石川康通

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石川 康通(いしかわ やすみち)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名美濃大垣藩初代藩主。伊勢亀山藩石川家初代。石川家成の長男。石川数正は従兄に当たる。正室は植村家存の娘。子に忠義(長男)、娘(内藤信正正室)、娘(松井松平康重正室)、娘(大給松平家乗正室)、娘(皆川隆庸正室)、娘(大久保忠隣の養女、山口重信正室)。官位は従五位下長門守、左衛門大夫。

概要

天正元年(1573年)、武田勝頼率いる武田軍と戦って武名を挙げた。天正8年(1580年)、父が隠居したため、家督を継ぐ。父の家成は家康の従兄弟にあたり、西三河の旗頭となった、徳川家でも一、二を争う重臣であった。天正18年(1590年)、徳川家康が関東に移封された時、それまでの戦功を賞されて上総成戸に2万石の所領を与えられた。当時の康道は徳川家中の有力大名として、井伊直政本多忠勝榊原康政大久保忠世鳥居元忠酒井家次平岩親吉らに次ぐ存在であった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、竹谷松平家清と協力して尾張清洲城の守備、石田三成近江佐和山城攻めに参加し、戦後に戦功を賞されて美濃大垣藩5万石に加増移封された。

しかし慶長12年(1607年)、父に先立って病死した。享年54。法名は華嶽宗英。

子の忠義は幼少のため、家督は父が再び継いだが2年後の慶長14年(1609年)に死去、その後は甥の忠総が継承した。


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