ベトナム民主共和国

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ベトナム民主共和国(ベトナムみんしゅきょうわこく、テンプレート:Vie)は、1945年ベトナム八月革命によって、ベトナムに成立した、東南アジア最初の社会主義国家

第一次インドシナ戦争の結果、1954年以降は暫定的に、「北緯17度線」以北のベトナムのみを統治したため、北ベトナムと別称される。1976年南ベトナムを吸収併合したことで、ベトナム社会主義共和国として発展的に消滅した。

歴史

第二次世界大戦

フランスの植民地(フランス領インドシナ、仏印)の一部であったベトナムには、1940年9月と1941年7月に日本軍が進駐(仏印進駐)していた。そして、第二次世界大戦末期、東京大空襲の翌日に当たる1945年3月11日に、日本軍によってフランス植民地政府が打倒(仏印処理)され、阮朝は日本軍の庇護の下でベトナム帝国を樹立した。

その後、8月15日に日本軍がフランスを初めとする連合国軍降伏文書の調印を予告すると、2日後の8月17日に、ベトナム独立同盟会(ベトミン)はインドシナ共産党の主導下で八月革命を起こし、ベトナム帝国からの権力争奪闘争を各地で展開した。そして、日本政府が降伏文書に調印した9月2日には、ホー・チ・ミンハノイでベトナム民主共和国の独立を宣言し、ベトナム帝国は崩壊した。

日本の降伏からジュネーヴ協定まで

日本軍が降伏してベトナム帝国が崩壊すると、ベトナムは再びフランスの統治下に入った。日本軍の武装解除の為、フランス領インドシナ北部には中華民国軍が、南部にはイギリス軍が進駐した。中華民国軍の影響下で、ベトミンベトナム国民党などとの連立内閣を組織しており、翌1946年の総選挙後もこれを維持していた。しかし南部ではイギリス軍がサイゴンに上陸し、さらに旧植民地の再支配を謀るフランス軍が加わり、1945年9月末にはサイゴンの支配権を奪取したことで、ベトミンとの武力衝突が発生した。ベトミンはフランスとの交渉による解決を試み、1946年3月にはフランス連合内での独立が認められた。だが、インドシナ一帯の再支配を目論むフランス政府は、ベトナムが共産国家として独立することを拒否し、コーチシナ共和国の樹立などさまざまなかたちで分離工作を行なったため、越仏双方が抱く意見の相違は解決されず、同年12月にハノイで越仏両軍が衝突したことで、第一次インドシナ戦争が勃発した。

開戦当初はフランス軍が優勢であった。だが、山岳地帯に引きこもって軍隊を組織したベトミンは、フランス軍との戦力差を考慮してゲリラ戦で対抗した。戦争の長期化に直面したフランスは1949年6月、ベトナム民主共和国に代わるベトナム人国家としてベトナム国をサイゴンに成立させ、国家承認した。ベトナム国がアメリカイギリスからも国家承認を受けたのに対し、1950年にはベトナム民主共和国がソ連型社会主義国家ソビエト連邦中華人民共和国から国家承認を受け、両国からの援助を得ながら抗戦を続けた。こうしてこの戦争は、冷戦の体制競争という側面も有するようになった。

第一次インドシナ戦争の長期化は、戦争に疲れたフランス国民の厭戦感を高めた。そのため、フランス政府は戦争終結に向け、1954年4月からジュネーヴ会議を開始した。そして、ディエンビエンフーの要塞陥落を受けて、1954年7月21日ジュネーヴ休戦協定を締結した。協定により、ベトナムの国土は北緯17度線で南北に分割され、北ベトナムをベトナム民主共和国が、南ベトナムをベトナム国が(1955年まで)統治することになった。しかし、恒久的な分割を避けるため、1956年に再統一のための全国選挙を実施することも決められた。

ジュネーヴ協定からトンキン湾事件まで

ジュネーヴ会議の後、北ベトナムでは戦闘が停止され、ベトナム労働党と政府は土地改革、農業集団化などの社会主義化を推進した。一方、南ベトナムでは、再統一のための選挙を拒否したベトナム共和国1955年成立)のゴ・ディン・ジエム政権が施政に失敗して社会不安を増大させていた。そのため、労働党は革命戦争再開の好機と判断し、1960年の第3回党大会で南ベトナムの解放と社会主義建設を謳い、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン、1960年成立)の闘争を指導し始めた(ベトナム戦争)。

ベトナム戦争

ベトコンによる南部でのテロゲリラ活動がおこると、南ベトナムの現状を憂えたアメリカ政府が軍事介入し、その後1964年トンキン湾事件が勃発し、翌1965年2月7日には北ベトナムへの集中爆撃(北爆)と米軍戦闘部隊の南ベトナム派遣を行なった。それに対し、ベトナム民主共和国は南ベトナム解放民族戦線を通じてベトナム人民軍を南ベトナムへ派遣し、ベトナム戦争を本格的な戦争へと発展させた。

1968年、ベトナム人民軍は解放戦線と共にテト攻勢を敢行し、ベトナム共和国のグエン・バン・チュー政権を根底から揺さぶったが、この攻撃による体制転覆には失敗し、解放戦線は大打撃を受け、以降の主戦力はベトナム人民軍が担うこととなった。一方、翌1969年には建国以来の指導者であるホー・チ・ミンが死去したが、指導権は労働党第一書記のレ・ズアンに継承され、混乱は生じなかった。1973年、ベトナム民主共和国はアメリカ・ベトナム共和国とパリ協定を締結し、米軍を南ベトナムから撤退させるとともに、1969年に南ベトナム解放民族戦線が中心になって樹立された南ベトナム共和国臨時革命政府の国際的認知をとりつけることに成功したが、一方米軍の南ベトナム再介入の可能性と新たな再統一のための全国選挙に備え、ベトナム共和国を受け入れることを暗黙のうちに認めた。だが、米軍再介入の可能性がないことが分かると、1975年1月にベトナム民主共和国はパリ協定を破棄して軍事攻勢を起こし、3月には猛攻撃を開始、約6週間で南ベトナム軍を壊滅させた。1975年4月30日、ベトナム人民軍と南ベトナム解放民族戦線軍はサイゴンを占領し、ベトナム共和国政府を無条件降伏させた(ベトナム戦争の終結)。

ベトナム共和国の消滅後、南ベトナムを代表する政府は南ベトナム共和国臨時革命政府だけになった。しかし、ベトナム戦争後に顕在化してきた中華人民共和国クメール・ルージュとの軋轢を前にして、労働党は再統一の計画を早めて統一選挙を実施、1976年7月2日に南北ベトナムの再統一とベトナム社会主義共和国の成立が宣言された。

1976年7月2日のベトナム再統一以降、旧ベトナム共和国政府関係者の「再教育」、南ベトナムの社会主義化(行政、官僚組織の再編成や企業の国営化)が急速に進められた。

脚注


関連項目

先代:
ベトナム帝国
1945年3月-9月
ベトナムの歴史
南北分断時代
(ベトナム民主共和国)
南ベトナム
1945年9月-1976年
次代:
ベトナム社会主義共和国
1976年-現在

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