曹洞宗

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テンプレート:Sidebar 曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国禅宗五家(曹洞、臨済潙仰雲門法眼)の1つで、日本においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗臨済宗黄檗宗普化宗)の1つである。本山は永平寺福井県)・總持寺横浜市鶴見区)。専ら坐禅に徹する黙照禅であることを特徴とする。

中国禅宗の祖である達磨大師から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓山宝林寺慧能の弟子の1人である青原行思から、石頭希遷(石頭宗)、薬山惟儼雲巌曇晟と4代下った洞山良价によって創宗された[1]

中国における曹洞宗

中国曹洞宗は、洞山良价と彼の弟子である曹山本寂を祖とし、はじめ「洞曹宗」を名乗ったが、語呂合わせの都合で「曹洞宗」となったというのが定説の1つとなっている[2][3]。また、道元をはじめ日本の禅宗では、洞曹宗の「曹」は曹山本寂ではなく、曹渓慧能(大鑑慧能 638-713年)から採られている、という解釈がなされている[2]。(道元がこのような解釈をした理由は、曹山本寂の系統分派は途絶えていて、道元が学んだのが雲居道膺につながる系統であったためである。)

道元らが提唱した系譜は、前述した南方禅の六祖大鑑慧能にさかのぼり、その弟子青原行思石頭希遷-薬山惟儼-雲巌曇晟-洞山良价-‥‥とつづく法脈である。曹山本寂の系譜は四代伝承した後に絶伝した一方で、洞山良价の一系譜のみが現在まで伝わっている。洞山良价の禅学思想に基づき、曹洞宗の禅風は「万物皆虚幻、万法本源為佛性」である。

洞山良价から5代下った大陽警玄には弟子がいなかったため、師資の面授を経ずに付法相承する「代付」によって投子義青へと嗣法がなされることで、北宋末における再興が成された[4]

次代の芙蓉道楷の弟子の代になると、宋の南遷による南宋の成立に伴い、河北に留まる鹿門自覚の系統と、江南に下る丹霞子淳の系統に分かれた。

丹霞子淳の門下には、宏智正覚真歇清了がおり、宏智正覚は「黙照禅」を提唱し、「看話禅」を提唱する臨済宗大慧宗杲と対立したことや、多くの弟子を持ち「宏智派」を形成したことで知られ、他方の真歇清了の門下では3代下った天童如浄から道元が日本へと曹洞宗を伝えた。宏智正覚の高弟であった自得慧暉の系統が、「宏智派」ではその後唯一、初に至るまで、中国曹洞宗の法脈を保ち支えていくことになった。この「宏智派」の宗風は、東明慧日東陵永璵によって日本にも伝えられ、鎌倉京都五山禅林にも大きな影響を与えた[4]

他方、河北に留まった鹿門自覚の系統は、普照一辨青州希辨)、大明僧宝玉山師体雪巌慧満を経て、代に万松行秀が登場することで隆盛した。彼の弟子には、雪庭福裕耶律楚材林泉従倫などがいる。雪庭福裕は代に皇帝クビライに認められ、「国師」に指名されると共に、現在では少林カンフーの発祥地・中心地として有名な嵩山少林寺を任され中興の祖となった。現在の中国でも、嵩山少林寺(曹洞正宗)が華北地方の拠点として有名である。

以上の主な法嗣をまとめると、以下のようになる。

日本における曹洞宗

日本における曹洞宗道元に始まる。道元は、鎌倉時代にに渡り、天童山で曹洞宗の天童如浄(長翁如浄)に師事し、1226年に帰国した。

宗祖・洞山良价から道元までの法嗣は、

となる。

道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」であるとしてセクショナリズムを否定した。このため弟子たちには自ら特定の宗派名を称することを禁じ、禅宗の一派として見られることにすら拒否感を示した。どうしても名乗らなければならないのであれば「仏心宗」と称するようにと示したとも伝えられる。

後に奈良仏教の興福寺から迫害を受けた日本達磨宗の一派と合同したことをきっかけとして、道元の入滅(死)後、次第に禅宗を標榜するようになった。宗派の呼称として「曹洞宗」を用いるようになったのは、第四祖瑩山紹瑾とその後席峨山韶碩の頃からである。 日本における曹洞宗は、中国における曹洞宗の説とは違い、曹渓山慧能禅師(638~713)と洞山良价(807~869)の頭文字を取って曹洞宗と呼ぶのを定説としている。

「臨済将軍曹洞士民」といわれるように、臨済宗が時の中央の武家政権に支持され、政治・文化の場面で重んじられたのに対し、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まった。 曹洞宗の宗紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)と五七桐紋である。

教義

「正伝の仏法」を伝統とし、「南無釈迦牟尼仏」として釈迦本尊と仰ぎ、「即心是仏」の心をもって、主に坐禅により働きかける。

曹洞宗の坐禅は中国禅の伝統と異なり、「修証一如」(無限の修行こそが成仏である)という道元の主張に基づいて「只管打坐(しかんたざ)」(ひたすら坐禅すること)をもっぱらとし、臨済宗のように公案を使う(悟りのための坐禅)流派も一部にあるが少数である。

また、道元の著書である『正法眼蔵』自体は仏教全般について記しており、不立文字を標榜する中国禅の立場からはやや異質である。

2005年現在、三大スローガンとして「人権」「平和」「環境」を掲げる。

主な経典

主によまれる経典

基本となる祖録

ご詠歌和讃

歴史

テンプレート:節stub 正治2年(1200年)、京都久我家で生まれた道元は建保2年(1214年)出家し、園城寺建仁寺で学ぶ。貞応2年(1223年) 明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受ける。天福元年(1233年)京都に興聖寺を開くが後に越前に移り、寛元2年(1244年) 傘松に大佛寺を開く。寛元4年(1246年) 大佛寺を永平寺に改め、宝治2-3年(1248-49年)、執権北条時頼波多野義重らの招請により教化のため鎌倉に下向する。建長5年(1253年) 病により永平寺の貫首を弟子孤雲懐奘に譲り、京都で没する。

永平寺2世孤雲は道元が日ごろ大衆に語った法語をまとめた『正法眼蔵随聞記』を著し、道元の教えを記録し広めることにつとめた。道元の死後、遺風を守ろうとする保守派と、衆生教化のため法式も取り入れようとする開放派の対立が表面化する。文永4年(1267年)徹通義介に住職を譲るが、両派の対立が激化(三代相論)したため文永9年(1272年)孤雲が再任する。弘安3年(1280年)孤雲が没し徹通が再任するが内部対立を収拾できず、永仁元年(1293年)永平寺を出て大乗寺を開山する。

永平寺は4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。徹通の弟子瑩山紹瑾1321年能登に總持寺を開山し、南朝後醍醐天皇より「日本曹洞賜紫出世之道場」の綸旨を得る。応安5年(1372年)、永平寺も北朝後円融天皇から「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受ける。總持寺開山瑩山紹瑾は弟子に恵まれ四哲と呼ばれた逸材を輩出した。四哲の一人峨山韶磧も優れた弟子に恵まれたが、高弟の一人通幻寂霊通幻十哲と呼ばれる優れた禅僧を輩出し、教線の拡大に寄与した。

峨山韶磧の弟子無底良韶貞和4年(1348年)、東北地方初の曹洞宗寺院として正法寺を開き、通幻寂霊の弟子石屋真梁は西国大内氏の庇護を受け応永17年(1410年大寧寺を開き、六百数十ヶ寺に及ぶ末寺を得て「西の高野」と称えられた。

元和元年(1615年江戸幕府より法度が出され永平寺と總持寺は大本山となり、奥州正法寺と九州大慈寺は本山から外れた。

宗政

ファイル:Soto Building.jpg
曹洞宗宗務庁、及び経営する東京グランドホテル

21世紀初頭の現在、曹洞宗に所属する約15,000ヵ所寺は、永平寺派の有道会と、總持寺派の總和会に所属が二分されており、宗務総長も両派が1期4年ごとに交代で担当している。閣僚にあたる内局の部長7名も両派でほぼ半数ずつ、宗議会議員(定数72名)も36選挙区ごとに両派から1名ずつ選ばれている。系列の学校法人も永平寺系の駒澤大学東北福祉大学、總持寺派の愛知学院大学鶴見大学などに二分されており理事長や学長は実質的にそれぞれの派が指名権を持っている。

著名な寺院

大本山(根本道場)

両大本山の住職を貫首と呼び、2人の貫首が2年交代で管長(宗門代表)となる。 </br>尊称として住んでいる場所にちなみ、永平寺貫首を不老閣猊下(ふろうかくげいか)、総持寺貫首を紫雲台猊下(しうんたいげいか)とも呼ぶ。

2012年1月22日からは永平寺貫首の福山諦法禅師が管長を務めている。


歴史的には正法寺岩手県奥州市)が奥羽二州の本山、大慈寺熊本県熊本市)が九州本山であった期間があるが、元和元年(1615年)の寺院法度により永平寺、總持寺のみが大本山となる。また、江戸時代に来日した明僧、東皐心越によって開かれた曹洞宗寿昌派は祇園寺茨城県水戸市)を本山とした。心越の法系は道元と別系であったが明治維新後、合同した。

僧堂

大本山僧堂

専門僧堂


専門尼僧堂

曹洞宗総合研究センター教化研修所 - 東京都港区

その他著名寺院

日本国外の寺院

明治大正時代の日本人の海外移住と共に、ハワイブラジルなどに開教された。ペルー慈恩寺は南米大陸最古の仏教寺院である。ヨーロッパでは弟子丸泰仙が教線の拡大に貢献し、2005年現在、それらの弟子たちが世界各地で布教活動を継続している。

北アメリカ

ハワイ

南アメリカ

ヨーロッパ

関係教育機関

大学・短期大学

高等学校・中学校


かつての関係教育機関

派生した教団

  • 救世教 - 明治19年(1886年)、新潟の大道長安が曹洞宗から離脱して結成。大慈大悲の事実上の如来である観音菩薩を本尊として、自力他力を超えた観音妙力による現世救済を主張した。社会福祉に力を注ぎ全国に教線を拡大したが、明治41年(1908年)に大道長安が入寂すると後継者がいないこともあって急速に衰退。
  • 法王教 - 明治後期から大正期にかけて高田道見が推進した“通俗的”布教運動。道見は青松寺を拠点として参禅会や訪問法話会などの教化活動を続けていたが、大正期に入ってからは曹洞宗の教義にこだわらず、月刊誌などの出版物、講演会を通した在家仏教の振興に力を注ぎ、自らの活動に「法王大聖釈迦牟尼仏の本旨に基づく仏教」という意味で「法王教」の名を冠した。大正12年(1923年)、道見が入寂すると独自の教派名を冠した運動は終息した。なお、道見は最後まで曹洞宗の僧籍を保持していたため、「法王教」を独立した教団ではなく曹洞宗内の一運動であったとする見方が一般的である。
  • 三宝教団 - 昭和29年(1954年)、安谷白雲が曹洞宗から離脱して神奈川県鎌倉市に結成。同教団は道元の教えを中核に置きながら、公案を取り入れるなど独自の修行法を構築。現在は一般在家者への坐禅指導を中心とし、海外にも参禅拠点がある。

この他、曹洞宗系の単立寺院が少数存在する。

訴訟

多々良学園の破綻問題に関し、山口信用金庫防府信用金庫から12億円の賠償を求める訴訟を2006年8月に起こされている[5]。10月、山口地方裁判所から宗務庁ビルの仮差押命令が下った(仮差押自体は事実認定とは無関係に原告請求のみで可能で、被告の反論を要しない)。

宗議会選挙での買収

2010年9月に行われた宗議会議員選挙で、岩手県選挙区で当選した住職が選挙前に有権者に相当する県内の住職に対して「献香」と称して現金を配っていたことが報道された。対立候補であった当時現職の住職も3000円相当の線香を配っていたという[6]。 ただし、曹洞宗の規則では選挙時の買収の禁止という項目は存在しない。 また、公職ではないので公職選挙法の適用範囲でもない。

越南(ベトナム)における曹洞宗

曹洞宗は越南(ベトナム)など他の漢字文化圏の国にも伝わっている。 テンプレート:節stub

脚注・出典

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参考文献

関連項目

外部リンク

  • 曹洞宗とは - コトバンク/世界大百科事典
  • 2.0 2.1 テンプレート:Citation
  • ただし、『洞山語録』によれば「洞山の玄風(=老子の教え。道教)が広まる世に、諸方の宗匠を尊ぶ曹(仲間・同門)どおしをさして洞曹宗という」と意釈することができる。原文の和訳は「洞上の玄風、天下にしく、故に諸方の宗匠、ともにこれを推尊して洞曹宗という」。
  • 4.0 4.1 自得慧暉とその禅風 - 佐藤秀孝
  • 曹洞宗に賠償請求 多々良学園破たんで共同通信2006年8月16日
  • テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ