宗教改革

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宗教改革(しゅうきょうかいかく)とは、16世紀中世末期)のキリスト教世界における教会体制上の革新運動である。ルター贖宥状批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、ローマ・カトリック教会からプロテスタントの分離へと発展した。

ルターによるルター教、チューリッヒのツヴィングリやジュネーヴのカルヴァンなど各都市による改革派教会ヘンリー8世によって始まったイギリス国教会などが成立した。また、当時はその他にアナバプテスト(今日メノナイトが現存)など急進派も力を持っていた。

時代背景

人文主義者による聖書研究が進んだために起こった「原始キリスト教精神に帰るルネサンス的運動」としてつかむ立場もある。すなわち、同じルネサンス的運動が、イタリアにおいては、ギリシア・ローマの古典文化への復帰として表れ、ドイツにおいては、聖書への復帰と言う形で現れたとする考え方である。特にアルプス以北の諸国において、ルネサンスの一部である人文主義の研究は、宗教上のものと結びつきやすかったとされる[1]

16世紀は近代国家の萌芽の時代で、それまで各地域からの教会税はバチカンの収益となっていた。近代国家の誕生とともに、各国は経済的な理由から自国の富がバチカンに流れることを可とせず、自国内に止めておくことをむしろ歓迎し、それぞれの地域の教会が、ローマと絶縁することを積極的に後押しした。

また、宗教改革の理念が拡大・浸透するうえでは、グーテンベルクによる印刷技術が大きな役割を果たした。

先駆的運動

イングランドのウィクリフ1320年頃 - 1384年)やベーメンのフスらの聖書主義者やサヴォナローラらが行ったローマ教会の批判が、宗教改革の先駆的運動ともみなされる。

1415年にフスはローマ教会によって処刑され、プロテスタント殉教者として知られている。1419年第一次プラハ窓外投擲事件を契機としてフス戦争1419年 - 1434年)が始まった。

1498年にサヴォナローラはローマ教会によって処刑され、プロテスタント殉教者として知られている。

近年では福音主義的・聖書主義的特性からワルドー派始祖のワルドー1140年 - 1218年)も宗教改革の先駆とも評される

宗教改革の経過

ドイツの宗教改革

ルターの宗教改革

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1517年、ルターはローマ教会に抗議してヴィッテンベルク市の教会に95ヶ条の論題を打ちつけた。これが、一般に宗教改革の始まりとされる。この贖宥状批判は大きな反響を呼んだ。宗教改革は各地に拡大し、ローマ教皇に嫌悪を抱いていた周辺の諸侯の支持を得た。当初ルターに新宗派を創設する意思はなく、あくまでもカトリック教会内部の改革を望んでいたのだが、対立は先鋭化し、1520年には教皇レオ10世はルターが自説の41か条のテーゼを撤回しなければ破門すると警告したが、ルターはこれを拒絶。1520年12月に回勅と教会文書をヴィッテンベルク市民の面前で焼いた。これを受けて1521年にルターは破門され、ここでルターはカトリックと完全に絶縁し、新しい派を立てることとなった。

騎士戦争

テンプレート:仮リンクあるいはドイツ騎士戦争1522年 - 1523年)は騎士フランツ・フォン・ジッキンゲンFranz von Sickingen)によって導かれた多くのプロテスタント人文主義者のドイツの騎士によるローマ・カトリック教会神聖ローマ帝国皇帝に対する反乱である。この反乱は、「貧しい男爵の反逆」とも呼ばれる。この反乱自体は短期間で鎮圧されたが、ドイツ農民戦争1524年 - 1526年)のさきがけとなった。

ドイツ農民戦争

ルターの説は主にドイツ北中部において大きな支持を受け、この地域の諸侯領において相次いで領邦教会が設立されるようになった。1524年には農奴制からの解放を求める農民も反乱を起こし、神学者であったミュンツァーがこれに呼応して反乱は拡大したが、闘争が激化するとルターはこれを批判するようになり、鎮圧された(ドイツ農民戦争)。

シュマルカルデン戦争

カトリックを支持する神聖ローマ皇帝と、ルター派の諸侯の間で戦闘が続いた。

1555年アウクスブルクの和議が結ばれ、諸侯はカトリックと新教(ルター派)を選択する権利が認められた。

宗教戦争

ドイツ、フランスなどではローマ・カトリック勢力とプロテスタント勢力が争い、凄惨な闘争を繰り広げた。

スイスの宗教改革

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ツヴィングリの宗教改革

ツヴィングリが公の場に出るのは、1522年になってからのことである。 チューリッヒ革命を巡って討論がされた。

カッペル戦争

カルヴァンの宗教改革

カルヴァンはすでにテンプレート:仮リンクによって宗教改革が始まっていたジュネーヴに立ち寄った際に、請われて留まりそこで活動するようになった。ルターの宗教改革が信仰の改革に徹していたのに対し、カルヴァンは礼拝様式と教会制度の改革に着手した。礼拝式文を整え、ジュネーブ詩篇歌を採用し、信仰告白・カテキズム・教会規則を整備し、教師職の他に(彼らの理解によれば)初代教会以来の信徒の職務である長老職と執事職を回復し、長老制の基礎を作った。またカルヴァンは聖餐を重んじ、毎回の礼拝でこれを執り行おうとしたが、それは市当局の反対により実現しなかった。

イングランドの宗教改革

イングランドでは、ヘンリー8世の離婚問題が改革の直接原因で、政治的・経済的な動機も強い。ヘンリー8世は、教皇権と分離したイギリス国教会(アングロ・カトリック)を設立し、新たに教会組織を作ろうと図った。これに反対した大法官モアは処刑された。のちヘンリー8世はローマ・カトリックの修道院を多数廃止し、その財産を没収して、国庫へと入れた。

ヘンリー8世のあとを継いだエドワード6世 は、1552年ノックスの影響を受けたカルヴァン主義的な42箇条に署名し、エドワード6世の時代にプロテスタントの宗教改革が進められたが、メアリー1世ローマ教皇を中心とするカトリック教会を復活してプロテスタントを取り締まり、約300人を処刑したため、ブラッディ・マリー(血まみれマリー)と呼ばれた。 これは、ローマ教皇を中心とするカトリック教会の考えによれば、修道院解散で富を得た者たちが反発したにすぎないとしている。

メアリー1世の後を継いだエリザベス1世は再びイングランド国教会を国教とし、イングランドにおける国教会の優位が確立した。しかし、政治的・経済的な動機が強かったイングランドの改革を不十分とみなし、更に改革を推し進めたのが清教徒たちであった。

スコットランドの宗教改革

スコットランドの宗教改革はハミルトンを始めとして、本格的な宗教改革が行われるようになるが、ハミルトンは志半ばで1528年に処刑された。後にジョージ・ウィシャートも宗教改革を実践し、カルヴァンツヴィングリの信仰をスコットランドに広めたが、彼もハミルトン同様に1546年に処刑された。

その後、ウィシャートの弟子であったノックスにより長老派教会が形成され、スコットランド教会の宗教改革が進められた。

フランスの宗教改革

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フランスの改革派教会であるユグノーが成長したが、ローマ・カトリックによるサン・バルテルミの虐殺が起こり、カトリック信徒がプロテスタントを弾圧したため、プロテスタントは組織的には壊滅状態になった[2]

デンマーク=ノルウェーの宗教改革

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デンマーク=ノルウェーでは伯爵戦争終結後、クリスチャン3世が教会領を没収、1537年には教会法を制定した。デンマークの支配下に入ったノルウェーアイスランドでは上からの宗教改革が推し進められた。

ローマ・カトリック教会側の反応

対抗改革(対抗宗教改革)運動

カトリック内部でも改革の必要性は認識されていたが、プロテスタント運動が引き金となり、カトリック教会ではトリエント公会議1545年 - 1563年)を開催した。また、他を非難するよりまず自ら戒め、規律正しい宗教生活しようとロヨラザビエルらが中心となり、1534年イエズス会が設立された。イエズス会はその後、キリスト教の大分裂を防ぐべく欧州各国に勢力を伸ばし、非ヨーロッパ諸国への布教活動を行った。(→対抗改革

正教会との関係

ルター派と総主教イェレミアス2世のやり取り

ルター派は当初、プロテスタント正教会の合同を模索し、テュービンゲンのルター派神学者、マルティン・クルシウス(Martin Crusius)とヤーコプ・アンドレー(Jacob Andreae)が署名した書簡を、正教会コンスタンディヌーポリ総主教イェレミアス2世に送った[3]

1573年10月15日、書簡を携えたルター派側の使節ステファン・ゲルラッハ(Stephen Gerlach)と総主教イェレミアス2世との最初の会見が行われ、会見の場は和やかな雰囲気に包まれた。ゲルラッハはその後すぐ、総主教の質素な服装と机、その人柄に感嘆した旨をチュービンゲンに書き送り、総主教からの返答が期待出来るとの報告を行った。クルシウスはこれに対して2通目の書簡を書き、1575年1月4日にはイェレミアスが友好的かつ慎重な返信を書いている[3]

この間、ルター派側ではフィリップ・メランヒトンにより、アウクスブルク信仰告白のギリシア語への翻訳作業が進められていた。クルシウスとアンドレーは、このギリシア語に翻訳されたアウクスブルク信仰告白を総主教イェレミアス2世のもとに送り、条項ごとの賛否の見解を示すよう依頼した。ちょうど総主教庁聖シノドの開会期間中の1575年5月24日、ゲルラッハはイェレミアス2世にギリシア語訳された信仰告白を渡した[3]

イェレミアス2世およびその教会における協力者達(主教、神学者、修道士達)は送られて来た「信仰告白」につき慎重に検討を重ねた。そして1576年5月15日、「アウグスブルクの信仰告白についての見解」がまとめ上げられた。この「見解」はチュービンゲンにおいて大いに歓迎されたが、イェレミアス2世は「見解」中において、信仰の源泉たる聖書聖伝[注釈 1]をめぐる、正教会とルター派の見解の一致点と相違点を、正教の教えを詳述しつつ指摘していた[3]

1577年6月18日にチュービンゲンからは、ルター派側による新しい教理を正当化する内容を含んだ書簡がイェレミアス2世に対して送られた。巡回に出掛けていたイェレミアス2世の手許に届いたのは1578年3月4日。イェレミアス2世は協力者達とともに、友好的ではあるがはっきりと、聖伝を守るよう父親のように教え諭す返信を書き送った[3]

1580年6月24日、ルター派からの返信が届いた。これに対し、イェレミアス2世は聖伝のみならず、聖神(聖霊)の発出(フィリオクェ問題)や自由意思に関する問題においても、ルター派と正教の間で一致点が見出せないと判断して論駁。これで、ルター派と正教会の間に行われたこの書簡のやり取りは終わった[3]

両教会のやり取りに対するカトリック教会の対応

ルター派正教会が上述のように書簡のやり取りを行っている事は、ローマ教皇庁も把握していた。教皇庁は正教会とルター派が合同することを恐れ、注視していた[3]

正教会に対するカトリック教会の影響力を拡大することを狙い、教皇グレゴリウス13世はコンスタンディヌーポリ総主教庁に使節団を送り、グレゴリオ暦を導入するよう呼びかけたが、イェレミアス2世はこれを拒否[3]。以降、現代に至るまで正教会はグレゴリオ暦を(ごく一部を除き[注釈 2])使用していない。修正ユリウス暦が20世紀に入って少なく無い一部の正教会に導入されたが、これも厳密にはグレゴリオ暦ではない[4]

エルサレム公会

16世紀末から17世紀にかけて、正教会は宗教改革、および対抗宗教改革の両方から深い影響を蒙った。プロテスタントの影響を受けたと評される総主教としてキリロス・ルカリス、カトリック教会の影響を受けたと評される主教としてペトロー・モヒーラが挙げられる[5]

正教信仰に対する西方教会からの影響に対し、1672年エルサレム総主教ドシセオス2世の主導でエルサレム公会が開かれ、宗教改革でプロテスタントから示された教理につき討議が行われた。その結果、「聖書のみ」「予定説」「象徴説・共在説」「聖書正典の範囲」といった、プロテスタントの主張の殆どが否定された。この公会において正教会は、プロテスタントとの教理の違いのみならず、カトリック教会とも違いがあることを示した[6]

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主要年表

15世紀以前

16世紀

17世紀

注釈

  1. 16世紀から19世紀にかけて、西方教会の影響を正教会が受けた事を反映した文章には「聖伝と聖書」となっているものもあるが、現代の正教会においては「聖伝聖書」の二本立てではなく、「聖伝の中に聖書がある」とまとめられている。出典:『正教会の手引き』日本ハリストス正教会 全国宣教委員会 2004年11月(62頁)
  2. エストニア使徒正教会フィンランド正教会はグレゴリオ暦を使用している数少ない正教会である。

参照元

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参考文献

史料

  • 出村彰・徳善義和・成瀬治・八代崇編 『宗教改革著作集1~15』教文館。
  • ルター著、日本ルーテル神学大学ルター研究所編『ルター著作集』聖文舎。

二次文献

  • 倉塚平『異端と殉教』筑摩書房、1972年。
  • 倉塚平、田中真造他編訳『宗教改革急進派 ラディカル・リフォメーションの思想と行動』ヨルダン社、1972年。
  • 中村賢二郎、倉塚平編『宗教改革と都市』刀水書房、1983年。
  • ペーター・ブリックレ著、前間良爾、田中真造訳『1525年の革命 ドイツ農民戦争の社会構造史的研究』刀水書房、1988年。
  • ベルント・メラー著、森田安一、棟居洋、石引政志訳『帝国都市と宗教改革』教文館、1990年。
  • ペーター・ブリックレ著、田中真造、増本浩子訳『ドイツの宗教改革』教文館、1991年。
  • 森田安一『ルターの首引き猫 木版画で読む宗教改革』山川出版、1993年。
  • 日本ルーテル神学大学ルター研究所編『ルターと宗教改革事典』教文館、1995年。
  • 野々瀬浩司『ドイツ農民戦争と宗教改革 近世スイス史の一断面』慶應義塾大学出版、2000年。
  • 渡邊伸『宗教改革と社会』京都大学学術出版会、2001年。
  • 森田安一編『ヨーロッパ宗教改革の連携と断絶』教文館、2009年。
  • R. W. スクリブナー、C. スコット・ディクソン著、森田安一訳『ドイツ宗教改革(ヨーロッパ史入門)』岩波書店、2009年。
  • 山本信太郎『イングランド宗教改革の社会史―ミッド・テューダー期の教区教会』立教大学出版会、2009年。
  • 『基督教全史』E.E.ケアンズ 聖書図書刊行会
  • 『プロテスタントの歴史』エミール G.レオナール 渡辺信夫訳 白水社
  • 『伝道の歴史的探究』メンデル・テイラー 福音文書刊行会
  • 『宗教改革の思想』アリスター・マクグラス 教文館
  • 『キリスト教神学入門』アリスター・マクグラス 教文館
  • 柏野健三『社会政策の歴史と理論』ふくろう出版、1997年
  • Brady Jr., Thomas A., Ruling Class, Regime and Reformation at Strasbourg 1520-1555, Leiden 1978.
  • Scribner, R. W., For the Sake of Simple Folk. Popular propaganda fpr the german reformation, Oxford 1981.
  • Greyerz, Kaspar von, Stadt und Reformation: Stand und Aufgaben der Forschungen, in: Archiv für Reformationsgeschichte 76, 1985, S. 6-63.
  • Goertz, Hans-Jürgen, Pfaffenhaß und große Geschrei. Die reformatorischen Bewegungen in Deutschland 1517-1529, München 1987.
  • Scribner, R. W., Popular Culture and Popular Movements in Reformation Germany, Landon and Ronceverte 1987.
  • Berndt Hamm, Bernd Moeller und Dorothea Wendebourg, Reformatiostheorien. Ein kirchenhistorischer Disput über Einheit und Vielfalt der Reformation, Göttingen 1995
  • Hamm, Berndt, Bürgertum und Glaube. Konturen der städtischen Reformation, Göttingen 1996.
  • Blickle, Peter, Die Reformation im Reich, 3. Auflage, Stuttgart 2000.
  • Ehrenpreis, Stefan und Ute Lotz-Heumann, Reformation und konfessionelles Zeitalter, Darmstadt 2002.
  • Schilling, Heinz, Ausgewählte Abhandlungen zur europäischen Reformations- und Konfessionsgeschichte, Berlin 2002.
  • Mörke, Olaf, Die Reformation. Voraussetzungen und Durchsetzung, München 2005.
  • Archive for Reformation History 100 , Reformation Research in Europe and North America, a Historiographical Assessmen, 2009.

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関連項目

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  1. ピーター・バーク著 亀長洋子訳「ルネサンス」(ヨーロッパ史入門)p62 岩波書店 2005年11月25日第1刷
  2. 森川甫『フランス・プロテスタント』日本キリスト改革派教会
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 Jeremias II (Ecumenical Patriarchate)
  4. Revised Julian Calendar - OrthodoxWiki
  5. 高橋保行『ギリシャ正教』 p116 講談社学術文庫 1980年 ISBN 9784061585003 (4061585002)
  6. "The Blackwell Dictionary of Eastern Christianity" p267, Wiley-Blackwell; New edition (2001/12/5) ISBN 9780631232032