池田輝政

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テンプレート:基礎情報 武士 池田 輝政(いけだ てるまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名美濃池尻城主、同大垣城主、同岐阜城主、三河吉田城主を経て、播磨姫路藩の初代藩主となる。姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られる。姫路宰相と称された[1]

生涯

織田家臣の時代と活躍

永禄7年(1564年)12月29日、織田信長の重臣・池田恒興の次男として尾張清洲(現在の愛知県清須市)に生まれた[2]。父や兄・元助と共に信長に仕え、輝政は信長の近習となる[3]。荒木村重が謀反を起こした有岡城の戦いでは天正7年(1579年)11月に父と共に摂津倉橋に在陣した[4]。天正8年(1580年)の花隈城(花熊城)攻略の際(花熊城の戦い)には北諏訪ヶ峰に布陣し[3]、閏3月2日に荒木軍の武士5、6名を自ら討ち取る高名を立てた[4]。その軍功により信長から感状を授けられた[3]

家督相続と豊臣家臣の時代

天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が明智光秀に弑されると、父兄と共に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕え、同年10月15日、秀吉が京都大徳寺で信長の葬儀を催すと、輝政は羽柴秀勝とともに棺を担いだ[5]

天正11年(1583年)、父が美濃大垣城主となると、自らは池尻城主となった[3]。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、父の恒興と兄の元助が討死したため家督を相続し[註 1][6]、美濃大垣城主13万石を領した[4][3]。天正13年(1585年)には同じ13万石で岐阜城主となった[4]

その後も秀吉の紀州征伐富山の役佐々成政征伐)、九州征伐など秀吉の主要な合戦の大半に従軍した[4]。天正15年(1587年)、羽柴氏を与えられる[7]天正16年(1588年)、従四位下侍従に叙任、豊臣姓を下賜された。天正18年(1590年)の小田原征伐奥州仕置には2800の兵を率いて参加した[4]。そのため戦後の同年9月、三河国の内、渥美宝飯八名設楽4郡(東三河)において15万2000石に加増され、吉田城主となった[3][4][註 2]。また、在京の粮米として伊勢国小栗栖の庄を与えられた。

吉田城主時代は同時期に尾張に入部した豊臣秀次に付属させられたと見られており[4]、そのため文禄の役に際しては国内守備の任務にあった秀次に近侍して吉田城に留まり東国警衛の任にあたっている。ただし全く任務が無かったわけではなく、朝鮮出兵のための大船建造や兵糧米の名護屋城回送を命じられている[8]。また、伏見城普請や豊臣秀保大和多内城普請を務めた[3]

豊臣時代、輝政は豊臣一族に準じて遇され、豊臣姓を許された。文禄3年(1594年)、秀吉の仲介によって、徳川家康の娘・督姫を娶る[9][3]文禄4年(1595年)、関白・豊臣秀次の失脚時、秀次の妻妾の多くが殺害されたものの、輝政の妹・若御前(秀次の正室)は特に助命されるなど、特別丁重に扱われている(秀次事件)。

関ヶ原と西国の太守

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関ヶ原の戦いの池田輝政陣跡(岐阜県不破郡垂井町)

慶長3年(1598年)8月、秀吉が没すると家康に接近した。また、福島正則加藤清正武断派の諸将らと共に行動し、文治派石田三成らと対立し[註 3]、慶長4年(1599年)閏3月3日、武断派と文治派の仲裁をしていた前田利家が死去すると、七将の一人として福島正則・加藤清正・加藤嘉明浅野幸長黒田長政らと共に石田三成襲撃事件を起こした。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川方に与し、本戦のみならず[註 4]、前哨戦となった織田秀信の守る岐阜城攻略にも参加し[3]、福島正則とともに功を挙げた(岐阜城の戦い)。

戦後、岐阜城攻略の功績から播磨姫路52万石[10]に加増移封され、初代姫路藩主となった[8][註 5][11]

慶長6年(1601年)から慶長14年(1609年)にかけて姫路城を大規模に改修する。慶長11年(1606年)からは姫路城と同時進行で加古川流域の改修も始め、加古川の上流の田高川の河川開発事業や下流域の高砂の都市開発事業を行った。また、諸大名らと共に、慶長11年(1606年)の江戸城普請、同14年(1609年)の篠山城普請、翌15年(1610年)の名古屋城普請など、天下普請にも従事し、篠山城普請では総普請奉行を務めた。翌16年(1611年3月には、二条城における家康と秀頼との会見に同席した。慶長17年(1612年)、正三位参議、および松平姓を許され「播磨宰相」「姫路宰相」「西国将軍」などと称された(宰相は参議の唐名[12][3]。また、次男・忠継備前国岡山藩28万石、三男・忠雄淡路国洲本藩6万石、弟・長吉因幡国鳥取藩6万石を合せ、一族で計92万石(一説に検地して100万石)もの大領を有した。徳川家との縁組は家格を大いに引き上げ、明治に至るまで池田家が繁栄する基盤となった。

慶長18年(1613年)1月25日に姫路にて急死する。死因は中風。享年50。輝政の死は秀吉の呪いとも噂された[註 6]

家督は長男(嫡男)の利隆が継いだ。

墓所・菩提寺

人物・逸話

人物像

輝政は「幼い時からはきはきした性格で、成長するに従い、雄々しく逞しくなった。人となりは剛直で、下の者に臨む態度は寛容で、徳行を賞して顕彰した」と評されている[註 8]。また、口数の少ない寡黙な人物だったといわれる。

あまり物事にはこだわらない性格で、家康から命じられた岐阜城攻めで、福島正則と激しい功名争いを演じたが、実際には一番乗りの手柄を上げたにも関わらず、あっさりと功を譲って、同時に城を落としたことにしたと伝わる。

武士にとって刀や脇差は命に代えがたいものであったが、ある時に家臣が1人で寝ている間に盗まれた。周囲は不心得者と罵り嘲笑った。そこでいたたまれず暇を願い出たが、輝政は許さなかった。そしてその昔、源義経の股肱の臣である佐藤忠信が刀を盗まれた事を例に挙げて、寝入った隙に刀を取られても恥ではないと慰めた。そして周囲には今後、罵る者を仕置すると通達して家臣を大切にしたと伝わる[13]

輝政は姫路城を現在の巨郭とした事で有名だが、輝政は城より家臣が大切である事を熟知していた。前述の逸話もそうだが、姫路城大規模改築工事の際に家臣の大半が姫路城は戦いには不向き(姫路周辺に男山・景福寺山という同じ大きさの山があったため)として別の土地に城を築くように促した[1]。それに対して輝政は「姫路城の近くに山があり、要害として甚だ悪いというが、小さな事だ。籠城する事なく、大地へ切って出て、大勝利を得ればよい。だから城の要害は心配はいらぬ[註 9]」と述べたと伝わる[13]

輝政は関ヶ原本戦で大きな戦功も無かったのに播磨52万石の大大名となったため、福島正則から「お主が大国を領しているにはわけがある[14]大御所(家康)の婿だからだ。我らは槍先で国をとったが、お主は一物で国をとったのよ」と言われた[14]。輝政は動じず「いかにもわしは一物で国をとった。だが、もし槍先でとれば天下を取ってしまったからのう」と言い返したという[14]

小牧・長久手合戦の際、父と兄の死を聞いて輝政は敵軍への突入を図った[15]。その時、家臣の番藤右衛門が馬の口をもち必死に輝政を止める者がいた。そこで番は「父君は死んでいないからこの場を離れましょう」と嘘をついた。輝政は「この不届き者」、と激怒して鐙で番の頭をけりつけた[15]。しかし番は馬の口を離さずに輝政を無事に救出した[15]。後に輝政はこの事が一生の心の傷となり、番を褒めることはせず加増もしなかったという[14]。番は輝政の死後に利隆から功労を認められて加増された。

徳川家に関連する逸話

家康の娘・督姫を娶った際、伏見の徳川屋敷を訪れた輝政は長久手の戦いで父・恒興を討った永井直勝を召し出し、その最期を語らせた。しかし、直勝が5,000石の身上だと知ると輝政は不機嫌になり「父の首はたったの5,000石か」と嘆息したという。また、この話を聞いたのち家康に直勝へ加増の言上をして、1万石の大名になった。のち永井家はその後7万2,000石をも拝領する事になった。継室・督姫の侍女が「当家が繁栄したのも(家康の娘である)姫君の甲斐があってこそ」と発言したのを、妻の前では叱責しておき、後になって、その侍女を呼び寄せ「自分の出世には多分に妻の七光りによるところなのは理解しているが、それを聞いて彼女が付け上がり、夫婦仲が悪くなっても困るから妻の前では、それを言うのは止めて欲しい」と言った[16]

その他

通称の三左衛門は、姫路城の三左衛門堀(外堀川)、姫路市内の町名に三左衛門堀東の町・三左衛門堀西の町として名残がある。なお、名前は「輝政」で知られているが、これは彼が慶長14年(1609年)頃と晩年になって改名した名前であり、それまでは「照政」だった[8]

孫の光政は輝政の声望を尊敬していたという[17]

官歴

家族

祖父母
両親
兄弟姉妹
妻子

脚注

註釈

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出典

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参考文献

書籍
史料

輝政が関連する小説

関連項目

テンプレート:Sister

テンプレート:姫路藩主
  1. 以下の位置に戻る: 1.0 1.1 楠戸義昭『戦国武将名言録』P244
  2. 元の位置に戻る 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.479
  3. 以下の位置に戻る: 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 3.8 3.9 阿部猛『戦国人名事典』P76
  4. 以下の位置に戻る: 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 4.7 岡田正人『織田信長総合事典』P222
  5. 元の位置に戻る 岡田正人『織田信長総合事典』P444
  6. 元の位置に戻る 谷口澄夫『池田光政』吉川弘文館(人物叢書)1987年。17頁
  7. 元の位置に戻る 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年。28頁
  8. 以下の位置に戻る: 8.0 8.1 8.2 岡田正人『織田信長総合事典』P223
  9. 元の位置に戻る 村川前掲書、112頁
  10. 元の位置に戻る うち西播磨三郡(宍粟郡佐用郡赤穂郡)10万石は督姫の化粧料
  11. 元の位置に戻る 谷口澄夫『池田光政』吉川弘文館(人物叢書)1987年。18頁
  12. 元の位置に戻る 村川前掲書、103頁。
  13. 以下の位置に戻る: 13.0 13.1 楠戸義昭『戦国武将名言録』P245
  14. 以下の位置に戻る: 14.0 14.1 14.2 14.3 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.481
  15. 以下の位置に戻る: 15.0 15.1 15.2 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.480
  16. 元の位置に戻る 『信長の野望・覇王伝 武将FILE』20頁
  17. 元の位置に戻る 「輝政様御威勢おびただしき事にて候。姫路の事は置き、備前へも諸大名上り下りに寄られ、又輝政様駿河へ御越之節にも、尾張様・紀州様など阿部川迄迎に御出成されし由也」(『有斐録』)
  18. 以下の位置に戻る: 18.0 18.1 18.2 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒沢史学』49号、1996年


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