朝丘雪路

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朝丘 雪路(あさおか ゆきじ、1935年7月23日 - )は、日本女優タレント歌手。本名;加藤 雪会(かとう ゆきえ)。旧姓・勝田。

東京市京橋区築地生まれ。元宝塚歌劇団月組娘役。父は日本画家の伊東深水。夫は津川雅彦、娘は真由子。義兄は長門裕之、義姉は南田洋子。日舞の深水流家元として、深水 美智雪の名も持つ。

来歴

  • 料亭「勝田」女将の勝田麻起子の娘として生まれる。芸事を好んだ母の勧めで3歳より日本舞踊を花柳三之輔に師事。
  • 妾腹(非嫡出子)ではあるが父に溺愛され、小学校(泰明小学校)の通学にも養育係とともに人力車で通っていた。養育係は登校時間のあとは下校まで彼女を車屋と学校で待っていた。深水の過保護ぶりは朝丘が思春期を迎えても続いていた。それを見聞きしていた友人、小林一三に「このような浮世離れした生活をさせていては、娘さんがだめになる」と意見されたこともあり深水は渋々ながらも朝丘がいずれは実家を出て生活することを了承したという。山脇学園中学校卒業後、宝塚音楽学校に入学。1952年同校を卒業し、宝塚歌劇団に入団。同期の39期生には女優の真帆志ぶき(元雪組男役トップスター)、東千代之介夫人の千之赫子がいる。月組に在籍し娘役として活躍。 1955年宝塚歌劇団を退団。
  • 1960年代に人気テレビ番組『11PM』のアシスタントとなって人気を集める。
  • 1967年青森県八戸市の内科医師と結婚、男児をもうける。1968年離婚(正式な離婚成立は1972年、子供は夫側が引き取る)。1973年津川雅彦と再婚。1974年真由子を出産。
  • その後も女優として活躍。お嬢様育ちのおっとりしたキャラクターと常識外れな発言で人気を集め、バラエティ番組に多数出演している。
  • 現在では深水流家元として、青二塾で日舞の講師を勤めている[1]
  • 1981年文化庁芸術祭賞優秀賞受賞。
  • 2003年芸術選奨文部科学大臣賞受賞。
  • 2011年旭日小綬章受章。

人物

  • 芸名は、「」は誰にも踏まれていないので真っ白、という意味が由来である。
  • 仲の良い先輩、同年代のタレント、実の娘からも「ゆきえちゃん」と本名で呼ばれている。若いころは「雪姐(ゆきねー)」という愛称でも呼ばれた。対して朝丘はテレビなどの公の場では、夫のことを「雅彦さん」「津川さん」と言っているが私生活では「まー」と呼んでいるらしい。
  • 花柳章太郎川口松太郎にも、目をかけられた。
  • 娘・真由子が生後5ヶ月の時期に誘拐されるが、後に無事発見・保護され、誘拐犯は逮捕されたことがある(津川雅彦長女誘拐事件)。
  • 娘の幼少時代に授業参観で大騒ぎしたエピソードがあり、娘も「親が関わる時は必ずパパ(津川雅彦)が来てくれなきゃ困る」と言っていたという。

お嬢様育ちな性格

子供時代
  • 深水に常軌を逸した溺愛を一身に受けて成長。世間知らずのお嬢様育ちで、一般常識というものがよく分からずまさに浮世離れした人格である。幼少期から自宅と学校の行き帰りは勿論、何処に出掛けるにも養育係と一緒であったため、金銭の使い方や道順を覚えるということを知らないまま成長した。膳に並んだシラスを見て「おとと(御魚)の目が怖い」と言えば爺やと婆やが魚の目をひとつひとつ取り除く。雨が降れば一般では傘を使用するが、深水は「(朝丘の)指を怪我したら大変だ」と傘の開閉も、持たせることもさせない。中学生時分に、ほんの気まぐれで、一人で通学を試みたが途中で迷子になってしまい大騒ぎになったことがある(現在でも一人では公共交通に乗って移動することも、切符の購入も出来ない)。しかし、物心つく前からそのような環境で育ったため朝丘にとっては“普通の生活”であり「父のすることは全て正しい」と信じ、疑問に感じたことはなかったという。
  • 海水浴をしたことがないらしい。「(両親が)海は危険だと言っていた」といいつけを守っている(但し、芸能界に入ってから撮影で足を浸す程度に入ったことはある)。夏休みには親が用意したホテルのスイートに宿泊し、プールを貸切にして友人たちと過ごした。戦時中は群馬県磯部温泉に疎開[2]
宝塚時代
  • 浮世離れで世間知らずな言動と、おっとりした性格が仇となったことがある。宝塚時代もその性格は変わらず、朝丘の至らぬところは周囲が補ってくれていた。しかし、それらも朝丘にとっては実家に居たときと同様、当たり前のことだと思っていたため特に気にも留めずにいた。やがて娘役に抜擢されて人気も出てくると、朝丘に対して反感を覚える者も出てくる。ある時は舞台で使用する化粧品が紛失、ある時は衣装に不備が生じる。靴の中に剣山や釘が仕込まれていたこともある。幕間の衣装替えの時、靴を履き替える際に気付かずに踏んでしまい激痛で失神したことがある。
結婚後
  • 結婚するまで自分でお金を払って買い物をしたという経験が全く無く、結婚してから買い物はすべて1万円札で支払っていた。そのためお釣りの千円札や硬貨が溜まりに溜まり、ある日、薬を探していた津川が引き出しから小銭の山を発見し仰天する。朝丘はそれら硬貨がお金とは知らなかった。無論、金銭感覚も一般とずれているため、ともすると、言われるままに多く支払ってしまう。そのため、現在は常に一緒に行動する付き人が注意を払っている。
  • 家事の一切が苦手である。料理は「火が怖い」、洗濯は「洗濯機が使えない」、掃除は身の回りの整理が辛うじて出来る程度で「掃除機の使用方法が分からない」。娘が乳児だった頃もオムツ替えは家政婦に任せていたという。現在も家事全般は事務所のスタッフと家政婦が代行している。津川が思わず「我が家には主婦がいないんだねぇ」と呟いた。それを聞いた朝丘は「私も家事の出来る奥さんが欲しいわ」とあっさり言ってのけたという。

エピソード

番組エピソード

「夜のヒットスタジオ」
  • 1974年春よりフジテレビ系の歌謡番組『夜のヒットスタジオ』の2代目司会者として、芳村真理三波伸介とのトリオ体制で司会を担当したが、程なく、舞台の長期公演の仕事が入ってしまい、やむなくわずか3か月でレギュラーでの出演を一時中断。その後、1975年3月までは、スケジュールが空いている場合等にゲスト司会者として断続的に出演をするという変則的な形式が採られていた。その後も、ゲスト歌手の客演やご対面ゲストといった形で番組に顔を出したことはあるが、3か月のみの登板であった。このこともあり、フジテレビ側の公式解釈としては正式のレギュラーの司会者ではなく、「ゲスト」司会者扱いとされている。加えて『夜ヒット』の「○周年記念」、「○百回記念」といった節目の回において歴代司会者が集まる場で彼女が司会者の一人として登場したことはなく、最終回や1000回記念でも歴代司会者から彼女の名前は除外されていた。ただし、1000回放送での勇退後に芳村真理が著した勇退記念本[3]の中では、前田武彦井上順古舘伊知郎と並んで歴代司会者の一人として番組の想い出や芳村へのメッセージを語っている。恐らく、同じく2代目の芳村の相手役であった三波伸介が1000回放送の時点で(1982年末には既に)逝去していたことから、代理として朝丘へのインタビューを行ったものと考えられる。
  • ちなみに朝丘が番組を3か月で降板したことに対し、「同い年の芳村との確執が原因では?」とする噂もあったが、この点については後年、明確に否定している。実際には、1960年代半ばの頃から芳村が朝丘の歌謡ショーの司会を担当したこともあり、長年の親交がある。当時、毎回放送前になるとお互いの服装をどうするかを相談し合い、なるべく衣装の雰囲気が重ならない形で放送本番で着用する衣装を選ぶようにしていたという。
「笑っていいとも!」
  • 笑っていいとも!』の「テレホンショッキング」コーナーに何度かゲスト出演しているが、さまざまなハプニングを起こしている。1986年3月3日の出演時、「お友達紹介」の際に次回出演の宍戸錠の自宅の電話番号を声に出して言ってしまった。その直後から宍戸宅にいたずら電話が殺到、しばらく電話が繋がらない状態となった。宍戸はその後、自宅の電話番号を変更せざるを得なくなったという。
  • 1988年12月16日にも出演予定だったが、滞在先の金沢市が大雪により、飛行機が大幅に遅れて離陸のため同番組に登場出来なかった(急遽本番当日は長門裕之が代理出演)。無線電話で司会のタモリと連絡が繋がったが、朝丘はこの時思わず「いま飛行機の上~!」と叫んでしまう。タモリは「早く飛行機の中に入って下さい! 『かんれーじぇんしぇん』が…」(正しくは「寒冷前線」。気象解説者・福井敏雄の独特な言葉で話題となった)とギャグを飛ばし、会場は大いに受けていた。
その他の番組エピソード
  • 初めてテレビに出演した年齢は23歳。日本ではまだ試験放送だった時期にアメリカの番組(「ダイナ・ショア・ショウ」)に出演した[4]
  • 1967年『11PM』で大橋巨泉が胸の大きい朝丘を指して「ボイン」と呼び、'80年代まで長く使われる流行語になったという経緯がある。巨乳タレントのはしりといえる。
  • テレビ番組『ゲバゲバ90分』において、郵便小包の配達夫に「拇印お願いします」と言われ、「よいしょっと」と言いながら伝票にボイン(自分の乳房)を押し付けるコントを披露した。
  • ネタ見せ番組の『エンタの神様』では、芸人のはなわによりインタビューとして話を聞かれ、朝丘は普通に会話しただけだが、天然キャラで自然と面白い内容になるため「朝丘雪路伝説」というネタとして披露されたことがある。
  • フジテレビの2006年5月25日放送の『クイズミリオネア』に真由子と親子で出演し、750万円の問題で「浦島太郎竜宮城の場所」の解答を間違えてしまった。結果、賞金100万円を獲得。

その他

  • 現在では女優や天然キャラのイメージがある朝丘だが、過去には歌手として曲をヒットさせ、NHK紅白歌合戦にもこれまでに10回出場している。代表曲として「道頓堀行進曲」(1961年 東芝音楽工業)、「ふり向いてもくれない」(1965年 クラウン[5]、「スキャンドール」(1968年 クラウン)、「雨がやんだら」(1970年 CBS・ソニー)などがある。
  • 11PMでの、キャッチフレーズで自身が「朝弱い朝丘雪路です」と言っていたように、おっとりとした低血圧の天然キャラも売り物であった。朝の低血圧時にホテルの部屋のモーニングコールが鳴ると、驚いてそのまま気絶。部屋で倒れているところを発見されて大騒ぎになることが度々あるなどトーク番組で自身が披瀝する低血圧エピソードは多い。
  • 友人であった鈴木その子の経営していた会社「トキノ(現SONOKO)」のCMに出演したことがある。また、2006年4月25日に放送された鈴木の半生を描いたドラマ『ダイエットの女王 鈴木その子』(NTV[6]では、鈴木の実母・末野を演じている。

出演作品

テレビドラマ

NHK

日本テレビ

TBS

フジテレビ

テレビ朝日

テレビ東京

映画

オリジナルビデオ

劇場アニメ

バラエティ

NHK紅白歌合戦出場歴

1957年・第8回に初出場。翌年は出場ならなかったものの、翌々年(1959年)・第10回で復帰し、そこから1966年・第17回まで8年連続で出場を果たす。その後しばらく出演は無かったものの、1971年になかにし礼作詞・筒美京平作曲の『雨がやんだら』が大ヒット。第22回で5年ぶり10回目のカムバック出場を果たしたが、現時点で朝丘自身最後の紅白出演となっている。

年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手 備考
1957年(昭和32年)/第8回 星はながれる 07/25 若原一郎 初出場 
1959年(昭和34年)/第10回 2 シング・シング・シング 04/25 武井義明 2年ぶりカムバック 
1960年(昭和35年)/第11回 3 ドンパン節 06/27 旗照夫  
1961年(昭和36年)/第12回 4 チャチャで飲みましょ 01/25 神戸一郎  
1962年(昭和37年)/第13回 5 島育ち 13/25 三波春夫  
1963年(昭和38年)/第14回 6 永良部百合の花 12/25 田端義夫  
1964年(昭和39年)/第15回 7 夜の八丈島 01/25 北島三郎  
1965年(昭和40年)/第16回 8 ハロー・ドーリー 10/25 立川澄人  
1966年(昭和41年)/第17回 9 ふり向いてもくれない 21/25 バーブ佐竹 8年連続で出場 
1971年(昭和46年)/第22回 10 雨がやんだら 13/25 フォーリーブス 5年ぶりカムバック

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. レッスン・講師 - 青二塾
  2. 朝丘 雪路インタビュー(1)読売新聞 2011年
  3. 『芳村真理の夜のヒットスタジオDELUXE』(1988年6月発刊)
  4. 笑っていいとも!』のお答え足し算 100超えたら負けよ!より
  5. 担当ディレクターが、酒場で会った青島幸男に「ふり向いてもくれない」の作詞を依頼した際、青島はカウンターのとまり木の上でササッと歌詞を書き上げてしまったという(2002年・ソニーより発売された『GOLDEN☆BEST 朝丘雪路 筒美京平を歌う』ブックレット掲載の、朝丘のコメントより)。
  6. テンプレート:Cite web