大乗非仏説

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テンプレート:Amboxテンプレート:DMC テンプレート:Sidebar 大乗非仏説(だいじょうひぶっせつ)は、大乗仏教の経典は釈尊の直説ではなく、後世に成立したものだという説である。

概説

もともとは、仏教内部において部派仏教の側から、大乗仏教とは「経典捏造による謗法」や「仏教教義からの逸脱」であるとして、大乗仏教出現以来、現在に至るまで展開されている論説である。

日本では、仏教が江戸時代に寺請け制度で権力の一翼を担い堕落していた幕末において、仏教に批判的な思想家等によって展開された。江戸時代の思想家、富永仲基加上説や、明治期の仏教学者、村上専精による「大乗非仏説論」(だいじょうひぶつせつろん[1])などが有名である。

明治維新以降、言語学などを駆使した近代的文献学研究の方法が日本に流入し、学会などでは大乗仏教が前1世紀以降から作成されたものであるとの結論から、大乗非仏説が近代的学問から裏付けられたように思われた。しかし実際には、文献学的にはパーリ経典の大部分も釈迦の死後数百年にわたり編纂されたもので、最古の経典も釈迦の死後100年以内の編纂とみなされているため、近代の文献学上は原始経典さえも釈迦の言説が明確に記録されているか否か明らかでない。

大乗仏教の経典は釈尊の般涅槃から数百年後に編纂され、釈尊に仮託された思想文学であるという結論が支持されている。 また、大乗の興起を担ったものが何であるかについては諸説あるが、既存の部派内から発生して徐々に成立した仏教思想史の一環として大乗仏典を捉える見方が一般的になっている。

伝統的な「仏説」観

経典は、ごく最古の経典を除き、冒頭で「このように私は聞いた」(如是我聞=是くの如く我聞けり)と述べ、釈迦の説法を聞き写したという体裁をとっており、現在の上座部仏教圏(スリランカビルマタイラオスカンボジア等)、大乗圏(インドネパールチベットモンゴル中国朝鮮日本ベトナム等)のいずれの伝統教団も、大蔵経 (一切経)として擁する膨大な経典群を、歴史上の釈迦が八十数年の間に説いたものとして扱っている。[2]

大乗仏教圏は、経典に使用する言語により、

  • サンスクリット仏典圏(インド・ネパール)
  • 漢訳仏典圏(中国・朝鮮・日本・ベトナム等)
  • チベット語仏典圏(チベット・モンゴル)

の三つに大別されるが、そのうち、

  • インドでは、大乗思想は発生当初より、説一切有部などの部派から批判され、大乗側からは『大乗荘厳経論』「成宗品」のように大乗非仏説に対する反論も展開された。
  • 中国では、仏教の初伝以来、数世紀にわたり断続的に仏典の請来と翻訳が続いたが、作成年代が異なる経典間に大きな相違がある事実から、仏典群の整理分析にあたっては、いずれの経典に釈尊の真意が存在するか、という方向がとられた。中国の内外に大きな影響を与えた説としては、天台大師智顗による五時八教教相判釈があり、歴史上の釈尊の段階的時期に配置し、その中で『法華経』を最高に位置付けた。智顗の説は、日本の天台宗や、日蓮系の諸宗派にも採用されている。
  • チベットでは、8世紀末から9世紀にかけ、国家事業として仏教の導入に取り組み、この時期にインドで行われた仏教の諸潮流のすべてを、短期間で一挙に導入した。仏典の翻訳にあたっても、サンスクリット語を正確に対訳するためのチベット語の語彙や文法の整備を行った上で取り組んだため、ある経典に対する単一の翻訳、諸経典を通じての、同一概念に対する同一の訳語など、チベットの仏教界は、漢訳仏典と比してきわめて整然とした大蔵経を有することができた。そのため、チベット仏教においては、部分的に矛盾する言説を有する経典群を、いかに合理的に、一つの体系とするか、という観点から仏典研究が取り組まれた。

これらインド外の両仏典圏の伝統教団では、経典が釈迦の直説であることは自明の伝統とされ、疑問や否定の対象とはされてこなかった[3]

近世以降の大乗非仏説

近世以降の「大乗非仏説」説では、文献学的考証を土台とし、仏教が時代とともにさまざまな思想との格闘と交流を経て思索を深化し、発展してきたことを、「実際存在する/伝わった経典を証拠に、事実として示す」のが特徴である。

議論

大乗経典は元々の口伝による伝承そのものが存在しないという主張がある。

すでに紀元前1世紀頃には、上座部(南方分別説部)が布教されたスリランカにおいてパーリ語経典が貝葉に記録されているが、このスリランカに伝承されたパーリ五部と、シルクロードを経て2世紀半ばから中国で漢訳されはじめた阿含経(漢訳四阿含等)とでは、部派が異なるにもかかわらず教えの内容がほぼ一致している。このともにインド文化圏の周辺域で記録された経典が共通性を持つことに注目し、そして紀元前2世紀~前1世紀にかけてインド仏教聖地で建立された碑文に「五部の精通者」云々の語句が認められることを勘案すれば、大乗仏教運動が起った時点ではすでに諸部派において「釈尊の言い伝え」として承認される経典の範囲が確定していた可能性は高い。

つまり、大乗経典は四部または五部に分類される経典のどこにも場所を持たなかったと考えられるのである。

文献学的考証に対する扱い

文献学研究の結果では、時代区分として、初期仏教(原始仏教)の中の仏典『阿含経典』、特に相応部(サンユッタ・ニカーヤ)などに最初期の教え(釈迦に一番近い教え)が含まれていることがほぼ定説になっており、少なくとも「大乗仏典を、歴史上の釈尊が説法した」という文献学者はいない。

文献学に対する信仰的観点からの反論

テンプレート:独自研究 信仰的な立場から、「歴史上の釈迦の説法ではないので、大乗仏典には価値がない。真理ではない。」という立場をとらず、釈迦の直説ではないことを認めつつ、そこに宗教上の価値を認める意見もある。その一例として、「イソップ寓話は事実でなく虚構ではあるが、それに全く意味や価値がないというわけではない」というものがある。[4]また、儒教においては、「性善説」「格物致知」「太極」といった孔子以後の孟子朱子といった後世の儒者が説いた学説があるが、「孔子が説いていない」ことを理由にそれら学説の価値を否定する議論は近世の日本やの一部学者(考証学派など)を除けば有力ではない。

要約すると、彼らの主張は「”大乗非仏説”は単なる事実を示すだけで、価値の有無を表すものではない。」という立場である。

また、伝統的な信仰によらず、文献学に根拠を持たない独自の信仰的立場から、釈迦の直説には阿含経に記されていない、より高度な思想があったという主張を行なっている学者もいる。

例えば中村元は「サーリプッタに説いたブッダの教えはいったいどこにいってしまったのか」と述べ[5]増谷文雄も「ブッダがサーリプッタに説いた宗教的深遠な教えは、阿含部経典よりも多かったに違いない」[6]として、"ブッダはサーリプッタに対して、深遠な思想を説いたが、その内容は阿含経典には残されていない"という趣旨の主張を行なっている。

しかしながら、中村・増谷らの「阿含経典に見られない、宗教的により深遠な教え」をブッダはサーリプッタに対して説いていたはずであるという主張は文献学的に何の根拠もなく、証明不可能である。

さらに中村元は、著書の中でテンプレート:要出典範囲という独自の説を述べている。[7]テンプレート:要出典範囲のに対して、テンプレート:要出典範囲のであり、縁起に真如を見るという思想は、一切衆生悉有仏性という大乗の教えそのものである、といった主張もなされている。[8]

大乗仏典は、行者たちが瞑想のなかで出会った仏の教えを記したもの、という主張もなされている[9][10]


インドの口伝の伝統との関係

テンプレート:独自研究 近世以降の大乗非仏説には、宗教に関するインド人の伝統を無視している、との批判がある。 それによれば、「インドでは古来、宗教の聖典は口伝によって伝承し、文字にして残さないという伝統があった。よって、釈迦が大乗仏教を説いていたとしても、釈迦の死の直後に文字に記されなかったことはむしろ当然であり、釈迦の死の直後に記された大乗経典の実物が発見されていないことは大乗仏教が仏説ではないことの根拠にはならない」とするものである。具体例を挙げると、

  • バラモン教の聖典ヴェーダは、14世紀後半に南インドにおいて文字で記されるまで、一切の教えを口伝によって伝承していた[11]
  • 中国の僧法顕は、399-414年にインドを旅行したが、経典はもっぱら口伝され、文字と書が用いられないことを伝えている[12]。釈迦の入滅は紀元前480~380年とされているので、法顕がインドを訪問した時点で釈迦の死から800~900年前後が経過していることになるが、その時点に至ってもまだインド仏教においては口伝が行われていたということになる。
  • 大乗非仏説は経典が文字に記された時期を主たる根拠としているが、インドには聖典を文字に記さないという伝統があったため、釈迦が生前に説いた大乗仏教を弟子たちが文字に記さなかったとしても、何ら不自然ではないということになる。
  • また、ある大乗経典の内容に後世に付加された要素があるとしても、それがその経典の主要な法理を構成する部分でない限り、その大乗経典が釈迦の直説を含んでいないということを意味するものではない。
  • テンプレート:要出典範囲ので、後世に付加された部分を除く大乗仏教を釈迦が説いていたという推論も成り立つ。
    • 南伝大蔵経などに共通する記述のない、ある一部の思想を大乗思想と呼ぶのであって「後世に付加された部分を除く大乗仏教」などというものは存在しない。
  • 大乗非仏説は、その前提としている事実=文字に記した経典の成立時期や内容に対する後世の影響と結論=「大乗経典は釈迦の直説ではない」との間に論理的なつながりがなく、前提事実から結論に至るまでの間に論理が飛躍している。

同じ前提事実から推論を開始しても異なる説明・結論が成り立つので、大乗非仏説は論理的必然性のない非常に根拠の弱い学説であるとするのが、大乗非仏説を問題視する立場の見解である。

しかし、この主張の決定的な問題点は、口承伝承をもっぱら重んじる「宗教に関するインド人の伝統」は、出自が不明確な大乗仏典がなぜ仏説として流通しえたのかの説明にはなっても、大乗非仏説そのものを否定する論拠にはなり難く、また大乗経典とパーリ語経典の成立時期に大きな差があることを合理的に説明する論拠ともなりえない点である。また、文字に記されなかっただけで、釈迦も大乗仏教を説いていたに違いない、といったような推論に多くの部分を負っている。

この、成立時期の大きな時間差については、根本分裂前の教団が、後に大乗仏教と呼ぶ部分を理解してもらうために方便として広める必要のある物から順に文字化されただけだという意見もあるが、あくまで推論の域を出ない。 大乗の経典を否定するテンプレート:要出典範囲

大乗非仏説に対する扱い

大乗論師の反論

中観派の開祖とされる龍樹は、その著書において、たびたび「大乗は仏教にあらず」という主張に対する反論を行なっている。 「宝行王正論」においては、「大乗は徳の器であり、己の利を顧みず、衆生をわが身のように利する」として大乗の思想を称賛し、 釈迦の根本教説を「自利・利他・解脱」とし、六波羅蜜は「利他・自利・解脱」を達成するものであるから仏説であると主張している。 また同書において、大乗を誹謗する者に対しては、忠告を行なっている。

伝統教団

日本の仏教界では、いずれかの宗派に属する僧侶でもある研究者は、大乗仏典は価値があり自分の信仰の基盤であることを認めた上で、文献学的考証に基づく仏教思想や経典の歴史的展開を事実として受け取っており、教団として出される布教文書にまで仏教思想の歴史的発展について記述する例も見られる。この結果、歴史上の釈尊の教え、大乗仏教の教え、それの発展である宗祖(法然、親鸞、道元、日蓮、一遍…)の教えをどのように受け止めたら良いかの課題がある。ただし、一般の仏教徒にとっては、宗祖の教えが中心になるので、特に相違が意識されることはない。

中国ブータンモンゴル(含む内蒙古ブリヤートトゥバカルムイク)、ネパールなど、他の大乗仏教圏諸国では、信者ではない人々による勝手な営為として扱われ、信仰をゆるがす問題としては受け取られていない。

仏教系新宗教教団

原理主義色が強い仏教系宗派(特に新宗教教団)では、これらの批判を無知な学者による根拠なき誹謗中傷として退ける場合が多いテンプレート:要出典

脚注

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外部リンク

  1. 『岩波 仏教辞典』第2版に拠る。
  2. 密教経典の一部には阿閦仏(あしゅくぶつ)が説いたとされるものもあるが、テンプレート:要出典範囲ことで、究極的には全ての経典について、釈尊が説いたものと見なされる。
  3. 法相宗徳一真言宗を批判した『真言宗未決文』のように、釈迦を教主としない経典の出自を疑ったケースは存在する。
  4. 例えば「『法華経』の内容は事実か事実でないか」を議論するのではなく、長期間に数期に分けて連綿と『法華経』を作成し続けた大勢の人々がいたのは事実であり、「その人々は『法華経』の物語で何を伝えたかったのか」を考える必要があり、その物語の中に全ての人を救う価値がある。
  5. 『中村元選集 決定版 13 仏弟子の生涯』(春秋社 1991年10月発行)参照。
  6. 『仏教の思想(1)~智慧と慈悲・仏陀』(角川書店)参照。
  7. 『龍樹』(講談社 2002年6月発行)参照。
  8. もちろん、このことは大乗経典が全て釈迦の直説であるということを意味するものではない。
  9. 仏教説話大系編集委員会編『仏教説話体系 第40巻 仏陀の教え』鈴木出版、119頁
  10. 末木文美士監修『仏教 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ』PHP研究所、60頁
  11. コーサンビー『インド古代史』岩波書店p.113
  12. 中村元『ヴェーダの思想』p.49、『高僧法顕伝』大正蔵no.2085第51巻p.864