黄檗宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:出典の明記テンプレート:Sidebar 黄檗宗(おうばくしゅう)は、日本における仏教の宗派であり、臨済宗曹洞宗に次ぐ禅宗の一つである。の僧・黄檗希運臨済義玄の師)の名に由来[1]する。臨済宗、曹洞宗が日本風に姿を変えた現在でも、黄檗宗は明朝風様式を伝えている。

本山隠元隆琦の開いた、京都府宇治市の黄檗山(おうばくさん)萬福寺である。

歴史

日本では、江戸時代初期の1654年承応3年)に明末清初の中国から招聘された中国臨済宗隠元隆琦により始まる。1740年元文5年)に第14代住持に和僧の龍統元棟が晋山するまでは伝統的に中国から住職を招聘してきた。隠元の禅は、鎌倉時代の日本臨済宗の祖である円爾無学祖元等の師でもある無準師範の法系を嗣ぐ臨済禅であり[2]、当初は正統派の臨済禅を伝えるという意味で「臨済正宗」や「臨済禅宗黄檗派」を名乗っていた。宗風は、明時代の中国禅の特色である華厳天台浄土等の諸宗を反映したいわゆる混淆禅の姿を伝えている。幕府の外護を背景として、大名達の支援を得て、鉄眼道光らに代表される社会事業などを通じて民間の教化にも努めたため、次第に教勢が拡大した。萬福寺の塔頭は33ヵ院に及び、1745年の「末寺帳」には、1043もの末寺が書き上げられている。

1874年(明治7年)、明治政府教部省が禅宗を臨済、曹洞の二宗と定めたため、強引に「臨済宗黄檗派」(りんざいしゅうおうばくは)に改称させられたが、1876年(明治9年)、黄檗宗として正式に禅宗の一宗として独立することとなった。

鉄眼一切経

隠元の法孫に当たる鉄眼道光は艱難辛苦の末に隠元のもたらした大蔵経を底本とした『鉄眼版(黄檗版)一切経』といわれる大蔵経を開刻・刊行し、これによって日本の仏教研究は飛躍的に進んだばかりか、出版技術も大きく進歩発展した。一方、了翁道覚は錦袋円という漢方薬の販売により、収益金で鉄眼の一切経の開刻事業を援助する一方、完成本を誰もが見られるようにする勧学院を各地に建て、日本の図書館の先駆けとなった。後に鉄眼一切経は重要文化財に指定され、黄檗山万福寺山内の宝蔵院で現在も摺り続けられている。

ファイル:Obaku monks and priests.jpg
萬福寺における新年法要

黄檗唐音

黄檗宗に於ける読経は、現在も古い中国語の発音で行われており、これを「黄檗唐韻(とういん)」と呼ぶ。

黄檗法系略譜

太字は渡来僧・<>は未顕法者・前置きの数字は萬福寺住持世代・イタリック体は渡来せず

テンプレート:Familytree/start テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree

テンプレート:Familytree/end

寺院

参考文献

※図録「黄檗の美術 江戸時代の文化を変えたもの」1993年 京都国立博物館

  1. 鎌田茂雄『中国仏教史』
  2. 黄檗宗とは - コトバンク/世界大百科事典

関連項目

外部リンク