中浦ジュリアン

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左上の人物が中浦ジュリアン(右下の人物ともいわれている。)

中浦 ジュリアン(なかうらジュリアン、Julião, 永禄11年(1568年)頃 - 寛永10年9月20日1633年10月21日))は、安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタン天正遣欧使節の副使。ジュリアンは洗礼名イエズス会員でカトリック司祭

経歴

ローマに残っている資料によれば中浦ジュリアンの父は肥前国中浦の領主中浦甚五郎とされる。ジュリアンは司祭を志して有馬のセミナリヨに学んでいたが、当時のセミナリヨは信仰堅固である程度の家柄の子弟しか入学させなかったので、それなりの身分の家の出身であったと考えられる。

天正遣欧少年使節

テンプレート:Main そのころ、巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、キリシタン大名大村純忠と知り合い、財政難に陥っていた日本の布教事業を立て直しと、次代を担う邦人司祭育成のため、キリシタン大名の名代となる使節をローマに派遣しようと考えた。そこでセミナリヨで学んでいたジュリアンを含む4人の少年たちに白羽の矢が当てられ、ジュリアンは副使となった。

ローマへ向かった使節たちはローマ教皇グレゴリウス13世と謁見したが、ジュリアンだけは高熱のために公式の謁見式には臨めなかった。しかし「教皇様に会えば熱もたちどころに治る」と教皇への目通りを切望するジュリアンの願いを聞いたある貴人の計らいで、ジュリアンのみが教皇と非公式の面会を果たした。

なお、トスカーナ大公国舞踏会の時は、初めての出来事であった余りにジュリアンは終始緊張しており、いざ自分が踊る番になった時に思わず誘った相手が老婦人だったというエピソードも残る。

帰国

天正18年(1590年)、日本に戻ってきた彼らは翌天正19年(1591年)、聚楽第豊臣秀吉と謁見した。秀吉は彼らを気に入り、仕官を勧めたが、みなそれを断った。その後、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続けた。文禄2年(1593年)7月25日、他の3人と共にイエズス会に入会した。

慶長6年(1601年)には神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオに移った(この時点で千々石ミゲルは退会)。慶長13年(1608年)、伊東マンショ原マルティノ、中浦ジュリアンはそろって司祭に叙階された。

キリシタン弾圧と最期

司祭叙階後は博多で活動していたが、慶長18年(1613年)領主黒田長政がキリシタン弾圧に乗り出したため、そこを追われ長崎に移った。翌慶長19年(1614年)の江戸幕府によるキリシタン追放令の発布時は、殉教覚悟で地下に潜伏することを選んだ。ジュリアンは九州を回りながら、迫害に苦しむキリシタンたちを慰めていた。

二十数年にわたって地下活動を続けていたジュリアンであったが、寛永9年(1632年)ついに小倉で捕縛され、長崎へ送られた。そして翌寛永10年9月17日(1633年10月18日)、イエズス会員神父のジョアン・マテウス・アダミアントニオ・デ・スーザクリストファン・フェレイラドミニコ会員神父のルカス・デ・スピリト・サントと3人の修道士と共に穴吊りの刑に処せられた。穴吊りの刑では全身の血が頭にたまり、こめかみから数滴ずつ垂れていくため、すぐに死ねずに苦しみもがくという惨刑であった。あまりの苦しみに人事不省の状態でクリストファン・フェレイラが棄教し、ほかの人々は教えを捨てずにすべて殉教した。最初に死んだのは中浦ジュリアンで、穴吊りにされて4日目の9月20日10月21日)であった。65歳没。「わたしはローマに赴いた中浦ジュリアン神父である」と最期に言い残したといわれている。

なお、殉教から374年が経過した2007年平成19年)6月、ローマ教皇ベネディクト16世は、中浦ジュリアンを福者に列することを発表し、2008年(平成20年)11月24日に長崎で他の187人と共に列福式が行われた。天正遣欧少年使節の一員で福者になるのは彼が初めてである。

関連項目

テンプレート:イエズス会