芳村真理

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:複数の問題 テンプレート:ActorActress 芳村 真理よしむら まり、本名・大伴 稲(おおとも いね)/旧姓・吉村1935年4月3日 - )は、日本女優タレント司会者コケティッシュな顔立ちとグラマラスな肢体で若い頃は有名なモデルであり、芳村真理と同じ顔をしたマネキン人形は数十年にわたって大量に作られ、全国のデパートやブティック(洋品店)で多く見られた。

略歴

  • 東京都中央区日本橋の生まれ。生家は農家で、本名の「稲」は妹(実子)とともに農業・農作物にちなんだ名前としてつけられたと思われる。また、芸名の「芳村」は旧姓の「吉村」の「吉」を出身地である日本橋・芳町の「芳」に替えたものである。
  • 東京都立西高等学校出身で、元セゾングループ代表で現在は小説家の堤清二、元NHKアナウンサーの相川浩らは彼女の先輩、評論家の加藤諦三や、エッセイストの玉村豊男らは彼女の後輩にあたる。
  • 高校卒業後、都内のデパート勤務を経て[注 1]銀座の山野美容会館(山野愛子)内に在ったモデルクラブFMG(ファッション・モデル・グループの略、1952年に発足した日本初のモデルクラブであるTFMC(東京ファッションモデルクラブ)の分裂騒動により発足、現存する最古参のモデルクラブ)へ所属。1950年代後半(昭和30年代前半)において、人気ファッションモデルとして、各デザイナーのショーや「週刊朝日」を始めとする雑誌等の表紙グラビア(カバーガール)を飾るなどの活躍を見せる。このモデル時代に「ザ・ヒットパレード」(フジテレビ)で、初めての司会を担当している。彼女のモデルでの活躍は団令子らと共に「ファニー・フェイス」の代表格として「美人」の固定観念を打破する一助となった。
  • 1960年(昭和35年)、大島渚監督の誘いを受けて松竹「霧ある情事」で映画女優として本格的に芸能活動を開始。以後、「黄色いさくらんぼ」、「喜劇駅前シリーズ」の脇役等、約80本の映画に出演。また、「日産スター劇場」(日本テレビ)など、テレビドラマにも活躍の場を広げた。他方、当時隆盛を極めた学生運動等にも賛同しており、リベラルな思想の持ち主としても知られていた。
  • 1962年(昭和37年)、初期の「ザ・ヒットパレード」で共に司会を務めたミッキー・カーチスと熱愛の末に結婚、1児をもうけたが、約2年後に離婚。
  • 1966年(昭和41年)12月、フジテレビ系「小川宏ショー」の2代目ホステスとなり、以後、女優業を休業し司会者へと転身。当初、番組制作サイトは「夜のイメージ」があるという理由で起用に難色を示し、朝の番組ではまず珍しかったミニスカートを履いて司会をするというスタイルには視聴者の反発も強かったと言われているが、それまでの女性司会者にはない個性の強さがかえって20代・30代の主婦層が共感を覚え、徐々に支持を得るようになった。
  • 1968年(昭和43年)3月、日本コカ・コーラ等、海外企業の日本での現地法人設立に数多く参画していた実業家の大伴昭(後に日本ポラロイド、キヤノン取締役、カルティエ・ジャパン社長を歴任)と再婚。「小川宏ショー」を降板するが、同年11月、フジテレビ系「夜のヒットスタジオ」スタートと同時に当時の人気司会者・前田武彦(マエタケ)と共に司会に抜擢される。当初はマエタケのアシスタント的色彩が強かったが、徐々に存在感を発揮し始める。マエタケ降板の後からは彼女がこの番組の屋台骨となり、男性司会者は三波伸介井上順古舘伊知郎と交替する中、芳村は1988年(昭和63年)2月第1000回で降板するまで司会を担当。男性がメイン、女性がアシスタントというMCスタイルが多かった中で、台本を片手に持ちながら「自然体」の話術で進行をするという独特な司会スタイルが受け、「女性でメインをはれる司会者」の草分けとしてその名をテレビ史に残した。また、そのヘアスタイルやファッションはこの番組の名物となった。出演歌手、特に新人歌手の場合、極度の緊張で臨むことが多かったといわれる「ヒットスタジオ」の中で、その緊張感をほぐす精神的支柱としての役割をも担う事が多かったり、女優・男優を出演させる際には彼女の人脈が重要であった等、「ヒットスタジオ」における彼女の存在感は絶対的なものがあった(後年、石野真子[注 2]工藤静香[注 3]もこの事については述べている)。
  • その後も、「3時のあなた」(フジテレビ)、「ラブラブショー」(フジテレビ)、「料理天国」(TBS)など斬新な企画を目玉とする番組の司会を担当。また、「FNS歌謡祭'77〜'86グランプリ」(フジテレビ)、「新春かくし芸大会」(フジテレビ)といった大型番組の司会も長年にわたり務め、黒柳徹子うつみ宮土理らと共に1980年代までは大物女性司会者の一人としてブラウン管でもお馴染みの顔であった。芳村の、男性司会を立てつつ進行をしていくというスタイルは「くだけた感じの品位」という絶妙の雰囲気を番組にもたらし、各番組の長寿化を後押しする一助となった(特に「かくし芸」での高橋圭三とのコンビ、「FNS歌謡祭'78〜'86グランプリ」での露木茂とのコンビ、「料理天国」での西川きよしとのコンビ、「夜ヒット」での井上順とのコンビはそれぞれ約10年近くに渡る長期司会となった)。
  • 1988年2月に「この辺りで人生の一区切りを付けたい」という意思を表明して長年司会を務めた「夜のヒットスタジオ」を降板、芸能活動の一線からは身を引く。1990年頃までは「知ってるつもり?!」、「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」(いずれも日本テレビ)などにもゲスト出演していたが、1992年、これも長く司会を務めたTBS「料理天国」終了と同時に完全に本格的な芸能活動からはリタイヤする。
  • その後、1996年には森林の育成などをテーマとする「MORI MORIネットワーク」を立ちあげ副代表に就任、他にも(株)ミキモト取締役(現在は同社顧問)や自身の経営するコスメティック・カウンセリング会社の取締役(ズムズム株式会社など)、林野庁林政審議会委員(2001年〜2006年)や(財)福澤記念森林会理事など政府系機関や財団・NPO法人の委員・理事を務めるなど経営・文化活動が中心的な活動となっている。特に「MORI MORIネットワーク」、林政委員会委員としての活動は活発的であり、熱帯林問題が深刻となっているタスマニアなど環境問題を抱えている外国への視察訪問や各地での植林啓発活動にも深く関わっている。
  • 「料理天国」終了後は「午後は○○おもいッきりテレビ」に不定期にコメンテーターとして出演していた。2000年代後半以降は年に1回程ゲスト出演する程度にするなど、テレビ界での活動を極力控えて、1年の大半をプライベートや植林・環境保護の仕事の関係で海外や地方で過ごす毎日を過ごしている。モデル時代に数多く表紙を飾った「婦人画報」で「真理の真理(まりのしんり)」というタイトルの連載を執筆し、ファッションについての様々な一家言を述べている。

エピソード

家庭関連・モデル時代

  • 1男3女兄妹の長女。女優の吉村実子は実の妹(三女、尚、真理、実子の間にいた次女は30代で夭逝している)、彼女と結婚していた俳優の石立鉄男は義弟にあたる。また、彼女の母親は長年、東京・日本橋で長唄教室を営んでおり、晩年の弟子の中には自由民主党衆議院議員の野田聖子もいたという。[注 4]
  • 歌手・早見優の母親とはモデル時代の同僚であり、1950年代後半、ファッションショーの舞台に幾度も共演した間柄である。[注 5]
  • 実兄は東京新聞社会部の記者として長年、同新聞の学芸欄(学術・芸能関係の記事)の編集に従事していた。
  • ミニスカートを日本の女性タレントで最初に着た人物との説がある(芳村と親交のある野際陽子説もある)。

女優時代

  • 略歴で記した経緯から、女優時代には松竹に在籍していたが、正規の入社手続きを経ていない”外様"扱いであったためか、事実上は五社協定の拘束を受けないフリーランスの立場で活動をしており、既に女優デビューして程なくの頃からテレビドラマの世界にも進出。[注 6]特に1960年放送の生放送ドラマ「私がえらんだ人」(日本テレビ)では、モデル出身という経歴を活かした早着替えの特技を披露し、強烈な個性を発揮。若手の個性派女優として注目を集めるようをなった。
  • カーチスとの離婚後、正式に松竹を離れて他社製作の映画にも進出。離婚早々に出演した東映製作のピンク時代劇映画『くノ一忍法』ではセミヌード姿や名和宏らを相手に激しい濡れ場にも挑戦、新境地を開拓し、以後はテレビドラマを中心に主に悪女役を多数好演する。しかし、当人の希望している役柄とはあまりに隔たりがあったこともあり、次第に「女優という仕事は肌に合わない」と痛感。『小川宏ショー』の司会抜擢を機に、女優業廃業を決意した。

小川宏ショー

  • 『小川宏ショー』の衣装選びは、全て芳村の全権に委ねる形で行われていた。これはモデル出身という彼女の経歴を配慮してのものであり、時に、シャネルミニスカート姿で登場するなど、平日朝のワイドショーの司会者らしからぬシックな装いも臆することなく披露した。これに対して、彼女より年代が上の主婦層からは批判的な意見が強かったが、逆に彼女と同年代、またはそれよりも下の女性視聴者には受けが良く、番組人気の拡大に貢献する格好となった。

夜のヒットスタジオ

  • 前田武彦と共に『夜のヒットスタジオ』の初代司会に抜擢された理由は、番組がスタートする約1年前に放送されたニッポン放送のラジオ番組「男性対女性」のなかで展開された二人のやり取りを気に入った構成作家の塚田茂が、番組の初代プロデューサー・伊藤昭に推薦したためである。[注 7]。しかし、芳村も前田も大のジャズファンではあるものの歌謡曲に対する造詣は皆無に等しく、「歌謡番組の司会者」としてオファーをかけても断られるのが関の山だろうと考えた伊藤は、あえて「ジャズ番組の司会者」と偽って、「夜ヒット」への出演を依頼。「大好きなジャズをたくさん聞けるのなら」と芳村は二つ返事で仕事を引き受けたが、いざ初回のリハーサルに参加するや、当日出演するゲストの顔ぶれが歌謡曲の分野で活躍する歌手ばかりで「(伊藤に)騙された」と酷く落胆し、一度はすぐにでも番組降板を申し出ようとも考えていたと、芳村は自著[注 8]で回顧している。
  • 『夜ヒット』などの生放送の番組を務める時には必ずといっていいほど、台本(または進行表やメモ書き)を携帯するスタイルを採っていた。しかし、「夜ヒット」で最初にコンビを組んだ前田武彦の後日談によると、その台本は放送当日分の台本ではなく、既に放送が終った分の台本である場合が殆どであったという(この点から、前田は「台本は芳村からすれば単なるアクセサリーの一種に過ぎないのだろう」と分析している[注 9])。
  • 毎回、芳村が身に着ける奇抜なファッションは全盛時代の『夜ヒット』の代名詞の一つとなっていたが、この点、古舘伊知郎はその雰囲気を「ひとりコットンクラブ」という絶妙の喩で表現している。芳村の服装を男性司会者が揶揄したりするパターンは既に初代の前田武彦の時代からあり(マエタケは化粧をした顔と落とした後の素顔の落差から「ナマズのおばさん」という渾名を付けた)、特に3代目の相手役・井上順は、芳村がパンク風のヘアスタイルをすれば、「髪型を見れば今日の東京が風が強かったのがよく分かります[注 10]、一風変わったメイクをすれば「蜘蛛巣城[注 11]、マントのような服装の時には「月光仮面[注 12]、その他、着物姿のときには「月見草に(芳村の顔を指差して)団子[注 13]、などなど毎週必ず番組内で衣装に茶化し、それを発端とする両者の応酬に近いやりとりも番組人気の要因の一つとなっていた。これらの茶化しやギャグは全て咄嗟に井上が思いついたアドリブが殆どであり、その井上のアドリブが、更にファッションに対する自身の探究心に拍車をかけた、と芳村は後年回顧している。[注 14]
  • 『夜ヒット』での共演が縁で1987年には夫と共に古舘伊知郎の結婚式の仲人を務めている。婚約会見のとき、すでに古舘の妻は一人目の子供を身ごもっており、腹部が膨らんでいることを記者が質問した際、芳村は「こういう形のドレスなんです」と述べ夫人を庇った。[注 15]
  • 古舘の司会初回の際、相当の緊張状態に達していた古舘をフォローするため、芳村は「時間が経てば終わるのよ」という言葉をかけた。古舘はこの言葉をかけられて、自然と気が楽になったと述べている。[注 16]
  • 基本的に男性司会者の際どい一言を宥めながら番組を本流に戻すという形で進行に当たっていたが、1980年代中盤に入り、海外アーティストの出演機会が増え始めてからは、前提知識の疎さを露呈してしまう場面も稀にあった(シーラEが出演した際に「シーナ・イーストン」と誤って紹介した、など)。
  • 『夜ヒット』の生本番の日と『オレたちひょうきん族』の収録日が同じ水曜日であった頃、明石家さんまはフジテレビのメイク室で「ひょうきん族」内でのキャラクター「パーデンネン」の扮装をしているときに、芳村に「さんまちゃん、派手ね〜」とよく言われ、「それはこちらがいう台詞ですよ」などと返していたという。[注 17]
  • 光GENJIが番組初出演の挨拶をしに芳村の楽屋を訪れた際、「ちわーす。」という軽い挨拶だけで楽屋を後にしてしまったという。彼ら以外にも、担当末期の頃になると、これまでの芸能界・テレビ界のルールや仕来りに捉われないスタンスで周囲に振舞う歌手やスタッフが増えてきており、彼らの自由な立ち居振舞いを通じて「もうここには私の居場所はない」と若い歌手・スタッフとのジェネレーションギャップを強く痛感。このことが、番組を勇退する決意を固めた最大の要因であったとされる。[注 18]
  • 番組司会当時、その日のゲスト歌手に声をかけて、本番終了後に食事をご馳走する事も多かったという。特に複数回にわたって、芳村の行きつけのワインバーで酒席を共にしたという西城秀樹未唯(元ピンクレディー)は、バーでの芳村の立ち振る舞いから「本当の意味での大人の社交術を(芳村から)教わった」と後年、感謝の念を述べている。[注 19]
  • 当日の本番で身に着ける衣装のコーディネ-トに困っている女性歌手などには、頻繁にアドバイスを送ったり、特別にスタイリストを買って出る事もあったという。1987年9月9日放送では、同月のマンスリーゲストであった八代亜紀とのコラボレーション企画として、芳村による衣装コーディネート企画が正式な番組イベントの一環として組まれたこともある。
  • 上記の八代、西城、未唯のほか、番組担当当時には梓みちよアン・ルイス小柳ルミ子高田みづえ田原俊彦中森明菜郷ひろみ石野真子布施明薬丸裕英(元シブがき隊)らとも親しい関係にあった。特に高田に関しては、彼女の結婚披露宴の際に新婦側の来賓として祝辞を行っているほか、芳村が番組を勇退した際には、夫の若嶋津(現・松ヶ根親方)と共に彼女に花束を渡すために、芸能界引退以来約3年ぶりに公の場に登場するなど殊に深い親交を持っていた。

料理天国

  • 『料理天国』司会当時は、毎回、番組で紹介した料理を持参したタッパーに入れて家に持ち帰っては家族に振舞っていたという。
  • 番組内で、当時新種の食材として注目されたフォアグラを紹介した際に、その食感や味を甚く気に入った芳村は、後日、フォアグラ料理を名物にしているレストランを探し出し、その店で大量にフォアグラを使ったメニューをオーダーした。ところがあまりに食べ過ぎたために、窒息寸前の症状に陥ってしまい、以来、フォアグラを一切受け付けない体質になってしまった。

その他

  • 基本的に彼女のことを呼ぶ際、「芳村さん」よりも「真理さん」と呼ぶ場合が多い。ただし、「料理天国」で長年相棒を務めた西川きよしは自分よりも10歳以上年齢が上であることや芸能生活も長いことなどをふくめ芸人の間柄でよく使われる「(芳村の)お姉さん」という呼称で彼女のことを呼んでいた。
  • 40代の頃までは、喫煙愛好家(1960年代初頭にはタバコ(スリーエー)のCMキャラクターにも抜擢されるほどだった)であったが、50歳になり、将来の健康のことが不安となり、すっぱりタバコを断ったという。[注 20]
  • 顔に人差し指を付けて「どおもー」という仕草が一時期はやり、今でも若年層を中心にこのポーズを写真撮影するときの定番のポーズとして好んで使っている人も多く、芳村のいわば代名詞の如く語られるセリフともなっているのだが、実際に彼女がこの言葉を司会者として活躍していた時代に言ったことはさほどない(一説によれば、人差し指を付けて「どうもー」と番組冒頭の挨拶を芳村がしたのをみた明石家さんまが「ひょうきん族」で彼女の真似をしたことがきっかけで「どおもー」=芳村真理のイメージが浸透したらしい)。また、一時、研ナオコ司会のTBS系の音楽バラエティー「だぅもありがと!」(1986〜1988放送)もこの芳村の「どおもー」から番組名が付けられた(研ナオコも当時芳村の「どうもー」をギャグとして真似ていたタレントの一人であった。但し、研ナオコとは某番組テンプレート:要出典で研がイニシャルトークではあったが芳村のことを「鬱陶しい」と言ったことを皮切りとして不仲であるとの説がある)。
  • 「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」初期の頃は準レギュラーとして、親交のある玉村豊男四方義朗(デザイナー)と何週か交替で出演していた。その中で彼女の席の「ミリオンスロット」が、突然商売マネーの画面が映らなくなってしまう故障が発生した事件があった。故障の原因は不明だが、機械の単なる内部トラブルなのか、芳村が自分の「怪力」で機械を壊したのかと、野沢直子ら共演者から(ギャグの一環ではあるが)議論の対象になったことがある。当時芳村自身は「私が(機械を)壊したんじゃ無いわよ!」と否定していた。
  • 1988年4月28日放送の「笑っていいとも!」でテレフォンショッキングのゲストとして登場した際、その時着用していたハイヒールが床の隙間に挟まってしまい身動きが取れなくなってしまうというハプニングが起きたことがある。因みにこの際に芳村が「お友達」として紹介したのが田原俊彦であり、翌4月29日放送の田原がゲスト出演した「いいとも!」が番組最高視聴率、27.9%を記録している。
  • 1970~80年代当時、芳村司会番組に女性歌手・女優が出演する場合にはまず「芳村真理より派手にすること」が命題とされ、芳村よりファッションについて「お墨付き」をもらうことが一つのステータスともなっていた。特に芳村より衣装コーディネイトのセンスを高く評価されていた中森明菜(中森は当時、衣装の選定・コーディネイト等を全て自ら行うことで知られていた)は、芳村勇退直後の「夜ヒット」で「この前、真理さんに会ったら『最近、オシャレしてる?』といわれた。なので、今日はオシャレしてきた。真理さん見てますか〜」とブラウン管を通して芳村に呼びかけたこともある(1988年3月9日放送の「夜ヒット」で発言)。
  • 日本郵船の豪華客船「飛鳥」の常連乗客の一人でもあり、同じく常連の乗客である橋田壽賀子泉ピン子ともこれが縁で親交を持つようになった[注 21]
  • 戦時中は兄とともに宮城県飯野川町(現・石巻市)に疎開。豊かな宮城の自然に囲まれながら小学生時代を過ごした。その時の経験が「MORI MORIネットワーク」設立を思い立った契機となっているという。[注 22]

出演

テレビ司会

芳村は「夜ヒット」を初め「FNS歌謡祭'77〜'86グランプリ」、「新春かくし芸大会」というフジテレビの年末年始の一大イベントといえる大型番組を長年担当したり、「小川宏ショー」「3時のあなた」というフジテレビワイドショー番組の源流となっている2番組のホステス役も務めるなど、元祖「フジっ子」(フジテレビ番組を好んで出演するタレント、もしくはフジテレビの番組が好きな視聴者を意味する言葉)ともいえる存在であり、フリー司会者であったが、1980年代までのフジテレビを語る上ではまず欠かすことができない人物であるということができる。

レギュラー番組

特別番組

  • 『新春かくし芸大会』(フジテレビ系、1971 - 1990年度、相手役は高橋圭三逸見政孝(1989年のみ露木茂)と交替)
  • FNS歌謡祭'77〜'86グランプリ』(フジテレビ系、1977 - 1986年度、相手役は関口宏→露木茂と交替)
  • 八木治郎ショー』(毎日放送=NET→TBS系、時期不詳)
  • 『世界紅白歌合戦』(フジテレビ、1985年・1986年度(1985年は『火曜ワイドスペシャル』名義、1986年は夜ヒット名義での放送、古舘伊知郎、谷村新司と司会)
  • 思い出のメロディー』(NHK、1979年度、相川浩と司会)
  • 世紀の祭典』(フジテレビ系、1969年から数回司会を担当)
  • ライオンスペシャル・Doファッション 歌う国技館』(フジテレビ系、1984年10月・1985年3月、両国国技館の竣工記念(1984年秋)、及び杮落とし記念(1985年春)番組として『木曜ファミリーワイド』枠で放送、井上順・堺正章と司会)
  • 水曜スーパーキャスト郷ひろみの宴ターテイメント』(テレビ朝日系、1989年、特別司会扱いで郷と番組進行を担当)
  • 『テレビ朝日開局30周年記念番組夢のオールスター大集合』(テレビ朝日系、1989年、タモリと司会)
  • YMO LA SATELLITE TV LIVE』(1980年11月)…YMOロサンゼルスでのコンサート中継(ただし、フジテレビが製作参加した関係者向けのレセプション的なもの)の模様をアメリカ・ロサンゼルスより衛星生中継した際に加藤和彦と共にMCを担当。報道番組以外のジャンルでの衛星生中継は当時としては実験的な試みであった。

ドラマ

  • 『私のえらんだ人』(日本テレビ系、1960年)
  • 東芝日曜劇場(TBS系)
    • 『絶望のそばを突っ走れ』(中部日本放送製作、1960年)
    • 『学士女房』(1962年)
  • アジアの曙』(TBS系、1964年)
  • ザ・ガードマン』(TBS系)
    • 第1話「黒い猫」(1965年)
    • 第58話「砂糖のような犯罪」(1966年)
  • 天下の学園』(フジテレビ系、1965年)
  • 銭形平次』第19話「帰らぬ鳩」(フジテレビ系、1966年)
  • おにぎり』(日本テレビ系、1966年 - 1967年)、ほか

映画

  • 『霧ある情事』(松竹、1959年 ※映画初出演作)
  • 『黄色いさくらんぼ』(松竹、1960年、主演)
  • 『血は渇いてる』(松竹、1960年)
  • 大穴』(松竹、1960年、主演)
  • 斑女』(松竹、1961年)
  • 秋津温泉』(松竹、1962年)
  • くノ一忍法』(東映、1964年)
  • 喜劇 駅前医院』(東宝、1965年)
  • 『非行少女ヨーコ』(東映、1966年)
  • 『貴様と俺』(大映、1966年)、ほか

司会・女優以外でのレギュラー出演

セミリタイヤ後(1992年以降)のテレビ出演(おもいッきりテレビ以外)

ラジオ番組

CM

受賞歴

書籍

単著

  • おしゃれ効果入門―知的フィーリング 魅きつける女のチェックポイント(プレイブックス)(1980年4月、青春出版社
  • 真理の紅茶タイム―ちょっとおしゃべり、おしゃれな話(1985年4月、文化出版局)ISBN 978-4579302222
  • 真理のお料理タイム―ちょっとおしゃべり、おいしい話(1986年7月、文化出版局)ISBN 978-4579302604
  • 芳村真理の夜のヒットスタジオDELUXE(夜のヒットスタジオ、1988年6月、フジテレビ出版)ISBN 978-4594002527
  • 真理のおしゃれタイム―ちょっとおしゃべり小粋な話(1988年7月、文化出版局)ISBN 978-4579302956
  • 私のタイムライブラリー(1989年7月、読売新聞社)ISBN 978-4643890532

共著

  • 残間里江子、森岡まさ子、淡谷とし子、メイ牛山『生きるお手本―一千年のバトンタッチ 語り継ぐ希望・勇気・未来〈下〉』(1996年10月、婦人画報社)ISBN 4573210415

注釈

テンプレート:Reflist

関連項目


外部リンク

テンプレート:夜のヒットスタジオ司会者 テンプレート:FNS歌謡祭司会
引用エラー: 「注」という名前のグループの <ref> タグがありますが、対応する <references group="注"/> タグが見つからない、または閉じる </ref> タグがありません