本多忠朝

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本多 忠朝(ほんだ ただとも)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名上総大多喜藩2代藩主。

生涯

天正10年(1582年)、徳川家康の重臣本多忠勝の次男として生まれる。父に劣らぬ勇将で、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに父と共に従軍して活躍した。戦後、その戦功により、父が伊勢桑名藩に移封されると、父の旧領・上総大多喜5万石を与えられた。

慶長14年(1609年)、ドン・ロドリゴ一行が航海中に難破し 上総国岩和田村(現御宿町)田尻の浜に漂着した際はこれを保護し歓待した。

慶長15年(1610年)、父が亡くなると、父の遺産を兄・忠政にほとんど横取りされたが、忠朝は何も言わなかったと言う。このため、兄よりも忠勝に似ていて武将としてふさわしいと、家康から褒め称えられたという。

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣でも活躍したが、酒を飲んでいたために不覚をとり、敵の猛攻に遭って敗退した。それを家康に咎められた忠朝は、翌20年(1615年)の大坂夏の陣のとき、汚名を返上しようと天王寺・岡山の戦いで先鋒を務め、毛利勝永軍に正面から突入し、奮戦したが戦死した。死の間際、「戒むべきは酒なり、今後わが墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなるべし」と無念の言葉を残したといわれ、死後「酒封じの神」として知られるようになった。

家康はその死を悼み、忠朝の遺児・政勝大和郡山藩主として封じた。

墓は一心寺(大阪市天王寺区逢坂)の境内にある。「酒封じの神」の伝承から、禁酒を誓う人がよく詣でている。

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