井伊直勝

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井伊 直勝(いい なおかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての譜代大名徳川氏の家臣。近江佐和山藩主、のちに上野安中藩初代藩主。直勝系井伊氏初代。

生涯

徳川四天王の一人・井伊直政の長男として遠江国浜松に生まれる。幼名は万千代。初名は直継、のちに直勝。兵部少輔。異母弟に直孝がいる。

慶長7年(1602年)、父・直政が関ヶ原の戦いのときの鉄砲傷が原因で病死すると、その跡を継いで佐和山藩主となり、名を直継と改めた。

慶長8年(1603年)から徳川家康の命を受け、西国に向けての防衛拠点としての彦根城の築城にとりかかり、慶長11年(1606年)これが完成すると佐和山城から彦根城へ居城を移した。ただし、直継は実質的に彦根藩主の地位にはあったが、家督の継承者としては分家の初代として本家の歴代当主としては数えない[1]

しばらくは若年のため家老が政務を代行していたが、元々個性の強い者が多かった配下の家臣たちがまとまらず、家中で内部対立が深刻化した。また生来病弱であったため軍役にも参戦しないことがあったという説もある。そのため憂慮した家康が事態の収拾を図り、井伊谷以来の家臣は直継に、武田氏の遺臣などは異母弟・直孝に配属された。また井伊家の領地のうち彦根は直孝、上野国安中は直継の領有とされた。

慶長19年(1614年)、大坂の役が始まると、家康は病床の直継の名代として直孝を井伊軍の大将に指名し、直継は安中の関所警護を務めた。大坂の役後、家康は期待に応えた働きを見せた直孝に正式に井伊氏の家督を継がせ、直継は上野国安中藩3万石を分知された。このときに直継から直勝と名を改めた。

寛永9年(1632年)に隠居して長男・直好に家督を譲る。直好は正保2年(1645年)に三河西尾藩万治2年(1659年)に遠江掛川藩移封され、隠居である直勝もこれに従った。

寛文2年(1662年)7月11日、遠江国掛川城で病死した。病弱といわれていたが、結果として井伊宗家の家督を継いだ直孝より長命であった。墓所は静岡県袋井市可睡斎

子孫は掛川から越後国与板に移り、与板藩として幕末まで続いた。

脚注

  1. 『井伊家と彦根藩』(彦根城博物館、2009年)

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