阿含経

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テンプレート:Sidebar阿含経』(あごんきょう、あごんぎょう、テンプレート:Lang-pi-short, アーガマ)とは、初期仏教経典である。「阿含」とは、サンスクリットパーリ語の「アーガマ」の音写で、「伝承された教説、その集成」という意味である。

漢訳の『阿含経』としては、増一四阿含(しあごん)があり、大正蔵では冒頭の阿含部に収録されている。パーリ語の「アーガマ」は、パーリ語仏典経蔵(五部)を指す。両者は共に原始経典から派生したので、一定の対応関係がある。

構成

パーリ語仏典の経蔵と、漢訳『阿含経』の主な対応関係は以下の通り。

  1. 「長部」(テンプレート:Lang-pi-short, ディーガ・ニカーヤ) : 『長阿含経』(じょう-) - 長編の経典集。全30経。
  2. 「中部」(テンプレート:Lang-pi-short, マッジマ・ニカーヤ) : 『中阿含経』 - 中編の経典集。全222経。
  3. 「相応部」(テンプレート:Lang-pi-short, サンユッタ・ニカーヤ) : 『雑阿含経』(ぞう-)- 短編の経典集。全1362経。
  4. 「増支部」(テンプレート:Lang-pi-short, アングッタラ・ニカーヤ) : 『増一阿含経』(ぞういつ-)- 法数ごとに集められた短篇の経典集。全473経を全11集にまとめたもの。
  5. (「小部」(テンプレート:Lang-pi-short, クッダカ・ニカーヤ) - 『法句経』(ほっくきょう)や『本生経』(ほんじょうきょう)など。漢訳では相当文が散在するが、主に大蔵経の「本縁部」に相当する。)

歴史

釈迦の死後、その教説は迦葉阿難を始めとする弟子達によって何回かの結集を経てまとめられ、経蔵(sutta-piṭaka, スッタ・ピタカ)を形成した。他方、守るべき規則は律蔵(vinaya-piṭaka, ヴィナヤ・ピタカ)としてまとめられた。

一般に、紀元前4世紀から紀元前1世紀にかけて徐々に作成されたものであると言われている。

経蔵はそれぞれ「阿含」(āgama, アーガマ)または「部」(nikāya、ニカーヤ)の名で呼ばれた。現存するものは、スリランカミャンマー(旧ビルマ)、タイカンボジアラオスベトナムに伝えられている『パーリ語仏典』と、それに相応する漢訳経典などである。

中国においても原初的な経典であることに気付いており、研究を行った記録もあるが、大勢を占めることはなかった。天台宗教相判釈である「五時八教」では、『阿含経』は釈迦が布教最初期に一般人向けに説いた、最も平易かつ初歩的な教えだと位置付けている。

日本にも伝播初期から伝えられており、倶舎宗で研究されていたとされるが、ほとんど伝えられていない。

このニカーヤや『阿含経』は、ヨーロッパの研究者によって注目され世界中に広がった。そのため、ヨーロッパの哲学へ与えた影響は大乗経典より大きく、「新しい宗教」の考え方の基盤となっているとされる。しかし、厳密な翻訳作業を経ていないため誤った認識を示しているものも多く、注意を要する。

研究史

上述の通り、阿含経は日本の仏教者にとって永らく注目されずにあったものだが、ヨーロッパの研究者に学んだ明治以降は日本でも盛んに研究され今日に至っている。以下、パーリ語の研究史とも併せて略史を記す。

研究の契機は、イギリスによるセイロン島支配(1815年に英領編入が完了)であった。1824年イギリス人宣教師クラフによってパーリ語の文法書が出版[1]されて以来、まずパーリ語の研究が始まる。これはセイロンの歴史書研究の必要性からであった。フランスも、同じくパーリ語仏教圏であるタイビルマに勢力を伸ばしており、1826年ビュルヌフによるパーリ語に関する学的論文が発表される。やがてこれらの研究の成果として、1837年セイロン島史『マハーヴァンサ』(大史)がパーリ語原典からターナーによって英訳された。

同じ頃、ホジソンによって1826年にネパールサンスクリット(以下、梵語)仏典が紹介されており、欧州は仏典に梵語によるものとパーリ語によるものの別が存在することを知った。この両者の新古をめぐって論争が起こり、仏典の比較研究が始まる。1852年に上述のビュルヌフは『法華経』をフランス語訳したが、このようにパーリ語仏典の研究は梵語の研究と深い関係を持つものであった。ホジソンはやがて梵語仏典が古層であるという自説を撤回したが、ビュルヌフにしても、梵パ仏典の前後関係については資料不足のために結論を出すことは出来なかった。

1855年ファウスベルが『法句経』のパーリ語原文とラテン語訳を出版して以降、原典出版が盛んとなり、1881年にはリス・デヴィッズによってパーリ聖典協会(Pāli Text Society)がロンドンに設立され、パーリ語学者の総力を挙げて組織的な出版が開始されるに至る。今日に至るまで、同協会の出版がパーリ語仏典研究の基礎である。

既に記したように、パーリ語の研究は当初キリスト教の宣教師によって開始されたもので、宣教師の研究動機は「仏教よりもキリスト教が優れている」ことを証明するため[2]であった。これに対し、植民地支配の構造とも相俟って劣勢に置かれた仏教徒の反論がなされた。1873年セイロンのグナーナンダは新聞社主催の討論でキリスト教を論破し、仏教の威信を回復した。これを機会に1874年コロンボヴィドヨーダヤ大学が設立されて、仏教徒による研究が起こった。

セイロンの仏教は、ポルトガルオランダヒンドゥー教徒の国王の迫害などによって数度にわたり出家比丘サンガの伝統が途絶えた。現存する比丘サンガは、1756年にタイから、ついでビルマから具足戒を逆輸入することで復興された。このために、タイ・ビルマの仏教徒の研究と出版の成果が、国際色の強いセイロンから発表されるという構図を取ることとなった。セイロンは南伝上座部仏教の国際センターといった地位を獲得したのである。

明治以降の日本の仏教者も、セイロンやタイへの留学が先行して流行した。その後、梵語仏典やインド哲学一般との関係、仏教一般といった視点の獲得を求めて欧州への留学が盛んとなった。日本の仏教者は大乗仏教徒であり、欧州留学の主要な動機も梵語研究にあった。しかし、梵語を習得すればパーリ語の読解も比較的容易であるため、当初は梵語に比べて二次的な関心しか払われなかったパーリ語研究も、時間が経つにつれて梵語・パーリ語・漢語・チベット語の比較対照研究といった方面から盛んとなる。

南条文雄は1883年に英訳『大明三蔵聖教目録』(南条目録と呼ばれる)を出版したが、その中で漢訳の阿含経とパーリ語のアーガマが対応関係にあることを指摘した。この、漢訳仏典との関係という方面については、欧州ではほとんど研究されていない分野であり、その関係も不明とされていた。

高楠順次郎が1896年に漢訳『善見律毘婆沙』がパーリ語律蔵の注釈書『サマンタパーサーディカー』の翻訳であることを発表、パーリ語仏典と漢訳仏典の対応を証明した。高楠は帰国後に東京大学で梵語とパーリ語の講義を開始、その後に彼の主導によって編纂がなされた『大正新修大蔵経』には、阿含部と律蔵についてパーリ語仏典の相当箇所が注記されている。

姉崎正治椎尾弁匡によるパーリ五部と漢訳四阿含の綿密な対照研究以降、渡辺海旭長井真琴干潟竜祥渡辺楳雄赤沼智善木村泰賢宇井伯寿らによってなされた比較研究は、漢文を苦手とした二十世紀初頭までの欧州の研究を基礎としつつ、伝統的な漢訳仏典研究の基盤というアドバンテージのある日本の研究者の独擅場となる。ここに、日本の近代仏教学の国際的地位が確立した。その精華として、日本の研究者がその総力を挙げてパーリ語の仏典を国訳した『南伝大蔵経』は、翻訳事業としては欧州の研究を規模において凌ぐものであった。しかしながら、このパーリ語仏典というものの成立時期が確定せず、テンプレート:要出典範囲

日本では、学問的に還元されうる原始仏教への強い関心からも阿含の研究が盛んとなったのであるが、パーリ語のアーガマにも新古の層があることが判明してゆくにつれ、大乗非仏説に対する小乗非仏説まで登場した。今日、疑いなく釈迦の直説と認められるものを求めることは不可能に近いが、もしも[3]テキストの中にそれが含まれるのだとすれば、それは阿含と律であるとされる説は明治以来の欧米文化の輸入とともに、盛んになったものだが、テンプレート:要出典範囲

内容

釈迦の言葉と呼ばれているものはこの経典に納められているものが多く、有名なものに「毒矢の例え」や、自灯明・法灯明などがある。釈迦の最後を記した『大般涅槃経』はニカーヤの長部経典の一部である。阿含経の内容にはかなりの多様性がある。

漢訳の『阿含経』は、パーリ語のものからの翻訳とは考えられない形跡がある。同経典が他の俗語やサンスクリット語で伝えられ、漢訳されたとも考えられている。さらに、パーリ語の「ニカーヤ」は、その名の通り部派仏教の部派にそれぞれ独自に伝えられており、少なからず異同がある。逆に、その異同によって部派を特定することも可能である。

漢訳阿含経の信頼性

漢訳は一般に意訳も多く、明らかに原語にない言葉が挿入されている場合もある[4]。このため、漢訳『阿含経』の信頼性はより低いものという説もあるが、パーリ語文献が絶対とも言えない。

日本語訳

全訳

  • 『国訳一切経』「印度撰述部 阿含部」 第1-10巻 大東出版社

部分訳

  • 『新国訳大蔵経』「長阿含経I-III、雑阿含経I-II」 大蔵出版
  • 『現代語訳「阿含経典」』 第1-6巻(長阿含経) 平河出版社

脚注

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関連項目

外部リンク

テンプレート:仏教典籍
  1. Clough,Benjamin: A Compendious Pali Grammar, with a Copious Vocabulary in the same Language, Colombo, 1824.
  2. 水野弘元『パーリ語文法』(山喜房仏書林, 1955), pp209. 注で当時の宣教師P. Bigandetが出版した仏伝の序文も掲載している。
  3. 『仏典解題事典』(春秋社, 1966, 1977) 阿含経の項目参照。
  4. アングリマーラ経鴦掘摩経