富永仲基

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富永 仲基(とみなが なかもと、正徳5年(1715年) - 延享3年8月28日1746年10月12日))は、江戸時代大坂の町人学者思想史家懐徳堂の学風である合理主義無鬼神論[1]の立場に立ち、儒教仏教神道を批判した。彼の学問は、思想の展開と歴史言語民俗との関連に注目した独創的なものといわれている[2]

経歴

大坂・北浜の醤油醸造業・漬物商を営む家に、懐徳堂の五同志の一人富永芳春(道明寺屋吉左衞門)の3男として生まれた。通称は道明寺屋三郎兵衞、字は子仲、号は南關、藍關、謙斎。

15歳ころまで、懐徳堂で弟の富永定堅とともに初代学主三宅石庵儒学を学ぶ。若くして『説蔽』(せつへい、現存せず)を著し[3]、独特の大乗非仏説法華経般若経など、いわゆる大乗仏教の経典は釈迦の言行ではなく、後世の産物という主張)によって儒教を批判したため破門されたというが、これは富永を批判する仏教僧側からの主張であるので事実としては疑われている。その後田中桐江のもとで詩文を修め、また20歳のころ家を出て宇治の黄檗山萬福寺一切経の校合に従事し、黄檗宗仏典の研究に励むなか、仏教に対する批判力を培っていった[4]

元文3年(1738年)24歳で、『翁の文』(おきなのふみ)を著述、のち延亭2年(1745年)仏教思想の批判的研究書『出定後語』(しゅつじょうごご、しゅつじょうこうご)を刊行。[5]翌年32歳の若さで夭折した。

富永仲基の説で、特筆すべき第一は、後発の学説は必ず先発の学説よりもさかのぼってより古い時代に起源を求めるという[2]加上」(かじょう)の考え方にあり、その根底に「」があること、これが即ち聖と俗とを区別する根本であるとする点にある(『出定後語』参照)。この説は本居宣長、後には内藤湖南村上専精により評価された。

また、思想に現れる民族性を「くせ」とよんでこれに着目。インドは空想的・神秘的、中国は修辞的で誇張する、日本は隠すくせがある、と述べて、それぞれの文化を相対化し比較観察したことは、文化人類学的発想の先取りと指摘されている[3]。さらに、宗教批判と近代批判とを結びつけるような視点をもった先駆的思想家として、デイヴィッド・ヒュームフリードリヒ・ニーチェに比する見方もある[6]

ほかに、古代中国の音楽から日本の雅楽に至るまでの音律の変遷をたどった、漢文による20歳代の時の著作『楽律考』があることが1937年にわかり、写本影印本や現代日本語訳が出版されている[7]。    

著書

  • 「翁の文」石浜純太郎,水田紀久,大庭脩校注『日本古典文学大系 第97 (近世思想家文集)』岩波書店 1966
  • 『日本の名著 18 富永仲基・石田梅岩』加藤周一編 翁の文(楢林忠男訳)出定後語(石田瑞麿訳)中央公論社 1972
  • 『日本思想大系 43 富永仲基,山片蟠桃』水田紀久校注 出定後語 岩波書店 1973
  • 『出定後語』隆文館 1982
  • 『富永仲基の「楽律考」 儒教と音楽について』横田庄一郎編著 印藤和寛 訳・解題 朔北社 2006

関連書籍

  • 石浜純太郎『富永仲基』創元社 1940
  • 脇本平也『近代の仏教者 出定後語<富永仲基> 我が信念<清沢満之>』筑摩書房 1967 日本の仏教
  • 梅谷文夫, 水田紀久『富永仲基研究』和泉書院 1984
  • 宮川康子『富永仲基と懐徳堂 思想史の前哨』ぺりかん社 1998
  • 加藤周一『富永仲基異聞 消えた版木』(戯曲)かもがわ出版 1998

脚注

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外部リンク

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  1. 鬼=幽霊や妖怪 は存在しない、という考え方
  2. 2.0 2.1 Web懐徳堂 懐徳堂の人々 町人学者 富永仲基(とみながなかもと) 1715~1746
  3. 3.0 3.1 水田紀久 「富永仲基 とみながなかもと」世界大百科事典
  4. 富永仲基(とみながなかもと) 日本大百科全書(小学館)
  5. 富永仲基【とみなが-なかもと】デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
  6. 島薗進 「宗教学の成立と宗教批判 : 富永仲基・ヒューム・ニーチェ」(<特集>宗教批判の諸相) CiNii 論文PDF - オープンアクセス 『宗教研究』 82(2), 223-245, 2008-09-30 日本宗教学会
  7. 「江戸の思想家 響く音楽論」日本経済新聞 2007年1月18日