、宮本が就職活動をしていた年はアナウンサーの採用がどこの局も少なく、一部の在京キー局ではアナウンサーの採用を行わなかった程であった。それにより、アナウンサー試験は例年にない程の相当な狭き門となっていた。結局、フジテレビの採用試験を受験するも落ちたという[1]

初任地は帯広放送局1973年6月8日 - 1977年3月)。帯広放送局勤務時代に結婚。妻は高校生の時に北九州のデパートでアルバイトをしていた頃に知り合った女性で学生時代からの遠距離恋愛を成就させ結婚。その後、2女を儲ける。長女はフリーアナウンサーの宮本優香(元宮崎放送アナウンサー)。帯広放送局での勤務後、京都放送局(1977年4月-1981年3月)→東京アナウンス室(1981年4月-1993年3月)→福岡放送局(1993年4月-1995年3月)→東京アナウンス室(1995年4月-2007年3月)の順に勤務。NHKや民放とは違う第3のアナウンサー像を目指し、人気を集め、主に芸能・音楽番組を中心に出演した。最終役職は「エグゼクティブアナウンサー」(民放では局長級)。

2007年、NHK独自の「役職定年制度」による定年退職の期限を迎えたことから、今後の出処進退を考えた際、「喋る仕事にこだわりたい」として3月末で退職、フリーとなる。定年退職後3年間は嘱託職員という形で、NHKにアナウンサーとして残留することもできたが、その選択肢は選ばなかった。その後、女性初のNHKアナウンス室長を務めた山根基世、定年後は跡見学園女子大学で教鞭をとりながらフリーで仕事を続けていた広瀬修子とともに、有限責任事業組合ことばの杜」を立ち上げた。後にイーストプロダクション所属となり各方面で活動中。民放初出演は日本テレビ週刊オリラジ経済白書』である。その後は日本テレビのスペシャル番組『モクスペ』(2009年3月終了)にも不定期で出演するなど、テレビでは日本テレビにのみ出演していたが、後に様々な局に出演するようになった。

NHK時代には紅白など音楽番組の司会経験が豊富であったことから、フリー転身後も歌謡番組の司会を務めることが多い。

佐々木正洋(元テレビ朝日アナウンサー)は宮本の出身中学・高校・大学の4期後輩である。また、須田哲夫(フジテレビゼネラルアナウンサー)は大学の2年先輩で、堺正幸(元フジテレビアナウンサー)は大学の2年後輩にあたる。3年後輩には陣内誠(元フジテレビアナウンサー)・福井謙二(元フジテレビアナウンサー)がいる。

エピソード

  • 高校生時代通った北九州市小倉北区にあるラーメン店「四方平」には、毎年正月にサインを送っている。
  • NHK北九州放送局地上デジタル放送を始めるにあたり、『NHKのど自慢苅田町大会の放送の合間を利用して帰省し、PR用のCMを撮影。放送開始前に大量にスポットCMとして放映された。
  • NHKに同期入局した大塚範一(大塚の初任地はNHK広島放送局)が初代男性司会者を務めたフジテレビめざましテレビ』内で宮本のフリー転身の話題が取り上げられた際、大塚は、宮本の退職はNHKと良好な関係を保った上でのものと推測コメントをした。実際、フリー転身後も宮本はNHKに定期出演している(ただし、フリー転身直後はNHK出演は皆無だった)。
  • 業界内では「久保純子の育ての親」として有名である。久保も宮本のことを尊敬している。
  • 普段から沢山の荷物を持ち歩いている。自身のカバンの中には数多くの道具が入っている。
  • 『NHK紅白歌合戦』で初総合司会担当が決まった際、大晦日が来るのが怖かったと話している[2]。また、紅白の総合司会を6年連続担当を最後に降板となった際、「アドリブが利かない」ことなどが原因と当時週刊誌で報じられた。後に『ゲンダイネット』(2007年2月5日付)は「(宮本が行っていた)講演会や結婚式の司会など過ぎた“副業”が問題視されたため」との芸能記者の話を掲載した。
  • 名目上の退職日は2007年3月31日だが、実際は翌4月1日に『のど自慢』を降板する予定であった。しかし、3月25日能登半島地震が発生。関連報道のため休止となり、正式にNHKを去ったのは4月8日となった。
  • 2006年度の上智大学の学内誌「ソフィア」は『NHKのど自慢』を特集に取り上げ、宮本自身も招かれた。
  • 趣味の一つにラテンダンスがある。
  • 慶応義塾大学の先輩で憧れていた加山雄三の冠番組若大将のゆうゆう散歩』(テレビ朝日)でナレーションを務めており、番組内のテロップでは宮本の名前の上に「若大将の後輩」と記載される。ナレーションのオファーについて、加山が番組スタッフと相談し決めた。
  • NHK時代にナレーションを担当した「青海チベット鉄道」は、 フィラーに再編集され、2014年現在でも早朝に頻度高く放送されている。

出演作品

現在のレギュラー出演番組

司会
ナレーション

過去の主な出演番組

NHKアナウンサーとして

フリー転身後

2007年
総合司会を同局アナウンサーの宮崎宣子と担当した。これは同系で放送される大晦日から元日の番組を生放送で繋ぐプログラムである。
2008年
2009年
2010年
2011年
2012年
  • niconicoNews2525(ニコニコ動画)2012年エンドロール
  • Talk Bar 銀河〜オトナのイチオシ!(チャンネル銀河、4月- ) ナビゲーター
2013年
  • 池上彰&宮本隆治が懐かしの名曲で綴る昭和の大ニュース!(9月7日、BSジャパン)司会

CD

  • 「宮本隆治の"千の風になって"」(WNCD-7)
  • 金沢の雨(デュエット・バージョン)」(川中美幸・宮本隆治、TECA-10117)
  • 「NHK歌謡コンサート熱唱! 〜華麗なる歌舞台〜」(ナレーションとして)

イベント司会

CM

  • 龍角散「龍角散ダイレクト」(2011年~)

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. 1973年度にフジテレビへ入社したのは、増田明男海野まり子である。
  2. http://ichimon.main.jp/no37/37miyamoto.html 紅組司会・短期養成講座 宮本隆治

関連項目

外部リンク

テンプレート:NHK紅白歌合戦 総合司会 テンプレート:スタジオパークからこんにちは司会者 テンプレート:散歩シリーズ