大久保長安事件

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大久保長安事件(おおくぼながやすじけん)は、慶長18年(1613年)4月に起こった江戸時代初期の疑獄事件。

事件

発端

江戸幕府成立後、幕府内部では大久保忠隣とその与力といえる大久保長安を中心とした武断派と、本多正信本多正純を中心とした文治派が互いに派閥を形成し、幕府内部における権力をめぐって激しく闘争していた。忠隣は家康の青年期から仕えた武将で、徳川四天王に劣らぬ武功を挙げた人物であり、正信は家康の側近としてその知略において幕府創設に貢献した人物である。忠隣には長安や本多忠勝などの正信にかねてから反感を抱いていた武断派が与し、正信には正純や土井利勝酒井忠世といった徳川氏の家老的存在が与していた。

慶長17年(1612年)、岡本大八事件が起こった。大八は正純の与力であったため、大八が有馬晴信から賄賂として受け取った6000両を、正純が一部受け取ったのではないかという疑惑を招いた。実際には正純はこれを受け取っていなかったと思われるが、この事件により本多正純一派は一時その勢力が衰退し、幕府内での権力闘争で大久保派が優位に立つこととなった。

翌慶長18年(1613年)4月25日、大久保長安が駿府屋敷にて中風のために死去した。享年69。長安は元・武田信玄の家臣であったが、その経済官僚としての才能を認められて家康に取り立てられ、忠隣の庇護を受けるようになった人物である。長安は家康の期待に応えて一里塚奉行、関東の奉行、金山・銀山における奉行等を歴任して、江戸幕府の初期財政を大きく支えた官僚であった。本多正信・正純親子は、政敵である大久保長安の死に乗じて勢力の巻き返しを謀り、謀略を実行に移した。

長安は金山・銀山奉行など、全国各地の鉱山奉行を務めていた。その際、金銀の取り分は家康の命令で四分六分とされていた。幕府側の取り分が四分、長安の取り分が六分である。ただし、鉱山開発における諸経費や人夫の給料などは全て長安持ちとされていた。これに対して長安はイスパニアアマルガム法という新たな鉱山開発方法を導入して、できるだけ経費がかからないように工夫していた。経費をできるだけ節減することができれば、それだけ自分の取り分が多くなるからである。ところが、本多親子はそれを利用して、長安が密かに金銀の取り分を誤魔化していたという虚偽の報告を家康に行った。

さらに長安自身も失敗を犯した。長安は派手好きな人物であったが、自身の死去にあたって、金の棺に自分の遺体を入れるようにという遺言を残していたのである。本多親子の虚偽の報告に加えて、金の棺の存在を知った家康は激怒し、直ちに駿府町奉行の彦坂光正に調査を命じた。そして長安死後の5月6日、長安が生前に収賄を犯していたという罪で、長安の腹心であった戸田藤左衛門雨宮忠長原孫次郎山村良勝山田藤右衛門らが逮捕された。このときのことを『徳川実紀』は、「六日…此日大久保石見守長安が死せしにより。その属吏をして長安が所管の諸国賦税を会計せしめられしに。長安が数年の罪あらはれ。国々に令してその査検せしめらる。よて長安が属吏等を彦坂九兵衛光正に命じ獄に下さる」と記している。

さらに本多親子は、家康に次のように讒言を繰り返した。

  • 長安は松平忠輝付家老で、その忠輝の岳父が伊達政宗であったという経緯から、長安と政宗は親しい関係にあった。本多親子は、長安が政宗の力を背景にして謀反を企んでいたと訴えた。
  • 長安は旧主の武田家に恩義を感じていたらしく、天正10年(1582年)に織田信長によって武田氏が滅亡した後、信玄の次男・武田信親(龍宝)の子である武田信道(顕了)と信玄の五女・信松尼を庇護していた。本多親子は、長安が密かに武田氏の再興を企んでいると訴えた。
  • 長安は池田輝政の娘を次男の大久保藤二郎と、三男の青山成国青山成重の娘と、六男の大久保権六郎を忠輝の家老・花井吉成の娘と結婚させていた。その他にも池田輝政を通じて浅野幸長加藤嘉明山崎家盛富田信高高橋元種佐野信吉石川康長らとも縁戚関係を結んでいた。壮大な縁戚関係であるが、本多親子は先の政宗と同じく、長安が諸大名を糾合して謀反を起こそうと企んでいたと讒訴した。長安としては、本多派に対して優位に立つために諸大名を味方に取り込み、派閥を強化しようという狙いがあったが、それを逆に利用されてしまったのである。

そして長安の屋敷を調べた結果、多数の金銀が発見された。長安は横領していたわけではないが、本多親子はこれを横領と決めつけ、さらに家康も長安が豊臣氏恩顧の大名と親しかったことを苦々しく感じており、長安の横領を認めたのである。

かくして長安は「奸賊」となってしまった。『徳川実紀』では長安の罪状について、「長安が生涯寝所の下に石室を設け、その中に黒き箱有りしといふ。依て其箱をめしよせて査検あれば、其中に長安この年頃朝鮮に交通し。私に財宝をかの国に贈りし文書ども入置しが。中には大不敬の事共。又は連座の諸大名も多くあり」「長安常に寝所の下に黒櫃を置て。其中に朝鮮へ交通せし往復の書をかくし置。又庫中に常に毒酒を数十樽蓄置。又武田の系図。武田の紋幕旗等を蔵せり」と記している。

また、『武徳編年集成』においても、「長安は誠に奸賊なり」と記している。

粛清

奸賊となってしまった長安の遺族は5月17日、家康の命令で逮捕され、松平定行や忠隣らに預けられることとなった。7月9日には埋葬されていた長安の遺体が掘り起こされ、かつて岡本大八が処刑されたのと同じく安倍川河原でに処された。同日、大久保長安の7人の男児と腹心は処刑となる。

その後も粛清は続いた。大半は長安と縁戚関係にあったことから、連座処分で粛清された者が多い。

明けて慶長19年(1614年)。

その他にも、長安と深い関係にあった伊達政宗池田輝政らであるが、政宗と加藤嘉明は無罪となった。これは家康が、彼らが謀反を起こした場合を恐れたためと言われている。池田輝政は長安より3ヶ月早い慶長18年1月25日に姫路城にて死去(享年50)し、浅野幸長は同年8月に急死(享年38)、山崎家盛は慶長19年10月に死去(享年48)したため、お咎めなしとなった。ただし、幸長はあまりに突然の若すぎる急死だったため、毒殺説も囁かれている。

また、長安の寄親であった忠隣であるが、家康青年期における重度の軍功、さらに徳川秀忠からの信任も厚かったという経緯から、ひとまずは改易を免れた。しかし本多親子にとって目障りな存在である大久保忠隣は翌年、長安事件の余波のほかに、忠隣が家康の豊臣氏討伐に反対していたこと(忠隣の孫娘が豊臣氏家老の片桐且元の甥・片桐貞昌に嫁いでいた)、忠隣の養女と山口重信の無断婚姻などの諸因からまたも本多親子に讒訴されて、慶長19年1月、遂に改易となり近江へ追放された。家康は忠隣が豊臣氏討伐を反対していることに苦々しさを覚えていたとされ、本多親子は元・武田氏の家臣であった馬場八左衛門という老人を使って、忠隣について家康に讒言させたとも言われている。

徳川十五代史』においても、「大坂を倒すの策に至りては、忠隣の忠愛、性のなしがたき所において、正信父子の好んでこれを為す所なり。ここにおいては、その相容れざることますます甚だしく、忠隣の大坂の孤危を憐れむもの、却って内通の姦あるやと疑われるに至れり」と、忠隣が豊臣氏討伐に反対し、それにつけこんだ本多父子の陰謀によって改易されたと記されているほどである。

忠隣は改易後、近江国彦根藩井伊直孝預かりとなった。ただし大久保氏は、忠隣の嫡男・忠常(慶長16年に32歳で早世)の子・忠職(仙丸)が家康の曾孫であることが考慮されて、家督と武蔵国騎西藩2万石の所領を継ぐことで、存続を許された。

影響とその後

長安と忠隣の失脚により、幕府は完全に本多親子に牛耳られることとなった。一方でこれは同時に、本多親子に対する反感を惹起することとなり、後に正純が失脚する一因を作り上げたともいえる。なお、忠隣失脚後、連座として佐野信吉里見忠義(妻が忠隣の孫娘)、堀利重(妻の母親が忠隣正室の姉)らをはじめとする大久保派が全て改易され、忠隣の居城であった小田原城も破却となった。

さらに、かつての岡本大八事件で大八と晴信がキリシタンであったこと、長安事件においても長安が正式にはキリシタンではなかったがキリシタンに寛容だったこと(長安と親しかった忠輝、政宗がキリシタンに寛容だったことも)などが考慮されて、この事件を契機としてキリシタンは害悪と見なされ、幕府のキリシタンに対する弾圧が開始されることとなる。

近年ではこの事件は、金の棺に遺体を入れるようにとの遺言以外のほとんど全ては、本多親子と家康によって罪を捏造されたことで起こった粛清ではないかと言われているテンプレート:要出典。「徳川実紀」は、本多親子が策動したということをあからさまに記している。

「忠隣と正信は、職を同じくするに及んで、相嫉む事なきにしもあらず。馬場(馬場八左衛門)が八十にあまり。いくほどもなき齢の末に。何事を怨望せるか。また何者に托せられしにや。無恨の妄説をうたへて。終に良臣を讒害するに及ぶ。尤不審と言ふべし」(徳川実紀)

ただし、長安が豪勢な暮らしをしていたのは間違いないようである[1]

脚注

  1. 大日本史料 12編11冊111頁

関連項目