井伊直孝

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日光社参の徳川家光と井伊直孝(月岡芳年『大日本名将鑑』)

井伊 直孝(いい なおたか)は、江戸時代前期の譜代大名上野白井藩主、近江彦根藩第2代藩主。井伊直政の次男。母は印具氏。井伊直勝の異母弟。正室蜂須賀家政の娘・阿喜姫。子に直滋(長男)、松千代(次男、夭折)、直寛(三男)、直縄(=直時[1])(四男)、直澄(五男)。

生涯

家督相続前

異母兄の直勝と同じ年に駿河中里(焼津市)で出生し、幼名は弁之助といった。眼光鋭く、父に似て剛直で無骨、寡黙な性格であったため、後に「夜叉掃部(やしゃかもん)」といわれ、恐れられた。直孝の生母である伊具氏は直政の正室唐梅院(徳川家康の養女)の侍女だったという説があり、正室に遠慮した直政が初めて直孝と対面したのは慶長8年(1601年)であったとされる。幼少期は井伊家領内の上野安中の北野寺に預けられ、そこで養育された。

父の死後、家督は兄の直勝が継ぎ、その頃に直孝も近江佐和山城に移り住んだ。しかし直勝が幼少であったため(病弱説もあり)、家臣がまとまらず、それを憂慮した家康の裁定によって井伊谷以来の井伊家の家臣は直勝に、武田氏の遺臣などは直孝に配属された。また井伊家の領地のうち直孝は彦根、直勝は上野安中の所領を継いだ。

直政の死後は江戸にあって秀忠の近習として仕え、秀忠が2代将軍に就任した慶長10年(1605年)4月26日に従五位下掃部助。[2]慶長13年(1608年)に書院番頭となり上野刈宿5,000石を与えられ、次いで慶長15年(1608年)には上野白井藩1万石の大名となり、同時に大番頭に任じられた。慶長18年(1613年)には伏見城番役となった。

大坂の陣

慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では、家康に井伊家の大将に指名された。大坂城攻略では松平忠直と共に八丁目口の攻略を任せられたが、同じ赤備えの真田信繁勢の挑発に乗り突撃したところを敵の策にはまってしまい信繁や木村重成の軍勢から一斉射撃を受け、500人の死者を出す大被害を生じさせた(真田丸の戦い)。後に先走って突撃したことを軍令違反と咎められたが、家康が「味方を奮い立たせた」と庇ったため処罰はされなかった。

翌慶長20年(1615年)には井伊家の家督を継ぐよう正式に命じられ、18万石のうち彦根藩15万石を拝領した(直勝は安中藩3万石を分知される)。大坂夏の陣においては藤堂高虎と共に先鋒を務め、敵将木村重成と長宗我部盛親を打ち破り(八尾・若江の戦い)、冬の陣での雪辱を遂げた。また秀忠の命により、大坂城の山里郭に篭っていた淀殿豊臣秀頼母子を包囲し発砲して自害に追い込むという大任を遂げ、その勇猛さは「井伊の赤牛」と恐れられた。戦後、井伊家は5万石が加増され、直孝も従四位下侍従へ昇格した。[3]

大坂の陣での直孝の勇猛なさまは大坂冬の陣屏風、大坂夏の陣屏風、大坂夏の陣図(若江合戦図)などに描き込まれている。

江戸幕府宿老

寛永9年(1632年)、秀忠は臨終に際して直孝と松平忠明を枕元に呼び、3代将軍徳川家光の後見役に任じた(大政参与)。これが大老職のはじまりと言われる。その後、家光からも絶大な信頼を得て徳川氏の譜代大名の中でも最高となる30万石(最終的には35万石)の領土を与えられた。徳川家綱の元服では加冠を務め、宮参りからの帰りに井伊家屋敷にお迎えした。これらと家康の遠忌法会で将軍名代として日光東照宮に名代として参詣する御用は、直孝が務めて以降先例として井伊家固有の御用となった。朝鮮通信使の応接においても幕閣筆頭としての役割を担うなど、70歳で逝去するまで譜代大名の重鎮として幕政を主導した。

に滅ぼされた南明政権の鄭芝龍の救援出兵要請を受けるかどうか幕府内で話し合った際は、その頃大量に発生していた浪人を送り込んで出兵すべきと主張した家光や徳川頼宣に対し、豊臣秀吉朝鮮出兵を引き合いに出して強く反対し、出兵しないことに決まった。その後、鄭芝龍の息子・鄭成功からも出兵要請が幕府にあったが、棚上げにされた。

長男の直滋は江戸で幼少の頃から秀忠・家光に寵愛され、何不自由なく育ったためか我が強い性格で、直孝とたびたび対立し、言い争うことが多かった。直孝死去の前年の万治元年(1658年)、直滋は廃嫡され百済寺に遁世した。弟の直縄が世子とされたが、間もなく急逝したこともあり、家中は混乱したが、万治2年(1659年)に直孝が没すると同時に末子の直澄が家督を継いだ。直孝により次の当主は直澄、その次の当主は直縄の嫡男直興と定められた。また死ぬ前に家臣の殉死を強く禁じ、その死から6年後、幕府によって殉死の禁止が正式に伝達された。

法名は久昌院殿豪徳天英大居士。墓所は東京都世田谷区の大溪山豪徳寺

人物

  • 夜叉掃部と呼ばれた。
  • 関ヶ原の戦いの折に家康が伊達政宗に与えた「百万石のお墨付き」を後になって政宗が幕府に持ち出してきた時に調停にあたり、「確かに神君家康公の御真筆である。昔なら100万石でも200万石でも賜ろうとなされたであろうが、今は太平の御世で差し上げる土地もない。このような無益な難儀を起こしても仕方がない」と話して、お墨付きを政宗から取り上げ破いて燃やしてしまった。政宗は文句を言いながらも「今後ともよしなに」と引き下がるしかなかったという。
  • 彦根城下で質素倹約を徹底させようとしたが、都に近いため派手ないでたちの者も多く、うまくいかなかった。そこで直孝は「衣服を質素に改めない者は、自分に泥を塗ることになる」と触れを出して、派手な者を見つけ次第着物に泥を塗りたくるという罰を与えたため、城下で派手な着物を着る者はいなくなった。
  • 晩年も質素倹約を旨として、粗末な身なりで畳も敷かず竹のすのこで寝て、屋敷内にすきま風が吹き荒ぶような生活をしていたため、流石にあきれた医者が「不養生が過ぎる」ととがめると「戦場では湿った土の上でも寝るものだ。体を温めるようでは徳川の先手は務められぬ。これしきの寒さで死ぬようならもっと頑強な者が当主になったほうが将軍家の御為になる」と言い返したという。庭に植木もなく雑草が生い茂っていたという。
  • 江戸で直孝が鷹狩に出た帰りに小さな貧しい寺(弘徳庵)の前を通りかかると、中に入るよう手招きする猫がいたため、その寺に入った。すると辺りは突然雷雨となった。雨宿りをしながら寺の和尚と話をしているうちに、直孝は和尚と親しくなった。この寺は後に寄進を受け、立派に改築されて井伊家の菩提寺とされ、直孝の法名にちなんで豪徳寺と号した。それからその寺では、猫の手招きが寺の隆盛のきっかけになったことから「福を招き縁起がいい」として、招猫堂を立てて祀った。この話が招き猫ひこにゃんの由来である。
  • 徳川家綱が11歳で将軍に就いた時、大名たちの列座の前で当時水戸藩嗣子だった徳川光圀が「もし天下を狙う者があれば、幼少の家綱様が将軍に就かれた今がその機会である。しかし自分が軍勢を率いて先頭に立ってその者を討ち取るので、そのつもりでかかって参れ」と啖呵を切った。ところが直孝がすかさず「徳川軍の一番槍の栄誉は家康公から井伊家に与えられています。いかに御親藩と言えども、水戸様はいつ家康公から一番槍の栄誉を与えられたのですか?」とクレームをつけたために、光圀は大恥をかいた。
  • 寡黙な性格で余計なことを喋らなかったため、その発言は重きを成した。さらに「直孝に色々と話を聞きたい」という話も断っていたので、ますますその言葉は貴重になり、直孝から言葉をもらっただけでそれを自慢する者さえいた。
  • 直孝が着用した薫革威段替胴具足(くすべがわおどしだんがえどうぐそく)が彦根城博物館に収蔵されている。簡素で実戦向きに作られ、機能美に優れている。
  • 家康の裁定で家督を異母兄から奪った形になり、さらに大坂の陣では多大な被害を出した軍律違反を許された上、逆に家督の相続を許可されたことから、「実は家康の隠し子(落胤)ではないか」という噂が流れた。容姿や言動が家康に似ていたという説もある。なお、直孝の実母、伊具氏については直政正室の侍女、あるいは直政が宿所とした農家の娘など複数の説があり、定かでない。
  • 大坂冬の陣の折、家康が本多忠朝に「京口の川の流れを見て参れ」と命じると、見て帰ってきた忠朝は「水の勢いが甚だ強い様子」と報告した。家康は次に直孝に命じ、見て帰ってきた直孝は「水浅く渡りやすく見えます」と報告した。家康は「見に行かせりは心ありてのものなるに」と直孝を褒めた。物見は常に戦いを進めやすいように報告すべきということを家康は言いたかったのであり、直孝はその真意に応えたのである。
  • 大坂冬の陣後、敵方の長宗我部盛親に、「徳川方第一の戦功は八尾で大坂方を破った井伊直孝」と言われた。また、盛親が二条城の門前に晒された際に、足軽から折敷に盛った粗末な飯をあてがわれ、「戦に負けて捕らわれることは恥としないが、かくも卑陋な物を食わせるとは無礼な奴。早く首を刎ねよ」と怒った。これを聞いた直孝は、盛親を座敷に上げて大名料理で供応するという心遣いをした。盛親は感激したという。

遺跡・伝承

参考文献

  • 彦根城博物館『井伊家と彦根藩』(彦根城博物館、2009年3月)
  • 彦根城博物館『直政・直孝物語-彦根を築いた井伊のお殿様-』(彦根城博物館、2009年3月)

関連書籍

  • 井伊達夫『井伊軍志』(彦根藩史料研究普及会、1988年6月)
  • 井伊達夫『赤備え』(宮帯出版社、2007年5月)
  • 井伊達夫『井伊軍志』(新装版)(宮帯出版社、2007年6月)

脚注

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関連項目


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  1. 系図纂要』には直時、『寛政重修諸家譜』には直縄とあるが同一人物
  2. 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、2013年、P116~117。
  3. 村川前掲論文、P118。