富田信高

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富田 信高(とみた のぶたか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名伊勢津藩主、のち伊予宇和島藩主。

生涯

豊臣秀吉の側近・富田一白の長男として誕生。母は黒田久綱の娘。正室は宇喜多安信の娘。継室は宇喜多忠家の娘(宇喜多秀家の養女)。子は富田知章(長男)、富田知儀(次男)。初名は知信(ただし、これを一白の実名とする説もある)[1]

家督相続

父が豊臣秀吉に仕える側近だったため、信高も秀吉に仕えた。文禄4年(1595年)7月15日、秀吉より父に3万石、信高には2万石が与えられ[1]、富田家は父子あわせて5万石の伊勢津の領主となった[2]

慶長4年(1599年)に一白が病死したため、父の遺領3万石を併せて継承して安濃津城に入った。

関ヶ原における安濃津城攻防

慶長5年(1600年)、信高は300名の家臣を率いて徳川家康上杉討伐に従軍したが、他の諸将とともに関ヶ原の戦いでは家康に与力することを決意し、下野小山から家臣を率いて急ぎ安濃津に戻った。富田家は石田三成と同じ近江衆であったが、信高や父・一白は三成とは不和だったため、東軍に属したという[2]

西軍は伊賀方面から東に進出しつつあることが既に報じられており、しかも安濃津は交通の要衝で必ず西軍の攻撃にさらされることが予測されたのである。同じく東軍に加担した盟友・分部光嘉伊勢上野城主)は、安濃津の信高に合流してともに西軍にあたることになったが、加えて古田重勝松坂城主)にも援軍を要請した。さらに信高は、関東に安濃津籠城の件を伝え、急ぎ家康に西上してもらうよう要請しようとしたが、西軍に与した九鬼嘉隆が海上を封鎖したため、徳川との連絡は絶たれたままを余儀なくされた。

信高の兵、光嘉の兵、更に重勝の援軍500を加えても安濃津城に籠城する東軍はわずか1700という劣勢であった[2]。対するは毛利秀元長束正家安国寺恵瓊鍋島勝茂らで構成する西軍は総勢3万にのぼった。

8月24日10月1日)、安濃津城攻防戦が開始された。光嘉は毛利家臣の宍戸元次と双方重傷を負うほど奮闘し、信高も自ら槍を振るって西軍にあたったが、群がる敵兵に囲まれたところへ、一人の若武者が救援に駆けつけ、危機一髪命を取り留めた。「美にして武なり、事急なるを聞き単騎にして出づ、鎧冑鮮麗、奮然衝昌、衆皆目属す、遂に信高を扶く…」(「逸史」より)とあるこの武者は、信高の妻であった。信高、光嘉らは健闘したものの、これ以上戦いを継続するのは困難であり、木食応其が仲介となって西軍との和平交渉が成立し(吉川広家の降伏勧告を容れた、とも伝わる[3])、信高は一身田の専修寺で剃髪して高野山にのぼった[3]

改易

関ヶ原が東軍勝利に終わると、戦後に家康よりその功績を認められ、旧領の安堵のほか伊勢国内に2万石を加増された[3]。以後は戦災で被災した津の城下町の再建に努めた[3]

慶長13年(1608年9月15日、伊予宇和島藩10万1900石に加増移封された[1][3]。信高は宇和島藩政確立のため、海運工事や掘削事業などを手掛けた[4]

しかし慶長18年(1613年)、慶長10年(1605年)頃に義弟坂崎直盛の家臣を殺した宇喜多左門(直盛の甥)を隠蔽したことで直盛との間に争いが生じ[5]、家康と秀忠の裁定により改易され、磐城平藩鳥居家に預けられた[6]。ただしこれは表向きの理由で、真相は大久保長安事件に連座したという説が有力である[7]

寛永10年(1633年)に小名浜(現在の福島県いわき市)の妙心寺派禅長寺で死去した[7]

富田家のその後

長男の知幸は徳川頼房の家臣となり、子孫は水戸藩士として存続した。次男の知儀(とものり)は、館林藩主時代の徳川綱吉の家臣となり、その後500俵を給され旗本となる。知儀の子息の知郷の代に7000石に加増され、上級旗本として存続した。

脚注

注釈

引用元

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参考文献

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  1. 1.0 1.1 1.2 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P27
  2. 2.0 2.1 2.2 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P28
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P29
  4. 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P30
  5. 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P32
  6. 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P33
  7. 7.0 7.1 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P35