掛川城

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天守及び太鼓櫓

掛川城(かけがわじょう)は、遠江国佐野郡掛川(現在の静岡県掛川市掛川)にあった日本の城である。

概要

戦国時代には東海道を扼する遠江国東部の中心、拠点として掛川はしばしば争奪戦の舞台となった。朝比奈氏によって逆川の北沿岸にある龍頭山に築かれたとされ、現在見られる城郭の構造の基本的な部分は安土桃山時代に同地に入封した山内一豊によるものである。

本丸を中心に、西に搦手、南東に大手を開き、北に天守曲輪である天守丸、その北に竹之丸、南に松尾曲輪、西に中の丸、東に二ノ丸と三ノ丸、その南を惣構えで囲んだ梯郭式の平山城であった。明治以降は、廃城令によって廃城処分とされ建物の一部を残して撤去され、道路や庁舎の建設によって大半の遺構が撤去されている。現在は、1854年に倒壊した天守や一部の建物、塀が復元され、堀や土塁、石塁の復元が行われている。城跡の整備が城下に至り、電柱の埋設など都市景観の配慮に及んだ。

歴史・沿革

戦国時代

室町時代中期の文明1469年 - 1487年)年間に守護大名今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕に命じて築城したと伝えられている。

そのまま朝比奈氏が城代を務め、泰煕の子孫である朝比奈泰能朝比奈泰朝が代々城を預かった。ところが、1568年(永禄11年)、朝比奈氏の主家の今川氏甲斐国武田信玄三河国徳川家康の両大名から挟み撃ちに遭い、当主の今川氏真は本拠地たる駿府館を捨てて、朝比奈泰朝のいる掛川城に逃げ延びた。このため、掛川城は徳川勢の包囲に遭うが、泰朝は城を守ってなかなか落城しなかった。しかし、多勢に無勢もあり、和議で主君氏真の身の無事を家康に認めさせると、泰朝は開城を決断した。

氏真と泰朝は1569年2月8日(永禄12年1月23日)に掛川城を開き、相模国小田原城へ退去し、掛川城には城代として家康の重臣・石川家成康通親子が入った。間もなく駿河国に入った武田信玄が徳川家康と敵対し、掛川城に程近い牧之原台地諏訪原城を築き、さらに掛川城の南方にある高天神城では武田・徳川両氏の激しい攻防戦の舞台となった。しかし掛川城は1582年(天正10年)の武田氏の滅亡まで徳川氏の領有であり続けた。

天正年間から慶長初年

その後も掛川城は石川氏が城代を務めたが、1590年(天正18年)に家康が東海から関東に移封されると、掛川城には豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が5万1千石(のち5万9千石)で入った。一豊は掛川城の大幅な拡張を実施し、石垣・瓦葺の建築物・天守など近世城郭としての体裁を整えた城郭とした。

江戸時代

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掛川城二の丸御殿。国の重要文化財に指定されている

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、一豊は土佐一国を与えられて高知城に移転した。その後、掛川城には多くの譜代大名が入ったが、最終的には太田氏太田道灌の一族の系列)が入り、何度か城の修築も行われている。ところが、幕末1854年(安政元年)末に、東海地方一帯を大地震が襲い(安政東海地震)、掛川城も天守を含む大半の建物が倒壊した。この際、政務所である二ノ丸御殿は1861年(文久元年)までに再建されたが、天守は再建されることはなかった。

近代・現代

遺構

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掛川城大手二の門が移築された油山寺山門。国の重要文化財。

1861年(文久元年)に再建された二ノ丸御殿が現存し、1980年(昭和55年)に国の重要文化財に指定されている。現在、御殿内は入場可能となっており、採光や部屋割などをそのままにすることで、当時の風情を残す。石垣や土塁、堀の一部にも当時のものが残っている。

この他、建築物としては三ノ丸から本丸に移築した太鼓櫓が現存する。玄関下御門が明治維新後に、袋井市油山寺にそのまま移築され、これも国の重要文化財に指定されている。大手門番所も幕末の建築であり、市の指定文化財に指定されている。また、掛川市円満寺の山門として蕗(富貴)の門が、どこの門か定かではないが菊川市西方(にしかた)の龍雲寺裏門に移築されている。

竹ノ丸は江戸時代には武家屋敷のあった所だが、明治以後は豪商の松本家が購入し、屋敷の建て替えを行った。この建築が、その後に掛川市の所有となって現在まで残り、明治時代の上流階級の邸宅と小規模な庭園が当時を偲ばせる。2009年、建物の修復工事が行われ改修後は有形文化財として一般に公開されている。

天守

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復元整備された天守と城門

1604年(慶長9年)の大地震で倒壊し1621年(元和7年) に再建されたが、1854年(安政元年)旧11月4日の嘉永東海地震により再び倒壊。その後、天守は再建されず、天守台などの遺構が残るのみであった。1994年(平成6年) 市民や地元企業などから10億円の募金を集めて、戦後初となる木造による天守を再建し、掛川のシンボルとなっている。

山内一豊創建時の姿は不明であるが、1621年に再建された姿は、『遠江国掛川城御天守台石垣土手崩所絵図』に描かれている。それによれば、2重目以上が板壁で2重目には唐破風出窓華頭窓をもつ層塔型の天守が描かれている。3重目の壁は黒く縦横に線が描かれているため、戸板で囲まれた内縁高欄で、当初は外縁高欄であったと推測されている[1]

復元

3層4階の入母屋造である点と、2重目の唐破風出窓や慶長時代の様式といわれる花頭窓などは、絵図などの調査に基づいて忠実に再現されている。また、この天守を再建するに際しては、山内一豊が掛川城の天守と同様の姿に建てさせたとされる高知城の天守[1]を参考にしてそれに近い構造とし、壁は白漆喰で塗り固められている。確かに現存する高知城天守は、江戸時代末期の再建ではあるが、創建当初の天守を忠実に復興したとされるため[2]、一豊創建時の姿に近いものであると考えられている。

一方で、掛川城の天守が地震で倒壊する数年前の1851年(嘉永4年)に作成された、天守台周囲の崩落した石垣と芝土手の被害状況を示した絵図面が残っており、同時に天守の形も示されているので、嘉永地震以前の天守を知る重要な手がかりとなっている(掛川城二の丸美術館蔵)。ただし、廻り縁高欄が描かれていないことや各階壁面の下見板張りであるなど、再建された天守とはやや異なっている面もある。

史料

絵図面

遠州懸川城」1枚、1644年(正保元年) 内閣文庫蔵。

幕府が諸藩に城郭の絵図面を提出させたいわゆる『正保城絵図』によるもの。

遠江国掛川城地震之節損所之覚図」1枚、1855年(安政2年) 掛川城二の丸美術館蔵。

嘉永安政地震により城内の破壊した箇所を示した図面。幕府に提出した絵図の控え。幕末の掛川城の様相を知ることができる。

遠江国掛川城御天守台石垣土手崩所絵図」1枚、1855年(安政2年) 掛川市二の丸美術館蔵。

嘉永安政地震で崩落した天守台石垣と芝土手の被害状況を北東の方角から俯瞰して描いた絵図。倒壊前の掛川城天守の姿が描かれた史料である。

作品

小説

マンガ

現地情報

所在地
静岡県掛川市掛川1138-24
交通
東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線掛川駅から北へ徒歩7分。
料金
  • 一般:400円
  • 小・中学生:150円
上記料金で再建天守、現存御殿の2か所へ入館できる。
開館時間
  • 2月1日から10月31まで 午前9時から午後5時まで(入館は4時30分まで)
  • 11月1日から1月31日まで 午前9時から午後4時30分まで(入館は4時まで)
休館日

年末年始(12月30日から翌年1月1日まで)

景観整備

掛川駅から掛川城までの約500メートルと周辺商店街では

  • 建築物に瓦屋根と海鼠壁を初めとする、城下町風外観を持たせる。
  • 歩道敷タイルを石板調にする。
  • 電線の地中埋設による無電柱化。
  • 信号機などへのデザインポールの採用。

などの施策により、城下町風の景観が整備されている。

脚注

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参考文献

  • 掛川市教育委員会編『掛川城復元調査報告書』1998年3月
  • 榛村純一・若林淳之編『掛川城の挑戦』静岡新聞社、1994年3月

関連項目

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外部リンク

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  1. 1.0 1.1 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社 1996年
  2. 三浦正幸監修『【決定版】図説・天守のすべて』歴史群像シリーズ特別編集 学習研究社 2007年