糸魚川静岡構造線

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糸魚川静岡構造線(いといがわしずおかこうぞうせん、テンプレート:Lang-en-short)とは、親不知新潟県糸魚川市)から諏訪湖を通って、安倍川静岡市駿河区)付近に至る大断層線である。略称は糸静線(いとしずせん)。全長は140〜150kmで、北は長野県小谷村付近から南は山梨県南アルプス市付近に達し、「北部」(神城断層、松本盆地東縁断層)、「中部」(牛伏寺断層、諏訪断層群、岡谷断層群、釜無山断層群)、「南部」(白州断層、下円井断層、市之瀬断層群)の3つの断層帯で構成される。

山梨県早川町新倉には糸魚川静岡構造線の逆断層露頭があり、2001年に「新倉の糸魚川-静岡構造線」として国の天然記念物に指定された。また、2007年には、糸魚川と早川の糸魚川静岡構造線が日本の地質百選に選定された(「糸魚川-静岡構造線(糸魚川)」と「糸魚川-静岡構造線(早川)」)。

名称

ファイル:Arakura Fault of the Itoigawa-Shizuoka Tectonic Line.JPG
国の天然記念物 新倉の糸魚川-静岡構造線
画像の中央、崖の右上から左下に斜めに走るラインが構造線の露頭である。
山梨県南巨摩郡早川町新倉(あらくら、[[[:テンプレート:座標URL]]35_29_28.4_N_138_19_33.6_E_region:JP&title=%E6%96%B0%E5%80%89%E3%81%AE%E7%B3%B8%E9%AD%9A%E5%B7%9D-%E9%9D%99%E5%B2%A1%E6%A7%8B%E9%80%A0%E7%B7%9A%2F%E5%9C%B0%E5%9B%B3 地図]

1918年に、東北帝国大学(現東北大学)の地質学者・古生物学者である矢部長克(1878年〜1969年)によって提唱された。

しばしばフォッサマグナと混同されるが、糸魚川静岡構造線は「フォッサマグナの西辺」であって、「フォッサマグナ」ではない。フォッサマグナは、糸静線から東に大きく広がる地溝帯、すなわち「線」ではなく「面」である。

特徴

(ここでは自然地理的な特徴について述べる。人文地理的な特徴は「中部地方#地域性」を参照すること。)

糸魚川静岡構造線に沿って日本アルプスが造られており、飛騨山脈赤石山脈の高山が沿線に連なり、天険を形成する。生態系は、糸静線を境にして大きく異なり、東半分を東北日本、西半分を西南日本という。糸静線沿線の主な高地には、白馬岳乗鞍岳上高地赤石岳身延山などが連なる。

日本海側の東西境界線は新潟県と富山県の境に位置する親不知であり、内陸側の東西境界線は諏訪湖である。太平洋側については、静岡市付近ではあるが詳細ははっきりしておらず、安倍川の他、薩埵峠付近や大崩海岸付近などともされる。

北部フォッサマグナ

日本海が形成された時期の新第三期中新世後期までは東西方向に引っ張られる力が作用し大きな陥没地帯が形成されていたが、中新世末期以降は力の方向が逆転し圧縮方向に変化した。その為、隆起と沈降を示す地形が交互に現れている。隆起地形としては、上水内丘陵地帯(主に妙高火山群の山々)と中央隆起帯(長野県中部から群馬県にかけての地域で志賀高原、八ヶ岳などとその周辺)があり、隆起地形の間には逆断層の長野盆地西縁断層系があり地震活動が活発である[1]。なお、最北部の西頚城山地での活動は終了しており変動地形学的に見ると活断層ではない[2]とする見解もある。

北部フォッサマグナの東側(信越地域:長野県北部から新潟県頚城地域)には、大峰面[3]と呼ばれる第四紀の70万年前に海岸平原であったとされる頃に形成された花崗岩質の礫及びシルトによる平坦な地形が広がっていた[4]が、その後の地殻変動により浸食され現在は、標高900m前後の山々に痕跡が残る[5]

糸静線上の松本盆地から長野盆地に向かっては、犀川 (長野県)が隆起地形を切り裂くように浸食し流れており川岸に平地は少なく急峻な崖が連続している。

地震活動歴と将来の活動

歴史上に残る活動歴が少なく、内陸地震のためプレート境界型地震による津波のような特徴的な痕跡が残らないことから活動歴は不明点が多い。歴史に記録されている最古の地震は、北部区間での762年の小谷付近 M7.0〜M8.0程度と考えられており、牛伏寺断層を含む中部区間では、約1000年おきに、M8程度の規模の地震が発生してきた[6]と考えられている。将来的に中部区間では、今後数百年以内にM7.5〜8.5規模の地震が発生する可能性が高いと考えられている[6]。古地震の記録は残っていないが、長野県塩尻市での発掘調査により、7000年前から2000年前までに複数回および3世紀(255年頃)と7世紀(645年頃)に活動をしたと考えられる痕跡が発見されている[7]。1847年の善光寺地震以降は20年から25年周期の活動がみられるが日本海東縁の地震活動と密接な関連がある[1]

線上で発生した主な地震

歴史に残る活動としては、繰り返しマグニチュード6〜7 程度の地震の発生が見られる。

出典:気象庁精密地震観測室資料[8]および理科年表による(前震、余震は除外。震源域の地名は現在のもの)。
  • 762年 美濃・飛騨・信濃 - M 7.0以上
  • 841年 松本(東経138.0°北緯36.2°付近)、- M 6.5。
  • 1714年4月28日 震源は白馬村付近、東経137.85° 北緯36.7°、死者 100。善光寺でも被害有り - M 6 程度
  • 1725年8月14日 高遠・諏訪 東経138.1°北緯36.0°付近、M 6.0〜6.5
  • 1791年7月23日 松本市付近 東経138.0°北緯36.2°- M 6.7程度 松本城で塀が壊れる。
  • 1855年3月18日 飛騨白河 東経136.9°北緯36.25° - M 6.7
  • 1858年4月23日 信濃北西部、大町市と白馬村の境界付近 東経137.9 北緯36.6 M5.7 飛越地震(4月9日)で生じた常願寺川河道閉塞部の決壊による洪水の原因。
  • 1890年1月7日 15時43分頃。震源は生坂村から長野市大岡樋ノ口沢付近、東経138.0° 北緯36.5°、- M 6.2
  • 1898年 山梨県身延町付近を震源 - M 5.9
  • 1918年11月11日 『大町地震』02時59 - M 6.1 / 16時04分 - M 6.5、震源は大町市南鷹狩山付近、東経137.9° 北緯36.5°。1858年の地震と区別するため、大正大町地震とも呼ばれる。
  • 1986年12月30日 9時38分 - M 5.9、震源は旧美麻村小川村信州新町の境界付近で糸魚川静岡構造線に長野盆地西縁断層及び千曲川構造線のそれぞれの延長がぶつかる地域において発生。
  • 2011年6月30日 8時16分 - M 5.4 長野県松本市 東経137度33.4分 北緯35度49.5分 長野県中部地震

地震観測網

線上の地域には2003年度までに、防災科学技術研究所により運用される高感度地震観測網 (Hi-net)の観測施設が約30箇所設置された。更に、2005年度より「糸魚川‐静岡構造線断層帯における重点的調査研究」[9]受託事業によるものと気象庁から移管された観測点をあわせ13箇所の観測点が追加され、2011年現在約40箇所の観測点により常時観測が行われている。

高密度に高精度の観測点が整備された結果、この糸魚川‐静岡構造線断層帯域では、10Km 程度の精度で震源の位置を決定することが可能となった[10]

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. 1.0 1.1 佃為成:北部フォッサマグマ地域の地震活動特性地學雜誌 Vol. 99 (1990) No. 1 P 32-42
  2. 佐藤比呂志:日本列島のインバージョンテクトニクス活断層研究 Vol. 1996 (1996) No. 15 p. 128-132
  3. 仁科良夫:大峰面上の旧河道地形とその堆積物日本地質学会学術大会講演要旨 100, 319, 1993-03-25
  4. 衣笠善博:東北日本北米プレート説再考地學雜誌 Vol. 99 (1990) No. 1 P 13-17
  5. 木村純一:長野県聖山北麓の更新統:中部から上部更新統地質学雑誌 Vol. 93 (1987) No. 4 P 245-257
  6. 6.0 6.1 テンプレート:PDFlink地震調査研究推進本部
  7. 谷口薫、渡辺満久、鈴木康弘、澤祥:糸魚川-静岡構造線活断層系中北部で新たに得られた活動時期 地震 第2輯 Vol. 64 (2011) No. 1 P 11-21
  8. 長野県の地震気象庁精密地震観測室
  9. 糸魚川-静岡構造線断層帯における重点的な調査観測について 地震調査研究推進本部
  10. テンプレート:PDFlink防災科学技術研究所 研究報告 No.77