嘉手納飛行場
嘉手納飛行場(かでなひこうじょう、Kadena airfield)は、沖縄県中頭郡嘉手納町・沖縄市・中頭郡北谷町・那覇市・糸満市[1]にまたがるアメリカ空軍の空軍基地。在日アメリカ空軍(第5空軍)の管轄下にある。嘉手納空軍基地(かでなくうぐんきち、Kadena Air Base=米軍内での正式な呼称)、アメリカ空軍嘉手納基地(アメリカくうぐんかでなきち)、あるいは単に嘉手納基地(かでなきち)と呼ばれることが多いが、日本の公的資料では「嘉手納飛行場」と呼称されている。
総面積は約19.95km²。3,700mの滑走路2本を有し、200機近くの軍用機が常駐する極東最大の空軍基地である。また、在日空軍最大の基地である。滑走路においては成田国際空港(4,000mと2,500mの2本)や関西国際空港(3,500mと4,000mの2本)と遜色なく、日本最大級の飛行場の一つということになる。面積においても、日本最大の空港である東京国際空港(羽田空港)の約2倍である。かつてはスペースシャトルの緊急着陸地に指定されていた。
過去のごく一時期であるが日本航空など民間旅客機の発着も行われていた。 基地司令は第44戦闘飛行隊長でもあるマシュー・モロイ准将。
所在部隊
- アメリカ空軍として単一では最大の戦闘航空団である。他の補助航空団と合わせて、チーム・カデナとも呼ばれる部隊は世界第一級の戦闘航空団である。18,000人近いアメリカ人と4,000人以上の日本人からなる要員がチーム・カデナを形成する。航空団は5つのグループに分かれ、それぞれ作戦、メインテナンス、任務補助、土木、医療を担当する。F-15C/D(第44、67戦闘飛行隊の2個飛行隊24機)やKC-135(空中給油機)・E-3AWACS機などを保有し、米の西太平洋及び東南アジアでの抑止力の中心を担う在日米空軍の主力部隊。救難飛行隊もあり、救難ヘリコプター、HH-60を使用している。
- フロリダ州ハールバート空軍基地の空軍特殊作戦コマンドに属する。750人の飛行要員を持つ3つの飛行隊、1つのメインテナンス隊、1つの特殊戦術隊、1つの作戦補助隊からなる。C-130輸送機を改造したMC-130H/Pなどを保有。この部隊に所属する第320特殊戦術中隊などは、2011年3月11日発生の東北沖大地震津波で破壊された航空自衛隊松島基地などの災害復旧にいち早く投入され活躍した。
- 320人以上の要員からなり、嘉手納飛行場の人員と貨物の航空輸送を担当する。毎月650機が飛来し、12,000人を超える人員と3,000トン近い貨物の輸送を行う。
- 太平洋地域での偵察任務。太平洋軍にとって重要な部隊であり、得られた情報は国防総省及び他の政府機関で活用される。第390情報隊と密接に協力する。RC-135U/V/W、WC-135といった偵察機を使用する。
- 空軍情報局に所属。情報活動、保安活動を行う。
航空管制
CLR | 123.300 | 235.000 | |
---|---|---|---|
GND | 118.500 | 275.800 | |
TWR | 126.200 | 236.600 | 315.800 |
APP/DEP(北方面) | 119.100 | 335.800 | |
APP/DEP(南方面) | 126.500 | 258.300 | |
18 WG COMD POST | 311.000 | 355.200 | |
AIRLIFT COMD POST | 128.000 | 349.400 | |
PTD | 131.400 | 266.000 | |
BASE OPS | 266.000 | ||
MET | 344.600 | ||
ATIS | 124.200 | 280.500 |
那覇進入管制区
沖縄周辺の空域の航空管制については、沖縄の施政権返還後も、「日本国政府がこれらの飛行場へのレーダー進入管制業務を提供できるまでの暫定期間中、これらの飛行場に対する進入管制業務を行う」として、当飛行場設置の沖縄進入管制区("Okinawa Approach Control"、通称「嘉手納ラプコン」。当飛行場の上空約6000m・半径約90km、および久米島上空約1500m・半径約55kmの空域。ただし、当飛行場および那覇飛行場、普天間飛行場の各管制圏を除く。)の管制官が担当してきた。2000年3月16日にコーエン米国防長官(当時)が当管制区の日本への移管方針を表明し[2]、2004年12月10日の日米合同委員会にて3年後(2007年度)をめどに日本への移管が決定され[3]、同12月15日から国土交通省所属の航空管制官の訓練が開始された[4]。もっとも、管制方式の違いを主因として管制官の訓練に時間を要したことにより移管は遅れた。2010年2月までに訓練は終了し、同3月18日の日米合同委員会にて、同3月31日午前0時(日本時)に移管されることが決定された[5]。
現在は国土交通省所管の那覇進入管制区(当飛行場の上空約6000m・半径約90km、および久米島上空約4900m・半径約55kmの空域。ただし、当飛行場および那覇飛行場、普天間飛行場の各管制圏を除く。)となっている。
航空灯台
局名 | 種別 | 識別信号 | 周波数 | 運用時間 |
---|---|---|---|---|
嘉手納 | VOR | KAD | 112.000 | 24時間 |
TACAN | - | 1018.000 |
- 保守は、米空軍が担当
地理
- 西側は国道58号をはさんで海に面し、反対の東側(沖縄市)には沖縄自動車道が走っている。
- 南側は県道23号(通称「国体道路」)沿いに北谷町の民間地域が広がり、北は嘉手納町を県道74号が走る。
- 県道74号沿い(嘉手納町屋良)に「道の駅かでな」および通称「安保の見える丘」があり、滑走路の北東側や戦闘機の駐機場周辺を見渡すことができる。なお、県道74号の周辺は民間地域であるが、そのさらに北側は嘉手納弾薬庫地区となっている。
- 東京の品川区にほぼ匹敵する面積(東京ドーム約420個分)を、沖縄本島中部に占めている。
- 嘉手納飛行場が占める土地のうち、9/10は私有地である。このため、年間239億円を超える賃借料が地主に支払われている。
沿革
- 1944年(昭和19年)9月:旧日本陸軍航空隊の中飛行場として開設される。
- 1945年(昭和20年)4月:沖縄本島に上陸した米軍(アメリカ海兵隊)に占領される。整備拡張が行われ、同年6月には全長2,250mの滑走路が完成、嘉手納飛行場として使用開始。同年にキャンプ・サンソネ、陸軍住宅地域が設置される。
- 1954年(昭和29年)2月:日本航空の東京-沖縄線開業(週2往復)。沖縄側の使用空港は嘉手納であった。のち那覇空港に移管。
- 1965年(昭和40年)7月29日:グアムの台風を避けるため前日から嘉手納に展開していたB-52爆撃機25機が、同日北ベトナム空爆に出撃。以降、なし崩し的に同機の飛来が定着、嘉手納はアメリカ政府の主張による「補給基地」から、実質的な「出撃基地」のひとつとなる。
- 1967年(昭和42年)5月:4,000m級の滑走路2本が完成。
- 1968年(昭和43年)11月19日:B-52が離陸直後に基地内に墜落、周辺施設や民間人にも被害をもたらす。これをもって、同機の撤去運動が一層高まる。
- 1970年(昭和45年):B-52をグアムのアンダーセン空軍基地へ移管。
- 1972年(昭和47年)5月15日:沖縄の復帰に伴い施設・区域が提供される(このときキャンプ・サンソネ、陸軍住宅地域は嘉手納飛行場に統合)。
- 1987年(昭和62年)10月:基地内大学への県民の就学受入開始。
- 1987年(昭和62年)12月14日:ソ連のTu-16バジャー偵察機が領空侵犯し、嘉手納基地上空を飛行。スクランブルにより航空自衛隊機が警告射撃。
- 1999年(平成11年)6月14日:AV-8Bハリアーが離陸中に墜落。
- 1999年(平成11年)12月27日:SACOにおいて合意のあった遮音壁(長さ2.3km 高さ5m)完成。
- 2007年(平成19年)2月17日: 第27戦闘飛行隊のF-22 ラプターがラングレー空軍基地から派遣(5月10日に撤収)。
最近の動静
- 2007年1月11日付の米空軍発表のニュースによると、米空軍がイラクでの軍事作戦などを支援するため米軍嘉手納基地から600人以上の空軍兵が派遣されていることが分かった。
- 2007年2月10日(飛来は17日)から5月10日までF-22戦闘機12機が暫定的に配備された。また、この機会を利用し、沖縄近海において自衛隊との共同訓練が実施された。
- 常駐しているF-15戦闘機が老朽化しているため、米国本土にある機齢の若い機体との入れ替えを行なうアイロン・フロー計画が実施された。この計画において、米国本土向け発進する際の離陸時刻が未明~早朝であることから「周辺への騒音の影響が大きい」として地元自治体はこれに抗議し離陸時刻の変更を要求しているが、米軍側は「運用上の必要がある」としてその要求に応じない姿勢を示している[6][7]。嘉手納基地報道部によれば、老朽機の米国本土への飛行は2008年4月23日未明で終了した。その他、米国本土への飛行は、米国での到着時刻を勘案することにより当基地の発進時刻が未明~早朝になるよう設定されることが多い。
- 2007年11月4日、米本国ミズーリ州で発生したF-15戦闘機の空中分解・墜落事故(11月2日)を受けて、嘉手納基地における同型機の飛行訓練も停止された。
- 2008年1月14日、前年11月に停止されたF-15戦闘機の飛行訓練を再開。限定的に再開された数日を除けば約2ヶ月ぶりの本格的再開であった。
- 2009年1月10日、ヴァージニア州ラングレー空軍基地所属のF-22戦闘機12機が嘉手納基地に飛来、3ヶ月の予定で訓練を行う。これでF-22戦闘機の嘉手納基地展開は2度目となる。
- 2009年5月30日、ヴァージニア州ラングレー空軍基地所属のF-22戦闘機4機が嘉手納基地に到着。在日米空軍の発表によると全部で12機が4ヶ月にわたって嘉手納に展開する予定。これでF-22の嘉手納基地展開は3度目となる。
- 2009年6月2日、5月30日に続いて、別のF-22戦闘機4機が嘉手納基地に到着。翌3日には地元嘉手納基地所属のF-15戦闘機や在韓米軍所属のF-16戦闘攻撃機との訓練を行った。
地元への影響
テンプレート:節stub 嘉手納飛行場は米空軍の専用施設であり、戦闘機をはじめとする多数の軍用機が常駐している。また、軍人・兵士以外にもその家族や、軍の業務に関係する民間企業の従業員など多数の人員が所属しているため、周辺地域に与える影響はきわめて大きい。その概要は次のとおりである。
- 航空機騒音
- 離着陸時の飛行コースは、民間地域の上空をも通る。このため、周辺地域では日常的に騒音に悩まされている。騒音軽減を要求する内容の訴訟も提起されている(嘉手納基地爆音訴訟)。
- 1996年に日米両政府が合意した「航空機騒音規制措置」では午後10時から午前6時までの飛行、地上活動の制限が定められているが、米軍の運用上の必要があれば除外できるとする規定があり、十分な解決策になっていない[8]。
- 航空機墜落の危険
- 汚染物質の漏出
- 2007年5月に、航空機燃料の取り扱い不手際により、約8.7キロリットルの漏出があった。1960年代から1970年代の間、PCBを含む廃油を溜池に投棄していたことも明らかになっている。これらの汚染に関し、日米地位協定の定めにより、日本側の調査権は著しく制限されている。地下水は上水道の水源でもあり、これらの汚染物質による環境汚染が懸念されている。
- 基地経済
- 米軍専用施設があることによって、基地周辺整備資金あるいは基地交付金、調整交付金という名目で、国から周辺自治体に補助金が支払われる。また、米軍基地への協力という国策への貢献を政府与党が評価して、振興策が提起されることもある。加えて、通称「軍雇用員」と呼ばれる、米軍が採否を決定し人件費は日本政府が負担する職種がある。これは公務員と同等の待遇であり、失業率の高い沖縄県では安定した就職先の1つとして重視されている。さらに、基地内の土木建築工事の請負や物品の納入販売などの経済活動などもある。数万人の隊員およびその家族、基地職員による消費は、地元経済にとって無視できない規模である。
基地公開
過去には「カデナカーニバル」最近は「アメリカフェスト」と呼ばれるオープンハウスが概ね合衆国独立記念日前後に行われる慣習であるが、アメリカ同時多発テロ事件の影響により近年続けて中止となっている。過去のオープンハウスでは、本土の米軍基地公開では通常厳しく制限される自家用車の乗り入れが原則自由であったり、滑走路(05L/23R)を駐車場にした例もあった。
2008年7月5日、実質4年ぶりに基地公開(アメリカフェスト)が行われた。飛行展示がなく、機体の見学は写真撮影も可などの条件は従来の公開と同様であった。当時の基地司令官ブレット・ウィリアムズ准将は、翌年(2009年)の開催では飛行展示の実施も考慮していることを明らかにしていたが、基地を抱える3市町はいずれも飛行展示に反対していた。
2009年には7月3日(軍人、軍属、従業員等、基地ID保有者限定)、7月4日(一般開放日)の両日にアメリカフェスト2009と題して基地が一般に公開された。今年はラングレー空軍基地から展開中のF-22ラプター戦闘機が一般には日本で初めて公開され人々の注目を浴びた。基地の通常業務に関わる航空機の運行はあったもののフェスティバルの為の飛行展示は行われなかった。 なお、海外の米軍基地で働く兵士・従業員の慰問のために俳優のゲーリー・シニーズ Gary Sinise率いるLt. Dan Bandがライブで演奏を行った。
脚注
関連項目
外部リンク
- Kadena Air Base, Japan 嘉手納空軍基地(公式サイト;英語・日本語)