イエズス会

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イエズス会の紋章
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イグナチオ・デ・ロヨラ
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創設メンバーの一人フランシスコ・ザビエルは日本に布教したことで知られる。神戸市立博物館蔵。

イエズス会(イエズスかい、テンプレート:Lang-la)は、キリスト教カトリック教会の男子修道会宗教改革以来、イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれた。このような軍隊的な呼び名は創立者イグナチオ・デ・ロヨラが修道生活に入る以前に騎士であり、長く軍隊ですごしたことと深い関係がある。現代では六大陸の112カ国で活動する2万人の会員がいる。これはカトリック教会の男子修道会としては最大のものである。イエズス会員の主な活動は高等教育と研究活動といった教育活動であり、宣教事業や社会正義事業と並んで活動の三本柱となっている。

イエズス会の保護者は聖母マリアの数ある称号の一つである「道の聖母テンプレート:Enlink」。イエズス会の指導者は終身制で総長とよばれる。現在の総長はアドルフォ・ニコラス師である。会の総本部はローマにあり、かつて本部がおかれていたジェズ教会テンプレート:It)は歴史的建築物となっている。略称はS.J.であり、中国や古くの日本では「イエス」の漢訳が耶穌であることから耶穌会(やそかい)とも呼ばれた。

イエズス会の歴史

創設

1534年8月15日イグナチオ・デ・ロヨラパリ大学の学友だった6名の同志(スペイン出身のフランシスコ・ザビエルアルフォンソ・サルメロンディエゴ・ライネスニコラス・ボバディリャポルトガル出身のシモン・ロドリゲス、サヴォイア出身のピエール・ファーヴル)がパリ郊外のモンマルトルの丘の中腹のサン・ドニ聖堂(現在のサクレ・クール聖堂の場所にあったベネディクト女子修道院の一部)に集まり、ミサにあずかって生涯を神にささげる誓いを立てた。この日がイエズス会の創立日とされている。彼らは清貧・貞潔の誓いとともに「エルサレムへの巡礼と同地での奉仕、それが不可能なら教皇の望むところへどこでもゆく」という誓いを立てた。

「モンマルトルの誓い」のメンバー(7人)

1537年、一行はイタリアへ赴き、教皇から修道会の認可を得ようとした。当時の教皇パウルス3世は彼らの高い徳と学識を見て、まず彼らの司祭叙階を認めた。ファーヴルはすでに司祭叙階されていたため、他の6名が1537年6月24日ヴェネツィアで叙階を受けた。オスマン帝国神聖ローマ帝国カール5世の間で行われていた争いのために地中海を渡ってエルサレムに赴くことができなかったため、彼らはとりあえずイタリア半島にとどまって説教をしながら、奉仕の業に専念した。

1538年の10月、イグナチオはファーヴルとライネスの二人を連れて再びローマを訪れ、会憲の許可を願った。審査した枢機卿会の面々はほとんどが好意的にこれを評価したため、教皇パウルス3世は1540年9月27日回勅『レジミニ・ミリタンティス』(Regimini Militantis) でイエズス会に正式な認可を与えた。このとき、与えた唯一の制限は会員数が60名を超えないようにということであった。この制限も1543年5月14日の回勅『インユンクトゥム・ノビス』(Injunctum Nobis) で取り払われた。イグナチオは会の初代指導者(総長)に選ばれ、会員たちをヨーロッパ全域に学校や神学校設立のために派遣した。

会が発展するに伴ってイエズス会の活動分野は三つに絞られていった。第一は高等教育であり、ヨーロッパ各地で学校設立の願いを受けてイエズス会員は引く手あまたであった。イエズス会員は神学だけでなく古典文学にも精通していることが特徴であった。第二の活動分野は非キリスト教徒を信仰に導く宣教活動であった。第三はプロテスタントの拡大に対するカトリックの「防波堤」になることであった。イエズス会員の精力的な活動によって南ドイツとポーランドのプロテスタンティズムは衰退し、カトリックが再び復興した。

イグナチオが1554年に改定した会憲では、イエズス会が総長をトップとする組織であることが明記され、教皇と会の長上への絶対的な従順を会員に求めた(イグナチオは「死人のごとき従順」(perinde ac cadaver) という言葉を用いている)。彼の座右の銘はイエズス会の変わらぬモットーとなった。それは「神のより大いなる栄光のために」(Ad Majorem Dei Gloriam) である。これは「どんな活動でもよい意志をもって精力的におこなえばかならず神の国のためになる」という精神を表している。

初期の活動

イエズス会が創立されたのは対抗改革(カトリック教会の組織を建て直してプロテスタントの教勢拡大を食い止めようとした運動)の始まる直前であった。「イエズス会がプロテスタントに対抗して創設された」という言い方は不正確だが、ローマ教皇に対する忠実というイエズス会の精神から、会員たちは活動を通して人々にカトリック信仰を堅持させることに成功した。あくまで誇張した表現ではあるが、イグナチオは教皇への忠実を以下のように表現する。

「自分にとって黒に見えても、カトリック教会が白であると宣言するならそれを信じよう」

この言葉は一見、カトリック教会に対する彼の盲目的な服従を示しているようだが、深く考えればイグナチオにとって教会の宣言したことというのはそれほど重要なものでなく、むしろそれ以上に自分自身の中の霊の動きのほうが大切だということの表明ともとれる。

教皇への服従を唱えながらも、イグナチオと初期の会員たちは当時のカトリック教会には改革と刷新の必要があることを十分に理解していた。イエズス会員たちはプロテスタントへの攻撃などという表面的なことでなく、まずカトリック教会の内部に目を向けることの重要性を認識しており、教会にはびこる汚職、不正、霊的倦怠を激しく批判した。その結果、教皇への忠誠を誓うイエズス会員たちが教皇や教会の高位聖職者たちと揉め事を起こすという皮肉な事態に陥ることもあった。

イグナチオによれば、カトリック教会の改革の基本は一人ひとりの内的改心にあった。イエズス会員たちは個人の改心のための方法としてイグナチオの編み出した霊的指導いわゆる「霊操」を用いた。霊操は沈黙のうちに行う一ヶ月の黙想のプログラムで、これを授かるものは毎日異なるテーマについて黙想し、司祭による定期的な指導を受けながら、神が自分に望まれていることは何かを考えていく。霊操は、清めから照らし、統一へとすすむヨハネ・カッシアヌスと砂漠の教父たち以来の神秘主義の伝統にのっとっている。イグナチオの霊操は、神秘主義の黙想の伝統に即しながら、一般の人が実生活の中で行えるように、さらにはカトリック教会の内的刷新に貢献できるようにデザインされていることに意義がある。

ルネサンス後期におけるイエズス会の意義は、世界宣教だけでなく、主要な任務として大学と高等教育機関の運営に積極的に取り組んだことにある。1556年のイグナチオの逝去時までに、イエズス会はすでに三つの大陸で74の大学を運営していた。自由教育のさきがけとして知られるイエズス会の教育方針は、ルネサンスの人文主義者が発展させた当時の新潮流である古典研究とカトリック教会で長年にわたって研鑽されてきたスコラ学を無理なく融合させたものとして大きな意味を持っていた。世界のイエズス会の統一教育指針となった「ラツィオ・ストゥディオールム」(学事規定)は信仰教育だけでなくラテン語ギリシア語および古典文学、詩文、哲学、非ヨーロッパ語、科学、芸術の学習を課した。

それだけでなく、イエズス会学校ではその地域特有の言葉の文学および修辞学の学習を奨励した結果、各国における法律家や官公吏の重要な養成施設となった。教育事業によってイエズス会はポーランドのようなプロテスタントが急速に普及していた地域をカトリックに回帰させることになった。現代でも世界100カ国以上にイエズス会の経営する学校がある。目に見えるものや芸術を通して人間は神と出会えるというカトリック教会の伝統的思想に従い、イエズス会では儀式や装飾の利用が奨励された。美術や音楽の重視というのは当時のイエズス会員の際立った特質であった。

強い信念と深い教養を持ったイエズス会員は各国の王族から霊的指導者として招聘されたため、近代ヨーロッパの政治状況に大きな影響を与えることになった。また、イエズス会が聖務日課の共唱など当時の修道会で常識とされていたことを会員に課さなかったことで、会員たちはより自由な活動が可能になった。

イエズス会の発展

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イエズス会員と日本人(1600年頃)

イエズス会は当初から世界各地での宣教活動を重視し、優秀な宣教師たちを積極的に派遣した。もっとも有名な宣教師はフランシスコ・ザビエルである。彼は西インド植民地の高級官吏たちの霊的指導者になってほしいというポルトガル王の要請にしたがって1541年インドゴアへ赴いた(ゴアはアジアにおけるイエズス会の重要な根拠地となり、イエズス会が禁止になった1759年までイエズス会員たちが滞在していた)。ザビエルはインドで多くの信徒を獲得し、マラッカで出会った日本人ヤジローの話から日本とその文化に興味を覚えて1549年に来日。二年滞在して困難な宣教活動に従事した。彼は日本人へ精神的影響を与えるために中国の宣教が不可欠という結論にたどりつき、中国本土への入国を志したが、果たせずに逝去した。

日本でのイエズス会事業はその後、ルイス・フロイスグネッキ・ソルディ・オルガンティノルイス・デ・アルメイダといった優秀な宣教師たちの活躍で大きく発展した。日本人初のイエズス会士は薩摩国鹿児島県)出身のベルナルドで、彼は日本人初のヨーロッパ留学生としてポルトガルに渡り、1553年にリスボンで入会して修道士となった。1561年には琵琶法師であったロレンソ了斎が入会。有名な天正遣欧少年使節を計画したのはイエズス会の東洋管区の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノであった。

1580年大村純忠長崎の統治権をイエズス会に託したことは、長崎をイエズス会専用の港にすることで南蛮船がもたらす利益を独占しようとした大村純忠と、とにかく戦乱の影響を受けずに安心して使える港を探していたイエズス会の両者の利害の一致によるものであったが、スペイン・ポルトガルによる日本征服の第一歩ではないかと疑いの目をむけた豊臣秀吉1587年にこれを取り上げて直轄領とした。日本における宣教活動は大きな成果を得たが、最終的に江戸幕府による迫害によって宣教師と協力者たちは処刑・追放となり、正保元年(1644年マンショ小西の殉教を最後に日本人司祭も存在しなくなり、イエズス会は日本での活動を終えた。

アメリカ大陸におけるイエズス会の宣教活動はヨーロッパ諸国(特に広大な植民地を保持していたスペインとポルトガル)の利害とかかわってしまったため、内政干渉という口実でさまざまな議論を巻き起こすことになった。ドミニコ会やイエズス会は主として当時のアメリカ大陸でネイティブ・アメリカンの権利を主張し、奴隷制に抗議していたからである。イエズス会員はキリスト教徒になったインディオを他部族やヨーロッパの奴隷商人の襲撃から守るためブラジルパラグアイに「保護統治地」(Reducciones) をつくった。インディオを保護しようとするイエズス会員はスペインとポルトガルの奴隷商人およびそこから利権を得る政府高官に目障りであったため、のちにポルトガルからイエズス会への迫害が始まることになる。

マヌエル・ダ・ノブレガ (Manoel da Nóbrega) やジョゼ・デ・アンシエタ (José de Anchieta) は16世紀のブラジルでインディオ相手に宣教・教育事業を行いながら、いくつもの街をつくった。その中にはサンパウロリオデジャネイロなどのちに大都市になったものも含まれている。17世紀にはエウセビオ・キノヌエバ・エスパーニャ北部のソノラ砂漠に、「砂漠の白い鳩」と呼ばれその美しさが称えられているアリゾナ州ツーソン近郊の聖ザビエル伝道教会などの多くの伝道所を設立した。またエウセビオ・キノは当時だと信じられていたバハ・カリフォルニアが、半島であることを証明した。

中国におけるイエズス会の活動は典礼論争を生むことになり、後に問題の本質から離れてイエズス会への政治的攻撃の道具とされた。また、ヨハネス・グリューベル (Johannes Gruber) とアルベール・ドルヴィル (Albert d'Orville) は1661年に北京から青海湖を経てラサにたどりつき、同地に滞在後、カトマンズからアグラにいたった。彼らは初めてチベットの実情をヨーロッパに伝えたことで知られている。

宣教地で働くイエズス会員たちはその土地の文化や言語の学術的研究をすすめ、ヨーロッパに紹介した。たとえば1603年に発行された日葡辞書 (Vocabvlario da Lingoa de Iapam) は非常に画期的かつ浩瀚な内容で、現代においても17世紀の日本語の貴重な研究資料になっている。ほかにも南米ではトゥピ・グアラニ語辞典などもつくられている。

弾圧と復興

ヨーロッパ諸国がナショナリズムを強め、王権のもとに国をまとめていこうとしたとき、国境を越えて自由に活躍し、教皇への忠誠を誓うイエズス会の存在が目障りなものとなっていた。イエズス会への弾圧は18世紀になると急速に進み、ポルトガルがイエズス会員の国外追放を決めるとフランス、スペイン、ナポリ王国、両シチリア王国、パルマ公国もこれにならった。列強は教皇クレメンス13世にイエズス会を禁止するよう圧力をかけたが、教皇は頑として聞き入れなかった。だが、イエズス会を保護し続けたクレメンス13世が急逝し、次の教皇としてクレメンス14世が着座すると圧力はいっそう強まり、教皇はイエズス会をとるか、ヨーロッパ諸国と教皇庁との関係をとるかという究極の選択を迫られることになった。

このような経緯を経て1773年7月、クレメンス14世は回勅『ドミヌス・アク・レデンプトール (Dominus ac Redemptor)』を発してイエズス会を禁止した。ただロシアにおいて、イエズス会の貢献を高く評価していたエカテリーナ2世がイエズス会禁止の回勅の発布を拒否し、教皇も「列強の圧力に屈しはしたもののイエズス会を完全につぶすのはしのびない」と思っていたため、イエズス会はロシアにおいて細々と存続しつづけることができた。また、プロイセン王フリードリヒ2世も自国へのイエズス会士の亡命を許可し(彼は数年後、「我が国には、イエズス会士以外に学識のあるカトリック教徒はいない」とさえ言うようになる)、カトリック系の学校の教師として歓迎している。

1814年に教皇ピウス7世の小書簡『カトリケ・フィデイ』によってようやくイエズス会の復興が許可された。復興後のイエズス会は急激な成長を遂げた。そのことは多くの学校が19世紀に設立されたという事実からもわかる。たとえばアメリカ合衆国にある28のイエズス会大学のうち22はこの時期に創立されたか、あるいは他から引き取ったものである。弾圧を受けたことで、イエズス会の中で正統な権威というものに対するこだわりが強まったという指摘もある。もちろんこの指摘に対しては異論もあるが、概してイエズス会員には教皇への忠実という意識が強く存在し、19世紀にウルトラモンタニスム(教皇支持派)と呼ばれた人々の中に名を連ねたものも多く、第1バチカン公会議における教皇不可謬説の宣言の理論的枠組みをつくったものもいた。

スイスでは19世紀に起こったカトリック諸州とプロテスタント諸州の間の紛争の後、1848年憲法によってイエズス会の禁止が決定された。この禁止令は1973年5月20日に、国民投票によって廃止が決議されるまで存続した。

20世紀はイエズス会にとって発展と衰退の両面を示す世紀となった。カトリック教会全体の趨勢に従ってイエズス会員の数は1950年代にピークを迎え、以後ゆるやかに減少していった。会員が減少したにもかかわらず関連施設は増加し、協力者会の会員数も増えた。20世紀の著名なイエズス会員の中には「第2バチカン公会議のデザイナー」とも呼ばれるジョン・コートニー・マリがおり、彼は同会議の文書の一つ「信教の自由に関する宣言」(Dignitatis Humanae Personae) の草稿を書いたことで知られる。

現代のイエズス会

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第266代ローマ教皇フランシスコは史上初のイエズス会出身のローマ教皇である。
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教皇フランシスコの紋章。青のフィールドにイエズス会の太陽の紋章。それにマリアの象徴としての星とヨセフの象徴としてのテンプレート:仮リンク(ナルド)の果実を配している。前のベネディクト16世と同様に三重冠の代わりにミトラを戴いている。

イエズス会は会員数20000人、活動地域は六大陸に112カ国に及ぶ世界で二番目に大きいカトリックの男子修道会である。現在の総長はアドルフォ・ニコラス。会の活動は宣教・教育・社会正義など広範な分野にわたるが、特に有名なのは依然として高等教育である。世界各地にイエズス会の大学と高等教育機関があるが、現在この分野でもっとも活発なのはインドフィリピンであろう。各地のイエズス会学校は所在地の文化に適応した教育を行っているが、「人生のモデルとしてのキリスト、生涯教育のスタートとして知的・霊的教育」という共通の教育目標を掲げている。

ラテン・アメリカでは解放の神学の熱心な推進者として多くのイエズス会員が知られている。解放の神学は時に微妙な政治の領域へ踏み込む危険があるため、カトリック教会において物議をかもしてきた。教皇ヨハネ・パウロ2世は数度にわたってその行き過ぎを非難している。アルゼンチンでの「汚い戦争」と呼ばれる軍政期の1976年に解放の神学のイエズス会士2人がアルゼンチンに赴いたものの海軍による拉致拷問の受けることになった。当時のイエズス会アルゼンチン管区長のホルヘ・マリオ・ベルゴリオは政府要人と接触し2人の解放のための交渉をし実現にこぎつけた。しかしベルゴリオの管区長としての軍政下の「非政治的な態度」は彼が2013年にローマ教皇に選出されると賛否が分かれた。

ペドロ・アルペ総長時代、イエズス会の活動テーマとして「社会正義と社会的弱者への優先的配慮」が掲げられた。オスカル・ロメロ司教暗殺から10年ほどたった1989年11月16日、イエズス会の六司祭(イグナシオ・エラクリア、セグンド・モンテス、イグナシオ・マルティン・ベロ、ホアキン・ロペス・イ・ロペス、フアン・ラモン・モレノ、アマド・ロペス)と家政婦をしていたエルバ・ラモスとその娘セリア・マリセラ・ラモスがエル・サルバドル軍兵士によって中央アメリカ大学の構内で殺害された。彼らは貧者の保護者であったため、政府から破壊活動を扇動しているというレッテルを張られた上での殺害であった。この事件はイエズス会全体の社会正義運動に対する意識を高め、殺害した兵士たちがアメリカ合衆国のジョージア州の基地で訓練されたことからアメリカ軍に対する抗議運動へと発展することになった。

2002年にはボストンカレッジの総長でイエズス会員のウィリアム・リーハイがカトリック教会を「危機を超えて再生へ向かわせる」とうたった21世紀プログラムを発表した。その中ではカトリック教会の検討すべき課題として司祭の独身性、女性の役割、信徒の役割などがとりあげられた。

2006年2月2日、ペーター・ハンス・コルヴェンバッハ総長は、教皇の了承のもと、80歳を迎える2008年に総長を退任すると発表した。2008年1月5日からローマで行われる第35回イエズス会総会では新総長の選出が行われることとなった。イエズス会総長は終身制だが、自主的な退任も可能であると会憲に定められている。

2006年4月22日、イエズス会の守護者である聖母の祝日に教皇ベネディクト16世はローマを訪れたイエズス会員たちに対して贈った言葉で「イグナチオ・ロヨラ、フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーヴルのような優れた聖性の人を源流とするイエズス会の存在に感謝し」た。彼はロヨラについて「まさに神の人であり、祈りの人であった。彼の存在の根源にあったのは聖体への深い信心であった」と語った。

2008年1月15日、ローマで開かれていた第35回イエズス会総会において前述のコルヴェンバッハ総長の退任に伴い、日本の上智大学に学び同校において教鞭を執ったこともあるスペイン人会士アドルフォ・ニコラス神父を新総長に選出。広島での活動が有名で上智大学で教鞭もとっていた28代ペドロ・アルペ総長に続く、日本に縁の深い人物の総長就任となった。

2013年3月13日、2月28日のベネディクト16世の退位に伴い前日12日から開幕したコンクラーヴェにおいて、イエズス会出身のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿(ブエノスアイレス大司教)が第266代ローマ教皇に選出され、教皇フランシスコを名乗る。フランシスコは3月16日のメディア向け会見の席上、教皇名を選んだ際のエピソードとして、冗談と前置きした上で「『君はクレメンス15世を名乗るべきた。そうすれば(上記の通りイエズス会を弾圧した)クレメンス14世に仕返しができるじゃないか』と言われました」と述べ、出席者の笑いを誘った。フランシスコはまた教皇選出後、ニコラス総長から届いたイエズス会からの祝いのことばの返礼のために、ローマのイエズス会本部に直接電話している。

イエズス会員の養成

イエズス会員の養成は、霊的養成、知的養成、司牧活動(世界のいずれの場所でも働ける修道者としての)養成の三つの分野からなる。イグナチオ・ロヨラはルネサンス人であり、会員たちにどんな仕事でもすぐにできるようあらゆる分野での準備をしておくことを求めた。司祭養成には(当該人物の学歴にもよるが)通常10年から12年かかる。

養成にはいくつかの段階があるが、養成に先立っておかれるのが志願期という時期である。志願期にはその人物が霊的指導を受けながらイエズス会員にふさわしいかどうかが慎重に調べられる。志願期を終えた後でようやく養成の正式な第一段階である修練期に入る。二年間の修練期では修練院(修道院)で暮らしながら、霊操を受け、イエズス会の歴史や霊性について学ぶ。同時にイエズス会の使徒職を実際に手伝うことで体験する。修練が終わると、初誓願を立てる。誓願とはカトリック教会の修道者が立てる従順、清貧、貞潔の三つの誓いのことである。誓願を立てた後で神学の勉強を継続して司祭職を目指すか、修道士になるか選ぶことになる。修道士を目指すものはそれぞれの希望や適性に応じて専門性の高い勉学をおこなう場合も多い。

司祭職を目指す場合、以下のようなコースを進むことになる。まず、哲学と神学を学ぶ。次に実地課程という期間が2年あるいは3年間あり、実際のイエズス会の使徒職に従事する。その後さらに神学の勉強を深め、叙階を受ける。叙階後の数年間支部における活動に従事した後で、再び養成支部に戻り、第3修練と呼ばれる期間に入る。これは文字通り修練期の内容を実際の体験を通してさらに深める期間である。この期間に1ヶ月の霊操を再び授かることで霊的にもより深められる。

つねに世界のどこでも活動できることを求めるイエズス会において、現代の会員たちは英語の習得が求められている。英語が母語である会員にはスペイン語の学習が求められる。

イエズス会への批判

イエズス会は近代において、プロテスタント側のみならずカトリック側の人間からも、さまざまな陰謀の首謀者と目されることが多かった。「イエズス会員」を表す言葉(たとえば英語のJesuit)が、しばしば「陰謀好きな人、ずる賢い人」という意味でも用いられるのは、その名残である。イエズス会は「より大いなる善」のためなら、どんなことでもするというイメージをもたれており、そのため教皇や各国元首暗殺、戦争、政府の転覆など、あらゆる「陰謀」の犯人とされた。さらにイエズス会の組織の強力さとその影響力の大きさのゆえに、教皇バチカン市国を陰から操っているのは、実はイエズス会総長であるという噂が、まことしやかに吹聴されてきた。

フィクションの中でも、陰謀の枢軸としてのイエズス会がしばしば強調される。デュマの『ダルタニャン物語』では、イエズス会の管区長となるためには、世界を揺るがすほどの秘密を持っていなければならないとされ、フランス王ルイ14世に瓜二つの双子の弟がいるという重大な秘密を握っていた三銃士のひとりアラミスが管区長となる。管区長アラミスは、その秘密を用いてフランス王を双子の弟と取り換え、自らの傀儡にしようとするのである。イエズス会が陰謀の首謀者とされている代表例の一つと言えよう。

現代においても、イエズス会員について「過度に進歩的であり、特定の話題において教会の公式な教説に反することを説くことがある」と批判されることがある。たとえば、人工妊娠中絶手術、司祭独身性、同性愛奴隷貿易及び、解放の神学などの話題が、それにあたる。

著名なイエズス会員

ロヨラやザビエルなどの創立メンバー以外にも、イエズス会には多くの著名人がいる。

歴代総長一覧

  1. イグナチオ・デ・ロヨラ(1541年-1556年)
  2. ディエゴ・ライネス(1558年-1565年)
  3. フランシスコ・ボルハ(1565年-1572年)
  4. エヴェラール・メルキュリアン(1573年-1580年)
  5. クラウディオ・アクアヴィーヴァ(1581年-1615年) 総長としての在位期間は史上最長。
  6. ムツィオ・ヴィテレスキ(1615年-1645年)
  7. ヴィンチェンツォ・カラハ(1646年-1649年)
  8. フランチェスコ・ピッコローミニ(1649年-1651年)
  9. アレクサンドロ・ゴッディフレディ(1652年) 選ばれてすぐ逝去。
  10. ゴスヴィン・ニッケル(1652年-1664年)
  11. ジョバンニ・パオロ・オリヴァ(1664年-1681年)
  12. シャルル・ド・ノワイエル(1682年-1686年)
  13. ティルソ・ゴンサレス(1687年-1705年)
  14. ミケランジェロ・タンブリーニ(1706年-1730年)
  15. フランティシェク・レッツ(1730年-1750年)
  16. イニャツィオ・ヴィスコンティ(1751年-1755年)
  17. ルイジ・チェントゥリネ(1755年-1757年)
  18. ロレンツォ・リッチ(1758年-1773年) イエズス会が禁止になり、サンタンジェロ城に幽閉される。
  19. タデウス・ブルツォツォフスキ(1814年-1820年)
  20. ルイジ・フォルティス(1820年-1829年)
  21. ヤン・フィリップ・ローターン(1829年-1853年)
  22. ピーテル・ベックス(1853年-1887年)
  23. アントン・アンデルレディ(1887年-1892年)
  24. ルイス・マルティン(1892年-1906年)
  25. フランツ・ヴェルンツ(1906年-1914年)
  26. ヴロディミール・レドホフスキ(1915年-1942年)
  27. ヨハネス・バプティスタ・ヤンセンス(1946年-1964年)
  28. ペドロ・アルペ(1965年-1983年) 長く日本で働く。医学を学んでおり、原爆投下時の広島に居合わせたため、会員を率いて救護活動にあたった。
  29. ペーター・ハンス・コルヴェンバッハ(1983年- 2008年)
  30. アドルフォ・ニコラス(2008年-) 1936年スペイン生れ。過去に日本管区長を務め、上智大学で神学を教えていた。また、東アジアでの布教、司牧活動を長期間行った。

イエズス会関連施設

教育機関(世界)

イエズス会は高等教育を使命とし、長きにわたって世界中で高等教育機関を運営してきた。イエズス会学校は数多く著名な卒業生たちを輩出している。いくつかあげると以下のようなものがある。

教育機関(日本)

1908年に再来日したイエズス会は現在、日本で以下のミッションスクールを運営している。また、広島教区(岡山・広島・島根・鳥取・山口の中国地方5県)や東京の麹町教会(聖イグナチオ教会)などにおける司牧を担当している。

著名なイエズス会聖堂

ファイル:Il Gesu.jpg
ローマ・ジェズ教会

学校や教育機関だけでなく、イエズス会は世界各地で聖堂や教会を建立しており、歴史的に価値のあるものが多い。

  • 聖パウロ大聖堂跡 マカオ 16世紀に日本を追われた信徒たちが彫刻を施したことで知られるが、19世紀に火事で崩壊。ファサードのみ残る。
  • ジェズ教会 ローマ 元イエズス会本部聖堂
  • アテネオ・デ・マニラ大学付属聖堂 マニラ
  • ラ・サンティッシマ・トリニダド・デ・パラナ パラグアイ

参考書籍

  • 高橋裕史、『イエズス会の世界戦略』(講談社選書メチエ)、講談社、2006年
  • フィリップ・レクリヴァン、垂水洋子訳、『イエズス会 世界宣教の旅』(「知の再発見」双書53)、創元社、1996年
  • ウィリアム・バンガート、岡安喜代・村井則夫訳、上智大学中世思想研究所監修、『イエズス会の歴史』、 原書房、2004年
  • イエズス会日本管区編、『100年の記憶 イエズス会再来日から一世紀』、南窓社、2008年

関連項目

外部リンク

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