ジミ・ヘンドリックス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年7月28日 (月) 16:02時点におけるDirty mac (トーク)による版 (生涯)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox Musician

ジェームズ・マーシャル・ヘンドリックス(James Marshall Hendrix、1942年11月27日 - 1970年9月18日)は、アメリカ合衆国ミュージシャン27クラブのメンバー、シンガーソングライタージミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix)の名で親しまれ、日本では「ジミヘン」の略称でも呼ばれる。

概要

天才ギタリストとして多くのミュージシャンに多大な影響を与えたロックミュージックのパイオニアの一人。右利き用のギターを逆さまにして左利きの構えで演奏するスタイルで知られる。ギターを背中で弾いたり、を放ったり、破壊したりするパフォーマンスでも有名。

2008年5月にブラジルメタル専門誌『ROADIE CREW』が行った「HR/HM系ミュージシャンの選ぶギタリスト・ランキング」[1]、『ギター・マガジン』2010年12月号の「ギター・マガジンが選ぶ! 史上最も偉大なギタリスト100人」で1位、特に「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第1位、2011年の改訂版でも第1位。[2]

また、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」においては第6位に選ばれている。

生涯

生い立ち

1942年、ワシントン州シアトルに生まれる(デビューアルバムの裏には1945年生まれと記されている)。出生時の名前はジョニー・アレン・ヘンドリックス(Johnny Allen Hendrix)で、母ルシールによって名付けられた。父のアルことジェームズ・アレン・ヘンドリックスは、アフリカ系の父親とインディアンの母親との間に生まれたブラック・インディアンである。純血のチェロキー族だった父方の祖母ノラ・ヘンドリックスから、幼少期のヘンドリックスはチェロキー族の昔話を教えられたという。その影響はヘンドリックスの作る曲のそこかしこに見いだされる。ルシールは17歳の若さでヘンドリックスを産んだが、遊び好きで家庭を顧みないところがあったといわれ、幼いヘンドリックスを置いて出奔し、数年後に亡くなっている。「Angel」は、亡きルシールが夢に現れたことから生まれたとされる。[3]

ヘンドリックスの誕生当時、アルは第二次世界大戦に招集され太平洋戦線へ出征中だった。母ルシールが出奔してしまったため、ヘンドリックスはルシールの姉夫婦の元で育てられていたという。終戦後の1945年、帰国したアルがジミを引き取り、父一人、息子一人の生活が始まった。この頃ジェームズ・マーシャル・ヘンドリックスと改名している(父アルの談話)。アルとルシールの折り合いが悪かった影響もあり、ヘンドリックスはたびたび祖母ノラ・ヘンドリックスの元に預けられていたという。ノラはインディアン居留地(Reservation)に住んでおり、ヘンドリックスはノラからインディアンの昔話を聞かされるのと同時に、居留地で希望のない生活を送るインディアンたちの姿を目の当たりにしていたという(ヘンドリックスの談話)。「I Don't Live Today(今日を生きられない)」はその体験から生まれたと言われている。[4]

音楽への傾倒

多くのブルースロックのミュージシャンと同様、ヘンドリックスもレコードなどを聴いて、独学でギター演奏を学んだ(父アルの談話)。父アルは庭師の仕事をしていたが、生活は貧しかった。ヘンドリックスが15歳の頃ギターに興味を示したため、アルは当時のアパートの家主の息子から古いアコースティックギターを5ドルで買い取り、ヘンドリックスに与えた。これがギターとの最初の出会いだった[5]。 その後、シアトルの楽器店から初めてのエレクトリックギターを購入している(父アルの談話)。ヘンドリックスは、ブルースやR&Bロックンロールのレコードを聴いて練習する一方、テレビのアニメなどのBGM効果音も熱心にコピーしていたという(ヘンドリックスの幼なじみの談話)。

テンプレート:要出典範囲しかし自動車窃盗の罪で1961年5月2日逮捕された。その際、投獄されるのを回避するために陸軍に志願して入隊、精鋭部隊・第101空挺師団へと配属された。一緒に軍役についていた仲間の中に、後にバンド・オブ・ジプシーズを組む黒人ベーシストのビリー・コックスがおり、軍隊内のクラブハウスで一緒に演奏することもあった[6]。従軍していたとはいえ、実際にベトナムの戦地に降りたわけではなかったという。しかし、このときの経験が後に「Machine Gun」やウッドストック・フェスティバルでの「The Star Spangled Banner」の誕生に繋がったと言われている[7]

やがてヘンドリックスは陸軍を除隊する。イギリス人の音楽記者クリス・ウェルチが'70年代初頭に著した伝記などでは、パラシュートの降下訓練で負傷したため軍隊を除隊になった、という説明がなされている。2005年にアメリカ国内で公表された軍内部の記録によると、薬物、ギターにしか興味を示さない隊内部の劣等兵で、常に隊の規律を乱して問題視されていた。Documentazione relativa al periodo di Hendrix nell'esercito</ref>。

最終階級は三等軍曹

除隊後に本格的に音楽活動を始めるが、当時は無名のバックミュージシャンだった。アイク&ティナ・ターナーアイズレー・ブラザーズなど、数々の有名ミュージシャンのバックでプレイし、全米各地へのツアーにも同行していた。一時期は、リトル・リチャードのツアーに参加しており、音が大きく衣装やアクションが派手だったことから、リチャードに「俺より目立つな!」と怒られるほどだった(リチャードの談話)。

エクスペリエンス結成

ファイル:Jimi Hendrix Experience in Fenklup.png
テレビ番組でのエクスペリエンスの演奏(1967年)

1966年7月、アニマルズのベーシストだったチャス・チャンドラーに見いだされ、9月に渡英する。チャンドラーにヘンドリックスの情報をもたらしたのは、キース・リチャーズローリング・ストーンズのギタリスト)の恋人だったリンダ・キースである[8]。 当時のヘンドリックスは単なるバックミュージシャンを脱し、自らのバンド「ブルーフレームズ」を率いていたが、チャンドラーにスカウトされたのはヘンドリックス一人だけだった。チャンドラーはヘンドリックスの演奏を初めて聴いた際「ギタリストが3人くらい同時に演奏しているのかと思ったが、実際にはジミ1人だけと知り驚いた。これほどの才能に誰もまだ気がついていなかったなんて、何か裏があるのではないかと不安になるほどだった」と感じたという。チャンドラーに渡英を勧められた際、ヘンドリックスはイギリスで自分のようなブルース系ミュージシャンが受け入れられるか不安だったらしく、イギリスの音楽シーンについて多くの質問を投げかけた。その際、自分と同系とみなしていたイギリス人ギタリストのエリック・クラプトンの名を挙げ「会わせてくれるか?」とチャンドラーに尋ねている。テンプレート:要出典範囲

ロンドンに於いてオーディションを行い、ノエル・レディングベース)、ミッチ・ミッチェルドラムス)と共にザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを結成。1966年10月から活動を始める。その際、名前を「James(Jimmy)」から「Jimi」に変えた。イギリス国内でクラブ出演を重ねる一方、ポリドール系のトラックレコードからデビューシングル「Hey Joe / Stone Free」をリリース。全英4位のヒットを記録しスターの座に上る。アメリカの伝統的なブルースをベースにしながら、それまで誰も聞いたことのなかった斬新なギターサウンドや卓越した演奏技術、そして圧倒的なインプロヴィゼーション能力を披露することにより、ヘンドリックスは一般の音楽ファンはもちろんプロのミュージシャン達にも大きな衝撃を与えた。渡英したばかりのヘンドリックスの演奏を初めて目の当たりにしたエリック・クラプトンは「誰もジミー(Jimmy)のようにギターを弾くことはできない」という言葉を残している。後年、ジェフ・ベックは、「(メジャーデビューしたばかりのヘンドリックスの演奏を聴いて)廃業を考えた」と語っている(英国BBCの音楽番組のインタビュー)。ヘンドリックスのステージには連日ビートルズやストーンズなどのメンバーが顔を見せ、出演するクラブには長蛇の列ができたという。

ファイル:Jimi Hendrix 1967.jpg
ストックホルムにて(1967年)

1967年の夏、ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスは米カリフォルニア州モンタレー(モントレーなどと表記される場合もある。スイスモントルーと混同している例もあるので注意)で開催された世界初の本格的野外ロックフェスティバルモンタレー・ポップ・フェスティバルに出演。これは同フェスティバルのイギリスでの世話役だったポール・マッカートニー(ビートルズ)が、「ジミを出さないフェスティバルなどありえない」と熱心に推挙したためと言われる。ヘンドリックスはモンタレーで、聴衆を圧倒する演奏とギター燃やしのパフォーマンスを炸裂させ、母国アメリカでも一気にスターダムにのし上がった。

イギリスでデビューしたヘンドリックスだが、モンタレー出演などで母国アメリカで成功を収めた後は、アメリカを本拠として活動するようになった。全米をくまなくツアーする過密スケジュールの合間にスタジオでのレコーディングも続け、1968年にアルバム『エレクトリック・レディランド』をリリースした。

ヘンドリックスは演奏技術が高かっただけではなく、ギターを歯で弾いたり、あたかも男性器のように扱ったりした末、床に叩き付けて火を放つなど、激しくセクシーなステージアクションも人気の要因だった。また、古い軍服を身につけ(ミリタリー・ファッション)、強くパーマをかけた独特のヘアスタイル(エレクトリック・ヘア)をトレードマークにするなど、ファッション面でも注目を集めた。そのため「ブラック・エルヴィス」(黒人のエルヴィス・プレスリー)、「ワイルドマン」といった異名も生まれ、センセーショナルな扱いを受けることが多かった。しかし生身のヘンドリックスはシャイで礼儀正しい人物だったという証言も多く、例えばマイルス・デイビスによれば、ヘンドリックスは世間のワイルドなイメージとは逆だったという[9]

黒人でありながら白人向けのロックスターとして売り出されたのも異例なことだった[10][11]。 白人の若者達にとって神のごときアイドルとなった一方、黒人の公民権運動が隆盛を見せていたアメリカでは、同じ黒人達から「裏切り者」と見なされる面もあった。そのため、黒人向けの音楽を主体としていたラジオ局などでは、ヘンドリックスの曲は徹底的に無視された。さらには黒人運動家とそれをなだめたい白人政治家の両方が、黒人なのに白人に支持されているヘンドリックスの立場を利用したがっていたと言われる。ヘンドリックス自身はあまり政治的な人間ではなかったという論評が多いものの、暗殺された黒人指導者キング牧師のために寄付を行ったこともある。ヘンドリックスは同胞である黒人層に今ひとつ受け入れられないことに悩んでいた(コックスの談話)が、マネージメント側はヘンドリックスをあくまでも白人向けロックスターとして売っていく方針だったとされる。マイルス・デイビスのように存命中からジミを高く評価していた黒人アーティストも同様に存在する。

エクスペリエンス解散とバンド・オブ・ジプシーズ結成

多くのロックバンドの例に漏れず、過密なスケジュールや精神的なプレッシャーにより、バンドや周辺の人間関係は悪化していった[12]。 まず、ヘンドリックスの音楽面でのプロデューサーだったチャス・チャンドラーが、混乱した状況に嫌気が差して『エレクトリック・レディランド』のレコーディングが行われている時期にヘンドリックスの元を去った。マネージャーのマイケル・ジェフリー(アニマルズのマネージャーでもあった)が完全に実権を握ることになったが、ヘンドリックスとジェフリーの関係は微妙で、ヘンドリックスはジェフリーと直接話をするのを避けていたという証言がある(ジェフリーの秘書の談話)。

その後ノエル・レディングが音楽上の意見の相違により脱退。そのため、デビュー当初のザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとしての活動は、1969年6月までである。レディング本人は「ギャランティ支払いの内容を明確にするよう求めたため解雇された」と主張している場合もあれば、「自分の知らない間にジミが次のベーシストを選考していると記者から言われ嫌気が差し脱退した」などと述べている場合もある。1999年BBC制作のドキュメンタリー番組「ジミ・ヘンドリックス―神になったギタリスト―」(原題: The Man They Made God)では「ギャラに関し疑問を呈したのが問題視された」といった説明を述べている。ヘンドリックスが多重録音に凝りだしたこと、気まぐれで時間にルーズであること(約束の時間にレコーディングスタジオに現れず、遊び歩いている)などに対し、レディングは常に批判的な意見を表明していた[13]

レディング脱退後、ヘンドリックスはミッチ・ミッチェルと、軍隊時代からの友人ビリー・コックス(ベース)と共にジプシー・サンズ&レインボウズとして活動を開始。エクスペリエンスがトリオ編成だったのに対し、コンガなどのパーカションやサイドギターも加え、ビッグバンド結成を狙っていた[14]

ヘンドリックスが目指したビッグバンド形態は、マネージメント側がそれを望まなかったことや、ヘンドリックスが多人数をまとめあげるには経験不足だったと見られることもあって長続きせず、1969年10月にはビリー・コックス(ベース)、バディ・マイルス(ドラムス)と、3人編成の「バンド・オブ・ジプシーズ」を結成する(全員が黒人)。1969年12月31日〜1970年1月1日にニューヨークのフィルモア・イーストで行われたデビューコンサートの模様はアルバム『バンド・オブ・ジプシーズ』等で聞くことができる。同コンサートにおける「Machine Gun 」の演奏を聞いたマイルス・デイビスは「俺はこういう音楽がやりたかったんだ」と語った(ヘンドリックスの友人でバックコーラスなどを務めたゲットーファイターズの証言)。

イギリス人の白人(ミッチェルとレディング)に代わり、ヘンドリックスがアメリカの黒人2人と組んだ画期的なロック・ファンク・バンドだったバンド・オブ・ジプシーズだが、ヘンドリックスのマネージメント側は黒人だけのグループに難色を示した。マディソン・スクエア・ガーデンでの大規模な公演が失敗に終わり(ヘンドリックスが出番の前に知人から強いドラッグを渡されて服用し、まともに演奏が出来なかったためと言われる)、ヘンドリックスとバディ・マイルスの音楽面での確執もあったとされ、バンド・オブ・ジプシーズは1970年初頭に解散と短命に終わった。マイルスは「バンド・オブ・ジプシーズのリーダーは自分であり、名称などは自分が発案した」と度々発言しており、ヘンドリックスとの主導権争いも存在していたと言われるテンプレート:誰。またマイルスは自発的に脱退したのではなく、ヘンドリックスがマイケル・ジェフリーに命じて解雇させたという証言もある(ジェフリーの秘書の談話)。

当時の多くのロックミュージシャンと同様、ヘンドリックスも薬物(ドラッグ)依存の傾向があった(ヘロインやLSDなどを常用していたという証言がある)[15]。 1969年にはカナダのトロント空港で麻薬不法所持の疑いで逮捕されたものの、裁判の後に嫌疑不十分で無罪となっている[16]。 代表曲「Purple Haze」はドラッグソングとされる場合もあるが、ヘンドリックスは「あれは海底を歩いている夢を見たことから生まれた曲」などと反論している。

バンド・オブ・ジプシーズ解散後

ファイル:JimiHendrix T.JPG
シアトル郊外にあるジミ・ヘンドリックスの墓

その後は、ミッチ・ミッチェルとビリー・コックスをバックに活動を再開。アメリカやヨーロッパ、ハワイなどでコンサートを開催している。また、ニューヨークに自身のスタジオ、エレクトリック・レディ・スタジオを建設。1970年8月末にはイギリスのワイト島で開かれたフェスティバルに出演したが、その後のヨーロッパツアーではドラッグによる体調不良や、コックスが精神不安でアメリカに帰国してしまうなどのトラブルが続いた。

この間、元エクスペリエンスのノエル・レディングや、元マネージャーのチャス・チャンドラー(元アニマルズのベーシスト)が、コックスの代わりにベーシストを務めるのでは…といった憶測も飛んでいた(レディングには実際にヘンドリックスからオファーが届いていたという説もある)。

そういった騒動でツアーが中断した時期、ヘンドリックスはチャス・チャンドラーの家を訪ね、「再び僕のマネージメントとプロデュースをしてほしい」と伝えようとしていた(チャンドラーの談話)。

同年9月18日未明(深夜から早朝)、モニカ・ダンネマンという女性と2人でロンドンのホテルに滞在中に急逝。死亡時は27歳。デビューからわずか4年ほどでの死だった。

死亡原因としては、睡眠前に飲酒しながらバルビツール酸系睡眠薬を併用したことによる中毒、及び睡眠中に嘔吐したことによる窒息死とされる。「自殺したのでは」などの憶測も飛んだが、現在では否定されている。IMDbにはバルビツール・オーバードースと表記されている。

故郷である米ワシントン州シアトルでの葬儀には、ミッチ・ミッチェル、ビリー・コックス、ノエル・レディングといったバンドメンバーに加え、マイルス・デイビスなどのミュージシャンが数多く参列し、はなむけのセッションが行われた。

ヘンドリックスの死と謎

ヘンドリックスが死亡する際に一緒にいたダンネマンの行動などに不審な点があり、死の真相は謎のままであると指摘する声もある[17]。 (ヘンドリックスの様子がおかしいのにダンネマンはすぐ救急車を呼ばなかった、ヘンドリックスの肺や胃、ベッド上の吐瀉物から多量のワインが検出された、等)。

ヘンドリックスの死の直前、彼と同室にいたダンネマンからエリック・バードン(アニマルズ)に、「ジミの様子がおかしい」との電話がかかってきたという。バードンが「すぐ医者(救急車)を呼べ」と促したのに対し、彼女は「部屋にドラッグがあるから呼べない」という旨の返事をしたという(バードンの談話)。

ダンネマンは「救急車で病院に運ぶ際、ジミが窒息しないよう寝かせておくべきなのに、救急隊員がジミを椅子に座らせる体勢で移送したため窒息してしまった」などと述べている。しかし、ホテルの部屋を訪れた救急隊員は、「ホテルに到着した際、ヘンドリックスは既に呼吸停止の状態で、蘇生の可能性は低かった。病院へ移送する際、椅子に座らせるような体勢を取らせた事実はない」と述べている。また、運び込まれた病院の医師は、「ヘンドリックスは病院に到着した時点で既に死亡していた」と述べている。ダンネマンの証言は二転三転し、信憑性が乏しい(ヘレン・シャビロ著『エレクトリック・ジプシー』、トニー・ブラウン著『実録ジミヘン最後の日』などに記述がある)。その後ダンネマンは、1996年に車の中で排気ガスを引き込み自殺した。

生前のヘンドリックスはマフィアの金蔓になっていたという説があり、誘拐されたこともあると言われる(ノエル・レディングジョン・マクダーモットなどの著書に記述がある)。彼はマフィアの手で睡眠中に大量のワインを飲まされ、溺死のような形で窒息死させられたのではないかという説も存在する[18]

ローディーのジェームズ・タッピー・ライトは、自著「Rock Roadie」の中で「マネージャーのマイケル・ジェフリーが『自分がヘンドリックスを殺した』と言った」と証言している。レディングは自著の中で「ジェフリーは飛行機事故で死亡したことになっているが、実は事故機に搭乗しておらず、生存しているのではないか。死んだはずのジェフリーを見たという目撃談もある」などと述べている。

ミュージシャンとしての特徴

ファイル:Popiersie Jimi Hendrix ssj 20060914.jpg
ジミ・ヘンドリックスの胸像(キェルツェ

ヘンドリックスは、エレクトリックギターの演奏家として非常に高い技術と表現力を備えていただけではなく、画期的な技法の考案によってエレクトリックギターという楽器の可能性をそれ以前とは比較にならないほど拡大しており、メジャーでの活動期間がわずか4年ほどであったにも関わらず後世のギタリストに与えた影響が比類のないほど絶大であることも合わせ、多くのミュージシャンや評論家から史上最高のロックギタリストと呼ばれる[19][20][21][22]。 ブルースとロックンロールを融合させ、クリームレッドツェッペリンらと並び、ハードロックの起源の一人。特にヘンドリックスは、大音量でディストーションの掛かった音の先駆けとなった[23][24]

一般的にヘンドリックスはギタリストとして語られるが、演奏者として優れているだけではなく作曲家編曲家レコーディングエンジニアとしても独特な才能を備えており、歌手としても味わい深く表現力に富んでおり、また常に新しいサウンドを模索しギターだけに執着しているわけではなかった[25][26]

奇抜なファッションや派手なステージアクション、機械によるサウンドエフェクトにばかり頼っているのでは…という批判もあったが、エリック・クラプトンは「一度目をつぶって演奏に耳を傾けてみればいい。ジミがどれほど優れたミュージシャンであるか分かるはずだ」、あるいは「僕とジェフ・ベックが2人がかりでいっても、ジミにはかなわないだろう」と最大級の賛辞を送っている。ジェフ・ベックは「好調な時のジミを超えるギタリストなどいるはずがない。自分がギタリストであることが恥ずかしくなるよ」と語っている。ヘンドリックス自身「機械ばかり使っていると言われるが、ステージ上で起きていることは機械がやったのではない。僕がやっているんだ」と反論している[27]

ヘンドリックスのプレイスタイルについては、型破りなアクションが取り上げられることが多いが、基本はあくまでブルースR&Bに根差し、これにジャズのコードやスケールを加えたベーシックなものである[28][29]。 ただし音の選び方やフレーズの展開は強烈に非凡なもので、従来からのブルースやR&Bの枠に収まらないような画期的な内容だった[30][31]

ヘンドリックスは非凡なインプロヴィゼーション能力によって、「Red House」や「Machine Gun」など、アドリブが曲の大部分を占める曲で、ライブごとに全く違ったアドリブを展開していった。これは、「指癖的な小さなフレーズ(リック)を沢山覚えておき、それらを組み合わせてアドリブを構築する」のではなく、「その瞬間に頭の中で鳴った(聞こえた)フレーズをギターで弾く」というアドリブのとり方を行っていたから、という説がある[32]

ソロ・プレイは、例えば後に登場してくるHR/HM系ギタリスト等と比べると特に速弾きとは言えず、運指もやや正確さに欠けるところがある。しかし、ギターという楽器が本来備えている音に加え、大音量に伴う電気的ノイズまで駆使し、刻々と音色を変化させながら、即興で感情の高まりを表現していく能力に関し、ヘンドリックスに対比できるギタリストは未だに存在しないという意見も存在する。HR/HM系ギタリスト等と比べると音の数こそ少ないが、緩急自在のフレージングと、タイム感のコントロールにより、聴き手に与えるスピード感は非常に高い。ライブ演奏が素晴らしかっただけではなく、スタジオ録音でも革命的と言えるような多彩なサウンドを生み出した。

作曲面においても後にロックのスタンダードとなる数多くの楽曲を残した(特に「Purple Haze」「Little Wing」「Voodoo Child(Slight Return)」「Red House」「Fire」「Foxy Lady」などの曲は、多数のミュージシャンによってカバーされている)。

ヘンドリックスはギターの音質を電気的に変化させる機材(いわゆるエフェクター)を多用することで知られた。スタジオ録音はもちろんステージでもエフェクターを使用し、従来のギタリストでは考えられなかったほど音質に豊富なバリエーションをもたせている。主に使用していたのは音を歪ませるファズ、踏み加減で音質が連続的に変化するワウペダル、音を波立たせるユニヴァイブといったものだった。ヘンドリックスが存命の頃には「機械に頼っていて邪道」という評価もあった。ヘンドリックスは手に入れたエフェクターの可能性を探ろうと何時間も演奏を続け、そのエフェクターの設計者ですら想定していなかった斬新な音を引き出していた[33]。 その結果ヘンドリックスの演奏の中には、どういう方法で出したのか今もって不明な、謎のサウンドが非常に多い[34]。 これはスタジオ録音だけではなく、ライブでも同様である。エフェクターなどの電子機器設計の達人だったロジャー・メイヤーが、ヘンドリックスのアドバイザーだったのも大きな意味を持っている。

ギタリストであると同時に歌手でもあるヘンドリックスだが、ずっと「自分は歌が下手だ」と卑下し続けていた。そんなヘンドリックスにとってのヒーローは、独特の歌唱法でフォーク/ロック界を席巻したボブ・ディラン。ディランの歌を聴いたヘンドリックスは「これなら俺も歌えるかも知れない」と勇気づけられたという。ヘンドリックスはディランに大きな影響を受けており、「Like a Rolling Stone」や「All along the Watchtower」などをカバーしている。特に「All Along the Watchtower」のカバーをシングル・ヒットさせたことを受け、ディランの自伝では「あの曲は俺が書いたが、権利の半分くらいはヘンドリックスのもの」と綴っており、自身のステージはヘンドリックスのアレンジに近い形でこの曲を演奏したこともある。エリック・クラプトンも「ジミはギターだけではなく歌もとてもうまいよ」と述べている。

ヘンドリックスは音楽の理論などに疎く楽譜もほとんど読めなかったと言われるが、ジャズ系ミュージシャンとのセッションでも引けを取ることはなかったと評されている。帝王マイルス・デイビスやジョン・マクラフリン(ギタリスト)に才能を絶賛されていたほか、マイルス作品の編曲などで知られる巨匠ギル・エヴァンスもヘンドリックスとの競演を熱望していた[35] [36]。 ギル・エヴァンスはヘンドリックスの死後、カバー・アルバム「The Gil Evans Orchestra Plays the Music of Jimi Hendrix」を発表。1988年に亡くなるまで、ステージでヘンドリックスの曲を演奏し続けた。エヴァンス曰く「ジミのアルバムを聴くと毎回新しい発見がある。彼が優れた作曲家だった証拠だよ」。

ストラトの魔術師

ファイル:Jimi hendrix woodstock.jpg
ウッドストック・フェスティバルで使用したフェンダー・ストラトキャスターギター

現在ではロックギターの代名詞的なモデルとなっているフェンダー・ストラトキャスターだが、ヘンドリックスが登場した頃には使用するミュージシャンもほとんどおらず、生産中止の噂もあった。しかし、ヘンドリックスが使用することによってストラトキャスターの人気が一気に上昇。特にストラトキャスターのシンクロナイズド・トレモロ・ユニットによる驚異的なサウンドマジック(アーミング)は、世界中のギタリストの度肝を抜いた[37]。 ストラトキャスターの設計者であるフレディ・タバレスは「ベンチャーズザ・ビーチ・ボーイズのようなサウンドは予想していたが、ヘンドリックスのトレモロマジックは全くの想定外」と発言している。また、テンプレート:要出典範囲

ヘンドリックスのギターサウンドというと歪みきった大音響がイメージされる場合が多いが、「Little Wing」などで知られるように、実際にはボリュームを絞ったクリーンなサウンドも多用している。ストラトの3つのピックアップを使い分け、ボリュームやトーンを頻繁に調整し、演奏中に音色を大きく変化させることも多かった。エリック・クラプトンが使って有名になったハーフトーン(ストラトのピックアップ切り替えスイッチを中間位置にすることで生じるフェイズサウンド)も、実際はヘンドリックスのほうがずっと早くから使用している(ヘンドリックスが考案したのではなく昔からある裏技だったらしいテンプレート:誰)。ボディやネックを叩いて弦を共鳴させフィードバックを起こしたり、トレモロユニットのスプリングを弾いて不思議な音を出したりと、ギターから発生するあらゆる音を演奏に利用していた[38]

ヘンドリックスの存命中にストラトキャスターを使用するフォロワーはほとんどいなかったが、死後にはエリック・クラプトン、ジェフ・ベック、リッチー・ブラックモアなどがこぞって使い始めた。ヘンドリックス以降数多くのロックブルースなどのギタリストがストラトを使用したことで、ストラトはギブソン・レスポールと並び、ソリッドボディのエレクトリックギターの代名詞的存在になった。

ストラトキャスター以外にも、ギブソンフライングVSGレスポールを始め、様々なメーカーのギターを使用していた。ローディーだったエリック・バレットは「ジミがブルースを弾くときはいつもフライングアロー(フライングV)だった」と証言している。12弦アコースティックギター(トニー・ゼマイティスが、楽器製作を初めて間もない頃に製作したもの)で「Hear My Train a Comin'」を弾き語りする映像も残っているが、このギターはヘンドリックスの所有物ではなく、撮影に当たって用意されたものである。

ヘンドリックスは、ギターの各弦を通常の音程から半音下げるチューニングを多用していた。これはギターの音程をヘンドリックスの声域(音域)に合わせる目的と、チョーキングなどの奏法をしやすくする目的と、両方の意味がある[39]。 スタジオレコーディングの曲の中には、レギュラーチューニングも多い。ライブ音源の中には全音(1音)下げチューニングで演奏されている曲も確認できる(レコードやCDにする際、レコーディングエンジニアが音程を電気的に変化させている例もあるので注意)。

左利きの奏法

ヘンドリックスは右利き用のストラトキャスターを左右逆さまにして、右手で押弦し、左手で弦を弾いた。つまり左利きの奏法であり、一般的には左利きの人物と認識されている。弦は下に細い1弦、上に太い6弦と、左利き用の順番に張り替えてあった(アルバート・キングは右利き用に弦を張ったギターを逆に持って弾いていた)。左利きでありながら右利き用のギターを逆さまに使用することで、3つのコントロールノブが上側にくるため、演奏中に左手で自在にノブを操作し、音質を変化させるという独特の奏法を生み出すことができたという説もある。晩年は、左利き用のギブソン・フライングVを所有していたが、上手く使えないからとローディーだったエリック・バレットに譲っている。右利き用ギターをひっくり返して使用しているうちに、コントロール部が上に位置していないと上手く弾けなくなっていた(バレットの談話)。バレットはそのギターを後に売却。テンプレート:要出典範囲

ストラトキャスターはナットを付け替えず、サドルの位置も右利き用の設定のままで使用していた。

もっとも「ヘンドリックスは本来は右利きだったのではないか」という説も根強く囁かれている。その証拠として、食事や書字の際には右手を使っていたことが挙げられる。『エレクトリック・ジプシー』(ハリー・シャピロ&シーザー・グレビーク)や『ジミヘンドリックスの創作ノート』『天才ジミ・ヘンドリックス ギター革命児の真実』[40](ジョン・マクダーモット、エディ・クレイマー)など複数の伝記にその様子を写した写真が掲載され、「ジミは字を書く時は右利きだった」と記載されている。さらに父アルも、伝記映画や雑誌「エクスワイア」1993年4月号など複数の媒体において、一貫して「ジミは左利きにあこがれがあった」「ボールを投げる時は右手だった」などと証言している(同時に息子ジミがギターを始めた時に、右利きなのに左利きの弾き方をするので直そうとしたという逸話も紹介している)。あえて左手で弾くことで、普通とは違った音を出したかったのではないか、という説もある。以上の点から、少なくともギターは左利き、書字は右利きと、変則的な利き手だったのではないかと推測される[41]

ただしヘンドリックス本人は、1967年の『Beat Instrumental magazine』掲載の取材で「最初に(右利き用の)ギターを弾いた時、自分は左利きだから違和感を覚えた」と語っている。また、『天才ジミ・ヘンドリックス ギター革命児の真実』には、ヘンドリックスは右手でも左手でも書字が可能だったという記述もある。逆に『エレクトリック・ジプシー』では右手でもギターを弾けたと記述されている。

影響とエピソード

ファイル:Hendrix Chord.svg
ジミヘンコード

数々のヒット曲を持つヘンドリックスのビルボード最高位は、アルバムチャート(Billboard 200)で1位、シングルチャート(Billboard Hot 100)20位である。難解な音楽でファンが少なかったなどということはなく、むしろ当時のアメリカのロックミュージシャンの中で最も集客力のあるスターだった。ウッドストックのトリを務めたのも、そのためだと言われるテンプレート:誰。ただし、本来ヘンドリックスの出演は最終日(日曜日)の夜の予定だったのに、スケジュールが押して翌日(月曜日)の朝になってしまい、40万人とも言われた観客の大半は帰途についていた。日本人でウッドストックを観た数少ない一人であるギタリスト成毛滋も、ヘンドリックスのステージを観ずに会場を離れている。

ヘンドリックスは、様々なジャンルのミュージシャンとセッションすることを好んだが、1960年代半ばのイギリスでは、そういった習慣(文化)があまり普及しておらず、イギリスでセッションの習慣を定着させたのはヘンドリックスである、という説も存在する(ピート・タウンゼントの談話)。

ヘンドリックスの代表曲である「Purple Haze(邦題:紫のけむり)」で使用されているE7(#9)というコードは、本来ブルースジャズなどにおいて使用されていたものだが、ヘンドリックスの同曲の演奏によって「サイケデリックな響きのするコード」として有名になり、現在では「ジミヘンコード」とも呼ばれる。

モンタレーの記録映像で有名なギター燃やしだが、それが初めてではなく、イギリスで既に何度も行っていた。ヘンドリックスが初めてギターに火を放ったのは、ウォーカーブラザーズのツアーに前座として同行した際(1967年3月)。ギター燃やしを発案したのはヘンドリックス本人ではなく、知人の記者だったと言われている[42]。「アメリカ国歌」のライブ演奏もウッドストックが初めてではない。「アメリカ国歌」には、多重録音を駆使したスタジオ録音バージョンも存在している。

音楽に「ヘビーメタル」という言葉が初めて使われたのは、ヘンドリックスの演奏に対してだという説がある。イギリスの新聞の記者が、ヘンドリックスのバンドの大音響に対し「ヘビーメタル(重金属)」という比喩を使ったのだという(チャス・チャンドラーの談話、テレビ番組「神になったギタリスト・ジミ・ヘンドリックス」など)。

ヘンドリックスに大きな影響を受け、ヘンドリックスそっくりの演奏をする「ヘンドリックス・フォロワー」と呼ばれるギタリストが存在する。ロビン・トロワーランディ・ハンセンフランク・マリノウリ・ジョン・ロートなどが、ヘンドリックス・フォロワーの代表例と言われる。

ヘンドリックスが、ニューヨークチェルシー・ホテルに宿泊していた際、別の客である老婆からボーイと間違われ、荷物を運んであげたことがあるという[43]

著名ギタリストとの関係

テンプレート:要出典範囲それを知っていたかどうかは不明だが、ヘンドリックスもこの曲を気に入っており、度々ステージで演奏していた。イギリスのテレビ番組「ルル・ショー」(生放送)にヘンドリックスが出演した際、司会のルル(女優、歌手)と「Hey Joe」をデュエットするという予定を無視し、解散したばかりのクリームに捧げるため同曲を演奏したのは有名(1969年1月)。

ヘンドリックスとエリック・クラプトンは、度々セッションを行っていたが、ヘンドリックスから見ると、クラプトンのサイドギターの技術は芳しくなかったらしい。ヘンドリックスはクラプトンに対し「おまえはギターよりベースを弾いた方がいい」と面と向かって発言し、クラプトンが怒って帰ってしまうということもあったらしい(レディングの談話)。

クリーム時代のエリック・クラプトンが生み出したウーマントーンは、一般にギブソンのレスポールまたはSGによるものと思われているが、ストラトキャスターのフロントピックアップによるものという説がある。ウーマントーンの代表曲「Sunshine of Your Love」のレコーディングはストラトキャスターで行われた、という証言も存在する。これが正しいとすれば、明らかにヘンドリックスの影響だろう。クラプトンは、ヘンドリックスと同じような“エレクトリックヘア”(チリチリのアフロヘア)にしたり、東洋風のヒラヒラした衣装(キモノ)を着用したりしていた時期があり、ヘンドリックスから強い影響を受けていたことが知られている。

クラプトンは、デレク&ザ・ドミノスとしてのアルバム『いとしのレイラ』(1970年)で、ヘンドリックスの代表的なバラード「Little Wing」をカバー。その後もヘンドリックスのトリビュートアルバムに参加し、「Stone Free」をカバーしている。

テンプレート:要出典範囲テンプレート:要出典範囲テンプレート:要出典範囲ベックは、1980年代半ば、ヘンドリックスの演奏で有名な「Wild Thing」(オリジナルは、ザ・ワイルド・ワンズ)を、ヘンドリックス風のアレンジでレコーディングしている(珍しく、ベックがリードボーカルを務めた)。また、ヘンドリックスのトリビュート・アルバムで「Manic Depression」などをカバーしている。テンプレート:要出典範囲

また、ある日ジミがジェフに対して「お前のブルースは気持ち悪いから、エレクトロニカやクロスオーバーな音楽をやったほうがいい」とアドバイスされて、現在のスタイルが確立したとされている。

テンプレート:要出典範囲、ジミー・ペイジはニュー・ヤードバーズ、すなわち後のレッド・ツェッペリン立ち上げの時期で忙しく、ヘンドリックスのステージを観る機会が一度もなく、会うことも出来なかったという。テンプレート:要出典範囲テンプレート:要出典範囲テンプレート:要出典範囲

ローリング・ストーンズとの関係

渡英後間もない時期のヘンドリックスと最も親しかったのは、ブライアン・ジョーンズだったと言われ、ヘンドリックスがイギリスのミュージックシーンで人脈を築くのを助けたほか、アメリカへの逆上陸となったモンタレー・ポップ・フェスティバル(1967年)では、ヘンドリックスを観客に紹介する役も買って出ている。この時期、ジョーンズはミック・ジャガーローリング・ストーンズのボーカル)達と仲違いし、ストーンズ内で孤立し初めていた。ヘンドリックスはジャガー達に憤っていたらしく、自身のステージにジャガーとマリアンヌ・フェイスフル(女優兼歌手、当時のジャガーの恋人)が顔を出した際に2人の間に割り込んで座り、フェイスフルに「この後、俺と付き合えよ」と聞こえよがしに発言。隣のジャガーは、ヘンドリックスの挑発的な言葉に気づかない振りをしたため、その場で喧嘩になるようなことはなかった。ジョーンズが1969年7月に急逝した後、ヘンドリックスは追悼の意を込めて「Lovers」を制作している。

とはいえ、ミック・ジャガーはヘンドリックスへの敬慕の念を常々表明しており、ヘンドリックスの死後に制作された伝記映画『Jimi Hendrix』(1973年)に登場しインタビューに答えている。1980年代末のソロ活動の際には「Red House」や「Foxy Lady」といったヘンドリックスの曲をステージで披露し、大きな話題を呼んだ。また、ジャガーは「俺はジミとレコーディングしたことがある。どこかにそのテープが残っているはずだ」と述べている。

ヘンドリックスが初めて手にしたストラトキャスターは、元々はキース・リチャーズのものだったという説がある。ヘンドリックスをチャス・チャンドラーに紹介したリンダ・キースがリチャーズの恋人だったため、リチャーズが所有していたストラトをリンダがヘンドリックスに渡したというのだが、諸説あり真偽は不明。ストラトは高価なギターだったために、無名時代のヘンドリックスには手が届かなかったと言われている。

ザ・フーとの関係

モンタレー・ポップ・フェスティバル(1967年6月)には、ヘンドリックスと同様に楽器破壊パフォーマンスを売りにしていたザ・フーも出演している。主催者は、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとザ・フーを連続してステージに登場させようとしたため、両バンドは大いに困惑した。先に出演した方が、観客に与える衝撃度が確実に高いからだ。ザ・フーのピート・タウンゼントは、ヘンドリックスに「君は天才ミュージシャンだが、俺達には楽器破壊の芸しかない。俺達を先に出させてほしい」と懇願したという(タウンゼント自身の談話)。話はまとまらず、主催者側のジョン・フィリップスママス&パパス)がコインを投げ、その裏表で出演順を決定することになった。結果、ザ・フーが先、ヘンドリックス達は後という出演順になっている。

ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとザ・フーは、宣伝担当エージェントが共通で、しばしば同じステージに立ったりしていた。イギリスでは、ザ・フーの方が先にデビューしていたため、ヘンドリックスがザ・フーの前座として出演することもあったという。ピート・タウンゼントは「ジミから『ザ・フーのみんなにはとても世話になった』と、とても丁重に礼を言われたことがある。だが、本当の友人になることができないうちに、彼は死んでしまった」と、残念そうに語っている。タウンゼントは、ヘンドリックスのギターに惚れ込み、ヘンドリックスの渡英後間もない時期には可能な限りステージに通い詰めていた(タウンゼント本人の談話)。ヘンドリックスが出演しているクラブにタウンゼントが出向いた際、出入り口でジェフ・ベックと擦れ違い「あいつ(ヘンドリックス)は俺の真似をしているんじゃないか?」と、悔しそうに言われたというエピソードがある。

フランク・ザッパとの関係

1968年のマイアミ・ポップ・フェスティバルでヘンドリックスが燃やしたギターは、裏方スタッフが拾って持ち帰り、フランク・ザッパの家に宿泊させてもらった際に謝礼として進呈した。ザッパはこれを直してしばらくステージで使用していた。インストゥルメンタル曲「Sexual Harassment in the Workplace」(アルバム『ギター』収録)などで、その音色を聴くことが出来る。この通称ヘンドリックス・ストラトは、ザッパの死後に息子のドゥイージル・ザッパがオークションに出品し、話題になった[44]

他のミュージシャンに対して辛辣な発言をすることが多いザッパだが、ヘンドリックスのことは賞賛している。よく知られている発言としては「今のメジャーシーンでまともな音楽をやっているのはヘンドリックスとキャプテン・ビーフハートくらいだね」というものがある。その反面「彼のステージを観た際、スピーカーの真ん前にいたために気分が悪くなった。なぜあそこまで大音量にするのか理解できない」とも述べている。

ザッパの1968年のアルバム『We're Only in It for the Money』のジャケット(ビートルズの『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』のパロディ)には、ヘンドリックスと思われる人物が写っている。

マイルス・デイヴィスとの関係

ジャズ界の帝王マイルス・デイヴィスは、ヘンドリックスの才能を絶賛しており、ヘンドリックスの死後に「あれほど音感のいい人間は滅多にいるものじゃない」と語っている。その具体例としてマイルスは、ジミに知識としての音楽があまりなかった時のことを挙げており、ジミが譜面を読めなかったり、指定されたコードが分からなかった際にマイルスがピアノなどでコードを弾いてやると、ジミは即座に反応してギター演奏で返して来たという。

また、マイルスは自身のバンドのギタリストに対し、「ジミ・ヘンドリックスのように弾くんだ」と常々指示していた。バンドに参加していたギタリストのジョン・マクラフリンマイク・スターンが、いわゆるジャズ的な演奏をしても決して満足せず、ロック風な演奏をすると「それだ!」と喜んだという逸話もある。ジミと同年代のマクラフリンは、ジミと度々セッションを行っており、後に「ジミは後年の全てのギタリストに影響を与えた。私もジミに何らかの影響を与えられたのだろうか(自分では何とも言えない)」と述べている。スターンはヘンドリックスより若く、ヘンドリックスの影響を大きく受けたジャズギタリストとして知られる。

元々マイルスは、当時の妻だったベティ・デイヴィス(黒人の歌手兼女優、同名の白人ハリウッド女優とは別人)の紹介もあってヘンドリクスの音楽を早い時期からチェックしており、その後、ヘンドリックスのマネージャーを通して交流が始まった。[9]。ジミの側もマイルスの音楽に興味を持っていたが故のことであった。しかし、ヘンドリックスとベティはある時から不倫関係にあったと言われており、それがデイヴィス夫妻が離婚する原因の一つとなった[9](ただし、あくまで複数要素の一因で決定打ではない)。しかし、マイルスはその後もヘンドリックスの音楽的才能に惚れ込み共演を望んでいた[9]

デイビスのバンドのベーシストだったデイヴ・ホランド(ヘンドリックスとも度々セッションを行っていた)によると、ヘンドリックスとデイビスのレコーディングの仕方は非常に良く似ている面があったらしい(デイビスの自伝より)。マイルスの語るところでは、両者は互いに影響をあたえあう関係で、マイルス自身のトランペットプレイやワウワウミュートを使ったプレイもそれによる。

ヘンドリックスとデイビスは、共同でアルバムを制作する寸前の段階まで何度か進みかけたが、一度目はマイルス側のギャラの問題で無しに。二度目は、マイルスとジミの両者が出演した70年のワイト島の音楽フェスティバルの後にロンドンで行われる予定であったが、マイルス側が途中の道のりで渋滞に引っかかり時間に間に合わなかったために無しに。そして、三度目にギル・エヴァンスを加えた三人でニューヨークで録音をする予定であったが、その直前でジミが死亡してしまい、結局具体的な形での共作は実現しなかった。 なお、マイルスはその後のジミの葬儀に参列したが、神父はジミの名前を何度も間違えると言う不始末をやらかしたと語っており、それに強い怒りを覚えたとも加えている(いずれもマイルスの自叙伝より)。

ギル・エヴァンスとの関係

ジャズ編曲家ギル・エヴァンスも、ヘンドリックスの才能を高く評価し、自分のオーケストラのソリストに起用することを考えた[45]。そのための正式なミーティングも予定していたが、ヘンドリックスはその1週間前に亡くなった。エヴァンスは、ヘンドリックスの曲にオーケストラ・アレンジを施し、1974年に『PLAYS THE MUSIC OF JIMI HENDRIX 』を発表するに至る。後年、スティングがアルバム『ナッシング・ライク・ザ・サン』でヘンドリックスの「Little Wing」をカバーした時も、エヴァンスが編曲を担当した。 「Stone Free」「Up from the Skies」などの楽曲群は、彼のオーケストラの主要レパートリーとして、晩年まで愛奏された。

リッチー・ブラックモアとの関係

ロックギタリストのリッチー・ブラックモアは、ヘンドリックスの影響を強く受けていることを公言しており、自身のバンドであるブラックモアズ・ナイトでヘンドリックスを偲ぶ楽曲も発表している。ブラックモアが在籍していたディープ・パープルは、デビュー・アルバムでヘンドリックスの演奏(カバー)で有名な「ヘイ・ジョー」をカバーしており、1968年にクリームの解散コンサートの前座を務めた際に、コンサートを見にきたジミからパーティに招待されている。(ブラックモアが直接ジミと会ったり話をしたかは不明) パープルのベーシストであったニック・シンパーは、友人のミッチェルを通じてジミに会った時に「TVで見たけどお前のバンドのギタリストは凄いな」と言われたそうだ。ブラックモアはその後、ブラックのストラトを入手してトレードマークとし、テレキャスターネック付きの白いストラトや、ステージで左用ストラトキャスターを使用するなど、ジミへの傾倒振りを見せている。 ちなみに、ディープ・パープルの「スピード・キング」は、ヘンドリックスの「Fire」がヒントになったという(バンドメンバーのロジャー・グローヴァーの談話)。ブラックモアが率いていたレインボーのアルバム『STRAIGHT BETWEEN THE EYES(邦題=闇からの一撃)』(1982年)のタイトルは、ジェフ・ベックがブラックモアに語った「ジミの演奏は視覚にストレートに飛び込んでくる」という言葉が元になっている[46]

レス・ポールとの関係

ギタリストでありエンジニアでもあったレス・ポールは、1960年代前半の無名時代のヘンドリックスの演奏を間近で聴いたことがあるという。ヘンドリックスが、ニューヨークのクラブでオーディションを受けていた時のことらしい。後に、エレクトリック・レディ・スタジオを開設した際、ヘンドリックスは業界の大先輩であるポールに挨拶の電話を掛けたという。受けたポールが「君のことが気にかかって、ずいぶん探したんだよ」と語ると、ヘンドリックスは「レス・ポールさんがそんな近くで見ていたのに気付かなかったなんて」と恐縮していたという(ポールの談話)。

関係者のその後

ヘンドリックスのマネージメントを行っていたマイケル・ジェフリーは1973年に飛行機事故で死去。ヘンドリックスを見いだしたチャス・チャンドラーは1996年に死去。ベースのノエル・レディングは2003年に死去。バンド・オブ・ジプシーズのドラマーだったバディ・マイルスは2008年2月に死去。エクスペリエンスのドラマーだったミッチ・ミッチェルは、2008年にシアトルで行なわれたヘンドリックストリビュートのイベントに参加したが、同年の11月、米国オレゴン州ポートランドのホテルで死去した。ヘンドリックスが亡くなる際に同室にいた女性モニカ・ダンネマンは、ジミヘン・フォロワーとして知られるドイツ人ギタリストのウリ・ジョン・ロートと後に結婚したが、1996年に自殺している。

ヘンドリックスの父アル・ヘンドリックスは、息子ジミが成人して家を出てから日系二世の女性アヤコ(フジタ・ジューン・アヤコ)と再婚。ヘンドリックスは、自分と同じ東洋系(ジミの父方の祖母はインディアン)の女性が義母になったことを非常に喜んでいたという。その影響からかステージ上に鯉のぼりが見られる。ジミは、義母アヤコに「1970年のハワイのコンサートの後で日本に行く予定だよ、日本に行くのが楽しみなんだ、日本はどんなところなの」と語っていたという(アヤコの談話。アヤコはアメリカ生まれだが、第二次大戦前に日本に留学した経験があるという)。ヘンドリックスの言葉通り、日本でもヘンドリックスのコンサートを含むフェスティバル(富士オデッセイ)の計画が進んでいたが、実現していない。結局、ヘンドリックスが来日することは一度もなかった(一部で「米軍在籍時代のヘンドリックスが一兵卒として来日しているのでは」という説もあるが、その事実はない)。

ディスコグラフィ

テンプレート:See

原盤権の行方

ヘンドリックスの音源の権利は、彼が遺言を残していないこと、マネージャーのマイケル・ジェフリーが事故死したこと、ヘンドリックスが各所にジャム音源を残していたことなどから混乱。ヘンドリックス自身はレコードデビュー後わずか4年ほどしか活動していないにも関わらず、正規版と海賊版を含め無数のレコード(CD)が市場に出回ることになった。しかし裁判の末、1990年代半ばにヘンドリックスの遺族に権利があると確定(それ以前はヘンドリックスと親交のあったミュージシャン、アラン・ダグラスが権利を持っていた)。ヘンドリックスの父アル・ヘンドリックス達によりEXPERIENCE HENDRIXという会社が設立され、ヘンドリックスの音源を管理することになり現在に至っている。アルは2002年に亡くなったため、娘のジェイニー・ヘンドリックスがEXPERIENCE HENDRIXの代表になっているが、ジェイニーはアルの後妻アヤコの連れ子で、ヘンドリックスとは義理の兄妹である。つまりヘンドリックスとジェイニーは血のつながりは全くない。

無名時代のヘンドリックスは様々なレコード会社やエージェントと契約を取り交わしており(多くはその場の雰囲気に流され軽い気持ちで契約書にサインしていたらしい)、生前から権利が混乱していた。特にPPXレコードというインディーズレーベルが「ヘンドリックスは当社の契約ミュージシャンである」として本格的に法廷闘争を仕掛けてきたため、解決策としてヘンドリックスのアルバム1枚の権利をPPX側に与えることになった。そのために制作されたのがヘンドリックスの生前唯一の正規ライブアルバム『バンド・オブ・ジプシーズ』である。こうした経緯に加え、十分な制作時間を与えられなかったこともあり、ヘンドリックスは同アルバムの仕上がりに満足していなかったらしい。

EXPERIENCE HENDRIXの販売権を獲得したMCAレコード(日本ではユニバーサルビクター)から再発盤や新規企画盤のCDが発売される際、「オリジナル録音テープを元にリマスターした」と宣伝されたが、一説に一部のオリジナルテープはEXPERIENCE HENDRIXの手に渡っていないといわれ、部分的にはレコード等から音を起こしているのではとの噂も存在する(一部の曲にレコードの針音と思われる雑音があるため)。

2009年9月18日、EXPERIENCE HENDRIXの販売権を米国ソニー・ミュージックエンタテインメントが獲得したことを発表。2010年1月1日よりSMEに移行した。これにより、日本盤は2010年3月よりソニー・ミュージックジャパンインターナショナルを通じて、スタジオ・アルバムとライブ・アルバムは完全生産限定、ベスト・アルバムはレギュラー形態でリリースされた[47]

語録

愛国心を持つなら地球に持て。魂を国家に管理させるな!」

「誰も彼も死んだ奴にこんな夢中だなんて、おかしな話だ。死んだら一生安泰だな」

「ブルースは簡単に弾ける。だが、感じるのは難しい」

脚注

テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:ウッドストック・フェスティバル

テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA

  1. テンプレート:Cite web
  2. テンプレート:Cite web
  3. テンプレート:Cite web
  4. Room full of mirrors, c cross, hyperion, 2005, p. 33-41.
  5. テンプレート:Cite book
  6. テンプレート:Cite web
  7. Live at the Fillmore East: Jimi Hendrix
  8. テンプレート:Cite book
  9. 9.0 9.1 9.2 9.3 『マイルス・デイビス自叙伝II』(マイルス・デイビス&クインシー・トループ著、中山康樹訳、宝島社文庫、ISBN 4-7966-1683-7)p.131, 153-154
  10. Billboard R&B charts 1967–1971
  11. http://www.soul-patrol.com/funk/jh_bog.htm
  12. テンプレート:Cite book
  13. テンプレート:Cite web
  14. テンプレート:Cite book
  15. テンプレート:Cite book
  16. http://www.hollywoodmostwanted.com/jimihendrix.shtml
  17. テンプレート:Cite book
  18. テンプレート:Cite web
  19. テンプレート:Cite web
  20. テンプレート:Cite news
  21. テンプレート:Cite web
  22. テンプレート:Cite web
  23. Blues CD, MCA, sleeve notes by Jeff Hannusch, p. 2.
  24. A Film About Jimi Hendrix deluxe ed. DVD, Warner Bros. sp. feat: From The Ukelele to the Strat, Faye Pridgeon Interview.
  25. テンプレート:Cite book
  26. テンプレート:Cite web
  27. チャールズR.クロス ルームフルミラー:伝記ジミヘンドリックス、2005
  28. テンプレート:Cite web
  29. テンプレート:Cite book
  30. テンプレート:Cite web
  31. テンプレート:Cite book
  32. テンプレート:Cite book
  33. テンプレート:Cite book
  34. テンプレート:Cite book
  35. テンプレート:Cite book
  36. Davis, with Troupe (1989), Miles, pp. 319–320; 374.
  37. テンプレート:Cite web
  38. テンプレート:Citation
  39. テンプレート:Cite web
  40. ISBN 978-4-401-61412-7
  41. テンプレート:Citation
  42. クリス・ウェルチ著「ジミ・ヘンドリックスの伝説」
  43. ファビュラス・バーカー・ボーイズの地獄のアメリカ観光
  44. テンプレート:Cite book
  45. ギル・エヴァンス『プレイズ・ジミ・ヘンドリックス』日本盤CD(BVCJ-38088)ライナーノーツ(瀬川昌久)
  46. シンコーミュージック刊『リッチー・ブラックモア レインボー編』 ISBN 4401612027 より。
  47. ジミ・ヘンドリックス・カタログ獲得!