エフタル

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テンプレート:特殊文字 テンプレート:基礎情報 過去の国 エフタル英語:Hephthalite、パシュトー語:هپتالیان)は、5世紀6世紀にかけて中央アジアに存在した遊牧国家。名称は史料によって異なり、インドではフーナ(Hūna)シュヴェータ・フーナ (白いフン)、サーサーン朝ではスペード・フヨーン(白いフン),ヘテル(Hetel),ヘプタル(Heptal)、東ローマ帝国ではエフタリテス(Ephtalites)、アラブではハイタール(Haital)、アルメニアではヘプタル(Hephtal),イダル(Idal),テダル(Thedal)と呼ばれ[1]、中国史書ではテンプレート:JIS2004フォント[2](えだつ、Yàndā),囐噠(さつだつ、Zádā)[3]テンプレート:JIS2004フォント(ゆうたつ、Yìdá)[4]テンプレート:JIS2004フォント(ようてん、Yìtián)[5]などと表記される。また、「白いフン」に対応する白匈奴の名でも表記される。

概要

5世紀中頃に現在のアフガニスタン東北部に勃興し、周辺のクシャーナ朝後継勢力(テンプレート:仮リンク)を滅ぼしてトハリスタンバクトリア)、ガンダーラを支配下に置いた。これによりサーサーン朝と境を接するようになるが、その王位継承争いに介入してサーサーン朝より歳幣を要求するほどに至り、484年には逆襲をはかって侵攻してきたサーサーン朝軍を撃退するなど数度に渡って大規模な干戈を交えた。さらにインドへと侵入してグプタ朝を脅かし、その衰亡の原因をつくった。

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エフタルの最大版図
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5世紀、エフタルと周辺国。Khanate of the Juan-Juan=柔然、Yuehban=悦般、Hepthalite Khanate=エフタル、Sassanid Persian Empire=サーサーン朝

6世紀の前半には中央アジアの大部分を制覇する大帝国へと発展し、東はタリム盆地ホータンまで影響力を及ぼし、北ではテュルク系鉄勒と境を接し、南はインド亜大陸北西部に至るまで支配下においた。これにより内陸アジアの東西交易路を抑えたエフタルは大いに繁栄し、最盛期を迎えた。

しかしその後6世紀の中頃に入ると、鉄勒諸部族を統合して中央アジアの草原地帯に勢力を広げた突厥の力が強大となって脅かされ、558年に突厥とサーサーン朝に挟撃されて10年後に滅ぼされた。エフタルの支配地域は、最初はアム川を境に突厥とサーサーン朝の間で分割されたが、やがて全域が突厥のものとなり、突厥は中央ユーラシアをおおいつくす大帝国に発展した。

名称

新唐書』西域伝下において、「もともとテンプレート:JIS2004フォント(えだつ)とは王姓であり、嚈噠の後裔がその姓をもって国名としたため、のちに訛ってテンプレート:JIS2004フォント(ゆうたつ)となった」とあり[6]、エフタルの語源はその王姓が元となったという。

また、インド(グプタ朝)やペルシア(サーサーン朝)ではシュヴェータ・フーナ、スペード・フヨーンなど、“赤いフンや白いフン”を意味する呼び名で呼んでいた。

歴史

起源

エフタルの起源は東西の史料で少々異なり、中国史書では「金山(アルタイ山脈)から南下してきた」とし、西方史料の初見はトハリスタン征服であり「バダクシャン(パミール高原ヒンドゥークシュ山脈の間)にいた遊牧民」としている。 [7]

中央アジア・インドを支配

410年からトハリスタン、続いてガンダーラに侵入(彼らはテンプレート:仮リンクとして知られるようになる。)。

425年、エフタルはサーサーン朝に侵入するが、テンプレート:仮リンク(在位:420年 - 438年)により迎撃され、オクサス川の北に遁走した。

エフタル[8]テンプレート:仮リンク(在位:415年頃 - 455年)のグプタ朝に侵入し、一時その国を衰退させた。また、次のテンプレート:仮リンクの治世(435年 - 467年もしくは455年 - 456年/457年)にも侵入したが、スカンダグプタに防がれた。

サーサーン朝のテンプレート:仮リンク(在位:459年 - 484年)はエフタルの支持を得て王位につき、その代償としてエフタルの国境を侵さないことをエフタル王のアフシュワル(アフシュワン)に約束したが、その後にペーローズ1世は約束を破ってトハリスタンを占領した。アフシュワルはペーローズ1世と戦って勝利し、有利な講和条約を結ばせ、ホラーサーン地方を占領した。484年、アフシュワルはふたたび攻めてきたサーサーン朝と戦い、この戦闘でペーローズ1世を戦死させる。[9]

エフタルは高車に侵攻し、高車王の阿伏至羅の弟である窮奇を殺し、その子の弥俄突らを捕える。

508年4月、エフタルがふたたび高車に侵攻したので、高車の国人たちは弥俄突を推戴しようと、高車王の跋利延を殺し、弥俄突を迎えて即位させた。

516年、高車王の弥俄突が柔然可汗醜奴(在位:508年 - 520年)に敗北して殺されたため、高車の部衆がエフタルに亡命してきた。

ガンダーラ北インドを支配したエフタルでは、その王テンプレート:仮リンク(Mihirakula、在位512年 - 528年頃)の代に、大規模な仏教弾圧が行なわれた[10]。(インドにおける仏教の弾圧#ミヒラクラ王の破仏参照)

520年北魏の官吏である宋雲沙門恵生は、インドへ入る前にテンプレート:仮リンク付近でエフタル王に謁見した[11]

523年、柔然可汗の婆羅門は姉3人をエフタル王に娶らせようと、北魏に対して謀反を起こし、エフタルに投降しようとしたが、北魏の州軍によって捕えられ、洛陽へ送還された。

北魏太安年間(455年 - 459年)からエフタルは北魏に遣使を送って朝貢するようになり、正光520年 - 525年)の末にも師子を貢納し、永熙年間(532年 - 534年)までそれが続けられた。

533年頃、マールワーテンプレート:仮リンクがエフタル王ミヒラクラを破る。ミヒラクラはカシミールに逃亡した。

546年552年に、エフタルは西魏に遣使を送ってその方物を献上した。

衰退と滅亡

558年、エフタルは北周に遣使を送って朝献した。この年、突厥の西方を治める室点蜜(イステミ)がサーサーン朝のホスロー1世(在位:531年 - 579年)と協同でエフタルに攻撃を仕掛け(テンプレート:仮リンク)、徹底的な打撃を与えた。これによってエフタルはシャシュ(石国)、フェルガナ(破洛那国)、サマルカンド(康国)、キシュ(史国)を突厥に奪われてしまう。

567年頃までに室点蜜はエフタルを滅ぼし、残りのブハラ(安国)、ウラチューブ(曹国)、マイマルグ(米国)、クーシャーニイク(何国)、カリズム(火尋国)、ベティク(戊地国)を占領した。

大業年間(605年 - 618年)にエフタルは中国に遣使を送って方物を貢納した。

エフタル国家の滅亡後も、エフタルと呼ばれる人々が存続し、588年テンプレート:仮リンク619年テンプレート:仮リンクに参戦していたが、8世紀ごろまでに他民族に飲み込まれて消滅した[12]

習俗

ファイル:HephthaliteCoin.jpg
インド=エフタル ナプキ・マルカ(Napki Malka)王(アフガニスタン/ガンダーラ、c.475-576)の貨幣用合金ドラクマ

中国の史書によると、刑法・風俗は、突厥とだいたい同じで遊牧生活だが、婚姻において兄弟共通でひとりの妻を娶り、もし夫に兄弟がいなければ、その妻は一つの角帽をかぶり、夫に兄弟がいれば、その人数に応じて角帽が増えるという。また、エフタル人の髪は切り揃えられ、首飾り(纓絡:ようらく)をしていたという。

プロコピオスの『戦史』では、フンの一派であるが遊牧民ではなく、生活様式も同族のものとは似ていない、としている。

政治体制

王都は拔底延城といい、中国史書では「おそらく王舎城」としている。その都城の直径は十数里あり、多くの寺塔があり、金で装飾されている。王位は必ずしも子に継承しない。統治機構は他の遊牧国家と同様、支配者層である遊牧民のエフタルが被支配者層である遊牧民や農耕民族から税を徴収していたものと思われる。

言語系統

中国史書では「大月氏の同種もしくは高車(テュルク系)の別種[13]で、習俗は吐火羅と同じくする[14]」と記し、また「元々の出自を車師または高車または大月氏の同種」とも記す、加えて「言語は蠕蠕(東胡系)、高車及び諸胡(テュルク系、東胡系、チベット系)と異なる」と記しており[15]、研究者の見解も様々ある。

エフタル≠嚈噠説

中国の王德龍によると「漢籍上の嚈噠は学者たちから言われている西史上のHephthalitesではなく、この二つの種族はまったく違うものである。西史上のHephthalitesは中国古代史書《魏書》中の大月氏寄多羅の後代であり、なおかつ《魏書》中の大・小月氏は漢代の小月氏の後代である。《魏書》中の大・小月氏は約4世紀末か5世紀の初期に中央アジアに南下した。Hephthalitesは文字を持ち、なおかつ仏教を信仰する種族である」とし、エフタルと嚈噠が異なる民族であると説いている[17]

フィクションにおけるエフタル

日本のアニメーター宮崎駿の作品「風の谷のナウシカ」に登場する「古エフタル王国」はエフタルのこと、またはそれをモデルにしているといわれる[18]。なお同作品における「トルメキア第四皇女クシャナ」はインド北部に生まれたクシャーナ朝との関連が指摘されている[19]

脚注

テンプレート:Reflist

参考資料

関連項目

テンプレート:インドの王朝
  1. 『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』p87
  2. 魏書』、『北史』、『新唐書』(テンプレート:JIS2004フォント
  3. 周書
  4. 隋書』、『新唐書』
  5. 『新唐書』
  6. 『新唐書』列伝第一百四十六下 西域下「嚈噠,王姓也,後裔以姓為國,訛為挹怛,亦曰挹闐。」
  7. 岩村 2007,p118
  8. インドの史料では「フーナ hūna」と記されている。
  9. B・ガフーロフ(Bobojon.G.Gafurov)『タジク人(Tadzhiki)』(モスクワ、1972年
  10. 洛陽伽藍記
  11. 宋雲行記
  12. 岩村忍は『文明の十字路=中央アジアの歴史』において現在バダクシャンからクンドゥーズにかけて住んでいるヤフタリという種族がエフタルの子孫であるとしている。
  13. 魏書列伝90、新唐書列伝146下など
  14. 通典辺防9
  15. 魏書列伝九十、通典辺防9
  16. ヴィレム・フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史と文化』
  17. 王德龍《‘魏书’の月氏と嚈哒とエフタルについて》(别府大学史学研究会《史学论丛》第三十二号) 王德龙《Hephthalites是嚈哒吗?》,《史学月刊》2007年增刊
  18. 叶精二『宮崎駿全書』フィルムアート社、2006年、46頁
  19. 叶(2006)同書。