カザフスタン
- カザフスタン共和国
- Қазақстан Республикасы(カザフ語)
Республика Казахстан(ロシア語) -
カザフスタンの国旗 カザフスタンの国章 (国旗) 国章 - 国の標語:なし
- 国歌:我がカザフスタン
- カザフスタンの位置
公用語 カザフ語、ロシア語 首都 アスタナ 最大の都市 アルマトイ 通貨 テンゲ(KZT) 時間帯 UTC +4 ~ +6(DST:なし) ISO 3166-1 KZ / KAZ ccTLD .kz 国際電話番号 7 </dd> </dl> カザフスタン共和国(カザフスタンきょうわこく)、通称カザフスタンは、中央アジアに位置する共和制国家である。首都はアスタナ、最大都市はアルマトイ。ロシア連邦、中華人民共和国、キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタンと国境を接し、カスピ海、アラル海に面している。
国名
正式名称はカザフ語で、Қазақстан Республикасы(Qazaqstan Respublikasy; カザクスタン・リスプブリカスィ)、ロシア語で、Республика Казахстан(Respublika Kazakhstan; レスプーブリカ・カザフスタン)。
公式の英語表記は、Republic of Kazakhstan。通称、Kazakhstan。
日本語の表記は、カザフスタン共和国。通称、カザフスタン。漢字による当て字は香佐富斯坦。
国名は、カザフ人の自称民族名 Қазақ(Qazaq; カザク)と、ペルシア語で「~の国、~の多い所」を意味する -stān/-estān; スタンの合成語である。「スタン」に関しては、モンゴル語の「部族」を意味する「ястан (ヤスタン)」に由来するという意見もある。カザクは、テュルク語で「独立不羈の者」「放浪の民」を意味する。
2014年2月6日、ナザルバエフ大統領は周辺の同じく「スタン」を国名に持つ旧ソ連諸国との差別化を計り、国際的な認知度をアップさせるため、国名を変更する考えを明らかにした。新たな国名の候補として、「カザフエリ(カザフ語でカザフ人の土地を意味する)」が挙げられている[2]。
歴史
イッセドネス人、アリマスポイ人
古代ギリシアのヘロドトスやテンプレート:仮リンクらによる歴史書では、伝承ではあるものの、最古のカザフステップにイッセドネス人やテンプレート:仮リンク人(一眼族)といった諸族がいたことを記録している。イッセドネス人は故人の肉を食す民族であり、アリマスポイ人は一つ目の民族であるという。アリマスポイ人は絶えず近隣の民族を攻撃しており、そのため西隣のイッセドネス人は西へ移動し、その西にいたスキュタイ人は西へ移動し、さらに西(南ロシア草原)にいたキンメリア人を追い出すこととなった。[3]
マッサゲタイ
古代ギリシアのヘロドトスによる『歴史』によれば、もともとアジアの遊牧民であったスキュタイ人がマッサゲタイに追われてアラクセス河を渡河し、当時のキンメリア地方(現在の南ウクライナ)に移ったという。アケメネス朝のキュロス2世がヤクサルテス川を越えて中央アジア征服に及んだ際、マッサゲタイの女王トミュリスに殺され、征服は失敗に終わった。
サカイ、ソグディアノイ
古代ローマの地理書にはサカイ、ソグディアノイといった民族が記されている。サカイはスキュタイと同じ遊牧民族であり、ペルシアの史料ではサカと呼ばれ、アケメネス朝の属民であった。アレクサンドロスの侵入時もその存在が確認でき、ヤクサルテス川(シル・ダリヤ)をはさんで対峙した。ソグディアノイは後にシルクロード交易の担い手となるソグド人として有名であるが、この頃はアケメネス朝やアレクサンドロスの属民として歴史に登場する。[4]
康居、奄蔡
紀元前2世紀から4世紀にわたり、中国の歴史書には康居や奄蔡といった遊牧民族が記されている。康居は初め、東の匈奴、南の大月氏といった強国に臣従していたが、1世紀になると、栗弋国,厳国,阿蘭聊国といった諸国を支配下に入れるほど強盛を誇る。奄蔡は西方史料のいうアオルソイに比定されたり、後に阿蘭と改名したことから、アランに比定されたりするが、記録が少なく、康居と同俗であること以外わかっていない。[5]
悦般、エフタル
悦般はモンゴル高原から追われた北匈奴が行き着いた地で建てた国であり、その場所は康居の北にあったとされる。言語・習俗は高車と同じであり、周辺民族の中でも清潔であったという[6]。この悦般がのちのエフタルであるとする説もある[7]。エフタルはその出自が不明で、アルタイ山脈から南下してきたとも、テンプレート:仮リンクにいたともいわれている[8]。エフタルはインドではフーナ(hūna)と呼ばれ、ペルシアではヘプタル(heptal)、中国では嚈噠,挹怛とも呼ばれ、中央アジアにあってその周辺国に侵入し、戦争をおこなった。
西突厥
6世紀、エフタルの国家は突厥とサーサーン朝の挟撃に遭って滅ぼされ、中央アジア全土は突厥の領土となった。突厥は582年に東西に分離し、カザフ草原は西突厥が支配することとなる。西突厥は内紛が相次ぎ、一時は唐の支配下に入って共にアラブ・イスラーム勢力と戦うも、741年には王族である阿史那氏が滅び、その帝国はそれぞれの部族に分散してしまう。9世紀から12世紀にかけては西突厥の構成民族であったテンプレート:仮リンク(テュルギシュ),カルルク,オグズ,キマク,キプチャク,テンプレート:仮リンク,ハザール,ペチェネグなどが割拠した。
カラハン朝、カラ・キタイ
カラハン朝はテュルク系初のイスラーム王朝であり、その母体はウイグルともカルルクとも言われている[9]。東西の文化が融合したことで、文化面では大いに発展し、「テンプレート:仮リンク」と呼ばれるアラビア文字を使って記されるテュルク語の文語が生まれてユースフ・ハーッス・ハージブの韻文作品『テンプレート:仮リンク』(幸福になるための智恵)や、テンプレート:仮リンクのテュルク諸語の語彙を集めた辞典『テンプレート:仮リンク』(テュルク諸語集成)が登場し、テュルク・イスラム文化の先駆けとなった[10]。カラハン朝は1041年に東西に分裂し、12世紀初頭には耶律大石率いる契丹軍によって征服され、カラ・キタイ(西遼)の属国となった。
モンゴル帝国
カザフ草原の西の大部分はテュルク系のキプチャクの領土であり、東の大部分はカラ・キタイの領土であった。カラ・キタイは1211年にナイマンのクチュルクによって乗っ取られるが、まもなく東の遊牧民族を統一したチンギス・カンのモンゴル軍によって征服され、1236年にはキプチャクもバトゥ率いるモンゴル征西軍によって征服され、中央ユーラシアの遊牧民騎馬民族は全てモンゴル帝国の支配下に入ることとなった。モンゴル第2代皇帝オゴデイが没すると、1242年にバトゥはヴォルガ川下流のサライに都を置いて、カザフ草原(当時はキプチャク草原と呼ばれた)を中心とする自立政権ジョチ・ウルスを築いた。
カザフ・ハン国
15世紀末、シャイバーニー朝より分離した現在のカザフ人の祖先が侵入し、カザフ・ハン国を建国し、16世紀初めまでにカザフ民族が形成された。17世紀ごろからカザフ民族は、主として、東部の大ジュズ(Старший жуз)、中部の中ジュズ(Средний жуз)、西部の小ジュズ(Младший жуз)の3部族に分かれて草原に居住していた。
18世紀初め、ジュンガルが襲来したため(アクタバン・シュブルンドゥ)、1730年代から1740年代に小ジュズと中ジュズは、ロシア国籍を自発的に受け入れた。1860年代、カザフスタン領域はロシアに併合された(トルキスタン総督府管轄下セミレチエ州)。
カザフ・ソビエト社会主義共和国
ロシア革命では、北部は白軍の支配下に入りアラシュ自治国(1917年 - 1920年)、1920年に南部は赤軍の支配下に入りソビエト連邦の構成下においてテンプレート:仮リンクが誕生(首都はオレンブルク)、1925年にはカザフ・ソビエト社会主義共和国(1925年 - 1936年)が樹立された(1929年に首都がアルマトイになる)。
1936年12月5日にカザフ・ソビエト社会主義共和国(1936年 - 1991年)に昇格した後、ソビエト連邦の共産党政権のコントロール下に置かれた。領内にはソ連の核実験の中心地としてセミパラチンスク核実験場が作られたほか、宇宙開発の中心となるバイコヌール宇宙基地が作られた。
カザフスタン共和国
ソビエト連邦崩壊後の1991年12月16日に、カザフスタン共和国として独立し、1991年12月21日に独立国家共同体(CIS)に加盟した。
2006年2月、野党「アク・ジョル」の共同議長アルティンベク・サルセンバエフは運転手とともに、アルマトイで射殺体で発見された。5人の国家保安委員会のメンバーが、サルセンバエフの殺害に関わっているとして逮捕された。バウルツァン・ムハメドツァノフ内務大臣によると、犯人は1人当たり2万5千ドルを受け取っているという。警察官1人も殺人に関わったとして逮捕されている。カザフスタンでは、反対派のアルマトイ前市長のザマンベック・ヌルカディロフも射殺体で発見されている。
2007年8月18日の議会選挙では、与党「ヌル・オタン」が、比例代表制による全98議席を獲得、その他9議席を大統領直属の国民評議会が指名するため、与党が107議席をすべて独占することとなった。5月には憲法改正が行われており、改正によってナザルバエフ初代大統領に限り、3選禁止の規定が除外されている。
地理
カザフスタンはユーラシア大陸の中心に位置しており、世界第9位の広大な国土面積(アジアでは、中国、インドに次いで第3位)を有し、同時に世界最大の内陸国でもある。但し、国土の大部分はサルイイシコトラウ砂漠やキジルクム砂漠などの砂漠や乾燥したステップで占められている。地形は大きく3つに分類されており、中国国境やアルタイ山脈を含むカザフ高原、中部のカザフステップ、西部のカスピ海沿岸低地である。西部低地はウラル山脈より西側でヨーロッパに属する。国の南部は東西にわたり砂漠が発達し、アラル海の縮小に表されるように灌漑が重要な課題である。アラル海東方にはロシアが租借するバイコヌール宇宙基地がある。カスピ海にはテンプレート:仮リンクが突き出しており(マンギスタウ州)、アクタウは唯一の不凍港を擁する。
行政区画
テンプレート:Main カザフスタンは以下の14州(Oblys)に区分されている。
- 州
- 北カザフスタン州
- アクモラ州
- パブロダール州
- コスタナイ州
- カラガンダ州
- 東カザフスタン州
- アルマトイ州
- ジャンブール州
- 南カザフスタン州
- クズロルダ州
- アクトベ州(アクチュビンスク)
- 西カザフスタン州
- アティラウ州
- マンギスタウ州
- 政令指定地区
- アスタナ
- アルマトイ
- バイコヌール
主要都市
ロシア租借地
政令指定地区バイコヌールはロシア連邦がカザフスタンより年間1億1500万USドルの契約で町全体を租借し、事実上の行政区として扱っている。これは、同市にある、ソ連時代の1955年に建設されたバイコヌール宇宙基地がロシアにとって今なお重要な宇宙開発施設であることに起因する。このためバイコヌールの行政権はロシアが握っており、例えば市長は、ロシア大統領が推薦し、カザフスタン大統領が承認することで任命される。また、ロシアの法律が適用され、通貨もカザフスタンのテンゲではなくロシアのルーブルが流通している。この租借契約は1994年に合意され、2050年まで続く見込みである。
政治
カザフスタンの国家元首は、直接選挙により選出される任期5年の大統領である。大統領は、政府を組閣し、閣僚、最高裁判所長、検事総長、国立銀行総裁を任免し、国民投票を実施し、非常事態を導入する権限を有する。1992年5月から軍最高司令官であり、同年7月からは国家保安委員会が直属している。1993年12月、最高会議は解散させられ、1995年3月、憲法裁判所は1994年3月実施の選挙が違憲であったとの決定を下した。その後は議会不在のままである。
首相は、議会の同意により大統領が任命する。閣僚は、首相の提案により大統領が任命する。政府は、大統領の任期満了と共に総辞職し、新大統領により組閣される。閣僚の70%は人口の約65%を占めるカザフ人。 テンプレート:See also
立法府は、下院(マジリス)と上院(セナト)の二院制である。下院は定数107議席。うち98議席が比例代表制による直接選挙で選出され、9議席はカザフスタン民族会議により選出される。議席を得るには、7%障壁を超える必要がある。上院は定数47議席。各州、旧首都、首都の地方議会から2名ずつ選出され、15名は大統領が個人的に任命する。1995年3月には、民族間関係を調整するカザフスタン民族総会が設置されている。上院が6年、下院が5年に延長された。
大統領
テンプレート:Main ソビエト連邦カザフ・ソビエト社会主義共和国共産党第一書記・同共和国大統領(それぞれ1989年、1991年に就任)からそのまま1991年12月にカザフスタン共和国大統領に就任したヌルスルタン・ナザルバエフ大統領が、独立以来一貫して大統領の地位にあり、強力なリーダーシップを発揮している。1995年4月に大統領任期延長し、2000年12までとしたが、同年8月には、新憲法草案が国民投票にかけられ、圧倒的賛成で可決された。この1995年憲法はカザフスタンを大統領制国家であると規定し、大統領に大幅な権限を与えた。そして、最高会議を廃止して二院制議会を新設し、1995年12月に議会選挙を実施したが、反対派はほとんどボイコットした。1998年10月に憲法改正が行われたが、大統領の任期は5年から7年に延長され、65歳までとされていた候補者の年齢制限が撤廃された。2007年には終身大統領となった。
主要政党
テンプレート:Main 与党:ヌル・オタン(輝く祖国)。</br> 野党:アク・ジョル(明るい道)、カザフスタン共産党。
軍事
テンプレート:Main カザフスタンは、旧ソ連軍中央アジア軍管区の部隊を継承した。
現在のカザフスタン共和国軍は、一般任務軍(陸軍)、防空軍(空軍)、国境警備軍の3軍種から成る。大統領は、3軍の最高司令官であり、空中機動部隊及び空挺部隊、並びに大統領親衛隊を直轄する。軍政単位としては、南部、西部、東部及び中央の4個軍管区が設置されている。一般任務軍は、2個軍、2個師団、5個旅団から成り、46,800人。防空軍は、19,000人。
徴兵制度が存在し、兵役の義務は18歳からの2年間とされている。
国際関係
全般
隣国であり旧ソ連時代には同じ国であったロシアとは政治的にも経済的にも密接な関係を持つ他、近隣諸国だけでなくアジア各国やヨーロッパ各国とも友好関係を保っている。また中国とも友好関係である。上海協力機構(SCO)に加盟するほか、中央アジア諸国連合を提唱、さらに2010年の欧州安全保障協力機構の議長国に選出されているなど、積極的に国際機構への参加を図っている。
日本
日本とは互いに大使館を置く他、2006年8月には小泉純一郎首相が訪問するなど友好的な関係を保っている。
1998年、カザフスタン政府によって実施された新首都アスタナの設計についての国際指名コンペにおいて、日本の建築家・黒川紀章案が1位に選ばれ、その都市計画案に基づき開発が続けられている。[11]
経済
テンプレート:Main GDPは1680億ドル、1人当たりGDPは10,820ドル、失業率は5.7%(いずれも2011年)であり、独立直後の経済状況に比べ、著しい飛躍を遂げている。この経済成長は、鉱物資源の輸出によるものであり、天然資源依存型である。また、一人当たりGDPが10,000ドル以上になり(2008年頃)、マレーシアに並ぶ中進国となった。
通貨はテンゲである。
石油産業
石油が豊富で人口が過剰でないために、中国のウイグル自治区、ウズベキスタン、キルギスと物価で差をつけている。
鉱業
カザフスタンは鉱物資源に恵まれている。例えば、採掘量が世界第10位以内に達する地下資源が9つも存在する(2002年時点)。エネルギー資源では石炭とウランが有望。輸出品目も地下資源とその加工品が7割を占める。原油(49.4%)、鉄鋼(12.0%)、銅(7.5%)という状況である。
有機鉱物資源では、石炭(7218万トン、世界第10位、世界シェア1.9%)が優位である。品質が高いため同国で産出する鉄と組み合わせて鉄鋼を生産している。燃料に向く低品質の亜炭(261万トン)は少ない。原油(3606万トン)の産出量は世界シェア1.1%に達する。天然ガスは453千兆ジュールと多くはない。
金属鉱物資源の採掘量、世界ランキング、世界シェアは以下の通りである。
- 亜鉛鉱(39万トン、世界第7位、世界シェア4.7%)
- ウラン鉱(3300トン、世界第3位、世界シェア9.2%)
- 金鉱(27トン、世界シェア1.1%)
- 銀鉱(892トン、世界第9位、世界シェア4.5%)
- クロム鉱(102万トン、世界第2位、世界シェア17.6%)
- コバルト鉱(300トン)
- 鉄鉱(870万トン、世界シェア1.5%)
- 銅鉱(49万トン、世界第10位、世界シェア3.6%)
- 鉛鉱(4万トン、世界シェア1.4%)
- ニッケル鉱(3000トン)
- ボーキサイト(438万トン、世界第9位、世界シェア3.0%)
- マンガン鉱(44万トン、世界第8位、世界シェア5.4%)
このほか、非金属鉱物資源として、硫黄(210万トン、世界第7位、世界シェア3.6%)とリン鉱石(1万7000トン)を採掘している。
交通
鉄道
旧ソ連の一部であったカザフスタンの鉄道は1520mm広軌であるために今でも頻繁に国際列車が運行され、ソ連時代からのエレクトリーチカや客車が各国で使用されており、旧ソ連政府の影響により電化率は高い。カザフスタンの1520mmと中国の1435mmとの間で軌間変換をするために、カザフスタン鉄道は新型車両としてスペインのタルゴの軌間可変車両を導入した。しかし、近年カザフスタンでは2006年より標準軌 (1435mm) への改軌や新線建設の計画が進み、4年ほどで建設が終わるとされていたが、現在は標準軌の計画は既に挫折している。[12]
国民
国土の大部分は砂漠や乾燥したステップで占められており、そのため人が住めるところは少なく、人口の大半は首都と一部の地域に偏在している。人口も1600万人程度であり、2010年の統計では、世界第61位となっている。
住民
カザフ人が63.1%、ロシア人が23.7%、ウズベク人が2.9%、ウクライナ人が2.1%、ウイグル人が1.4%、タタール人が1.3%、ヴォルガ・ドイツ人が1.1%、その他4.5%となっている。(2009年時点)。以前はカザフ人よりロシア人の割合の方が高かったが、独立以降多くのロシア人が転出し、徐々にカザフ人の割合が増加し逆転した。[13]
言語
憲法ではカザフ語が国家語、カザフ語とロシア語が公用語と定められている。現在、カザフスタンにおいてカザフ語を話すことができるのは全人口の64.4%である。一方、ロシア語は95%の住民が使用しており、とりわけ都市部においては、ロシア語を母語とし、カザフ語を全く話せないカザフ人も多い。
政府はメディアを通してカザフ語の普及を図っているが、効果は現れていない。ロシア語は異民族間の交流語として、カザフ語と同様の地位を与えられている。そのため現地政府は、外国映画にカザフ語での吹き替えを義務付ける文化法改正法案を議会で審議している。カザフスタンはロシア系住民が約30%であり、ロシア以外では最多であるカザフスタンで今後ロシア映画が原語で上映できなくなる可能性がある。
宗教
2009年の調査では、イスラム教が70.2%、キリスト教が26.2%、無宗教が2.8%となっている[14]。
教育
義務教育は6歳からの8年間と定められている。国民の識字率は国民全体の98.4%となっている。
文化
テンプレート:Main 旧ソ連領中央アジアの中でも、もっとも文化的にヨーロッパ化された国と言える。ロシア語話者も多く、イスラム教徒であっても戒律を厳格に守る者は少ない。
食文化
文学
音楽
世界遺産
テンプレート:Main カザフスタン国内には、国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が1件存在する。
祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考 1月1日 元旦 3月8日 国際婦人デー 3月22日 ナウルズ(新年) 5月1日 民族同調記念日 5月9日 戦勝記念日 8月30日 憲法記念日 10月25日 共和国の日 12月16日-12月17日 独立記念日 スポーツ
一般的な競技
1991年の独立時よりアジアオリンピック評議会に加盟している。独立後初の大型国際大会となった1994年アジア競技大会では中華人民共和国、日本、韓国に次ぐ金メダル数で第4位となり、以降の夏季アジア競技大会では金メダル数4位の座を維持。1996年アジア冬季競技大会で日本、韓国を上回る14個の金メダルを獲得したように、アジアでの競技レベルは全般に高い。2011年にはアスタナおよびアルマトイで冬季アジア競技大会が開催された。
サッカー
テンプレート:See also 地理的にはアジアに属し、カザフスタンサッカー協会は独立当初はアジアサッカー連盟(AFC)に加盟したものの、2002年1月1日をもってAFCを脱退し、欧州サッカー連盟(UEFA)に加入した。その為、FIFAワールドカップや欧州選手権の本大会・予選を通じてUEFAに加盟の有力国と対戦する機会が多い。またカザフスタンの国内リーグ優勝チームはUEFAチャンピオンズリーグ予選に出場できる。
ロードレース (自転車競技)
2006年6月から、首都アスタナの名義で、国際自転車競技連合が主宰するUCIプロツアーに出場する資格を有するチームのスポンサーになる。資金はカザフスタンの主要5企業が出資している。スペインで開かれるブエルタ・ア・エスパーニャでは、カザフスタン人のアレクサンドル・ヴィノクロフが2006年度の総合優勝、アンドレイ・カシェキンも総合3位となった。テンプレート:Main
脚注
参考資料
- 歴史の項
- 松平千秋訳『世界古典文学全集 10 ヘロドトス』(筑摩書房、1988年、ISBN 4480203109)
- 山田信夫『北アジア遊牧民族史研究』(東京大学出版会、1989年、ISBN 4130260480)
- ストラボン(訳:飯尾都人)『ギリシア・ローマ世界地誌Ⅱ』(龍溪書舎、1994年、ISBN 4844783777)
- アッリアノス(訳:大牟田章)『アレクサンドロス大王東征記 上』(岩波書店、2005年、ISBN 4003348311)
- 小松久男『世界各国史4 中央ユーラシア史』(山川出版社、2005年、ISBN 463441340X)
- 岩村忍『文明の十字路=中央アジアの歴史』(2007年、講談社)
関連項目
外部リンク
- 政府等
- カザフスタン共和国政府 テンプレート:Kk iconテンプレート:Ru iconテンプレート:En icon
- カザフスタン大統領府 テンプレート:Kk iconテンプレート:Ru iconテンプレート:En icon
- カザフスタン大使館 テンプレート:En icon
- カザフスタン国立音楽アカデミー
- 日本政府
テンプレート:Navbox テンプレート:Navbox テンプレート:Navbox テンプレート:Navbox テンプレート:上海協力機構
テンプレート:カザフスタン関連の項目- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ ヘロドトス『歴史』巻4-13
- ↑ ストラボン『地理誌』、アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記』
- ↑ 『史記』(大宛列伝)、『漢書』(西域伝)、『後漢書』(西域伝)、『三国志』(裴注『魏略』西戎伝)
- ↑ 『魏書』(列伝第九十 西域)、『北史』(列伝第八十五 西域)
- ↑ 松田壽男『古代天山歴史地理学研究』
- ↑ 岩村 2007,p118
- ↑ 山田信夫『北アジア遊牧民族史研究』
- ↑ 小松 2005,p166-167
- ↑ http://www.kisho.co.jp/page.php/120 カザフスタン新首都アスタナ計画
- ↑ [2]
- ↑ https://en.wikipedia.org/wiki/Ethnic_demography_of_Kazakhstan Ethnic demography of Kazakhstan|From Wikipedia, the free encyclopedia
- ↑ The results of the national population census in 2009 (The Agency of Statistics of the Republic of Kazakhstan) http://www.eng.stat.kz/news/Pages/n1_12_11_10.aspx