ユグノー

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ユグノーHuguenot)は16世紀から17世紀における近世フランスにおける改革派教会カルヴァン主義)の事。

語源

ドイツ語アイトゲノッセ(Eidgenosse、「盟友」)のフランス訛りエーグノもしくはエーニョ(Eignot)に、ジュネーヴの同盟党(ジュネーヴとスイス連邦の同盟を推進するプロテスタントの一派)の党首ブザンソン・ユーグ(Bezanson/Besançon Hugues)の姓を掛け合わせたものといわれており、元々は蔑称であった。当時のプロテスタントは、カトリックなどから蔑視されており、同様な蔑称にネーデルラントゴイセンイングランドピューリタンなどがある。

フランス宗教改革の起こり

デジデリウス・エラスムスジャック・ルフェーヴル・デタープルの影響が大きいといわれる。しかし、彼らはローマ・カトリック教会に残留した。1518年-1519年マルティン・ルターの書物によって宗教改革がフランスに伝えられ、当初はソルボンヌの学者たちもルターに共感していたが、ローマの教会がルターを非難したため、1521年以降は、プロテスタント信仰を持つ者は、火あぶりか亡命の他に選ぶ道が無くなった。フランスで最初の殉教者は1523年8月8日に生きたまま焼かれたアウグスティヌス会修道士ジャン・ヴァリエールであった[1]1546年10月7日ピエール・ルクレール牧師と礼拝の出席者は生きたまま火あぶりにされた[2]

フランスの改革派

1520年代から1540年代のフランス宗教改革はルターの影響を受けていたが、次第にジャン・カルヴァンの影響が強くなる。フランス最初の改革派教会は1546年に建設された。また、ジュネーヴからは160人以上の牧師が派遣された[3]1559年には地下で大会が開かれ、フランス信条が告白された。

宗教戦争

フランス国内におけるユグノーへの迫害は、ユグノー戦争を引き起こした。

ナントの勅令

1598年アンリ4世によって発布されたナントの勅令により信仰の自由を認められたが、1685年ルイ14世フォンテーヌブローの勅令によってナントの勅令が廃止されたため、ユグノーの多くはドイツをはじめとする国外に移住した。

しかし国内に留まる一派もおり、カミザールの乱1702年 - 1705年)で蜂起したが、鎮圧されて生き残ったユグノーはオランダ・イングランドへ亡命した。

ユグノーとフランス経済史

マックス・ウェーバーが指摘するように、ユグノー1617世紀フランス経済に大きな影響を及ぼした[4]。ここではユグノーのフランス経済に及ぼした影響、とくにコルベール主義との関連を概観し、ナントの勅令廃止(1685年)の経済史的意義についても言及する[5]

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ナントの勅令
ナントの勅令は信仰の自由を与えるものとはいえず、カトリックとプロテスタントに対する扱いも平等ではない。あくまでプロテスタントへの寛容を表明するにとどまっている

フランスのプロテスタンティズムはその最盛期で人口200万人、当時の人口の10%ほどを占めたが、ユグノー戦争によって5%程度まで減少した[6]。その内訳は貴族農民手工業者商人金融業者など多様な社会階層に及んだ[7]。そのうち貴族層は前述したように政治的意図が濃厚であったので、その目的が達成されたユグノー戦争後には、そのほとんどが早期に信仰を離れた。ユグノーが大きな勢力を持った南部では、農民層にもプロテスタンティズムが浸透し、彼らの貢献によりこの地域は内乱の被害著しかったにも拘わらず、早期に復興を成し遂げた。しかしとりわけブルジョア層においてプロテスタンティズムは広く浸透した。

ユグノーはとくに集中マニュファクチュアの担い手として重要であり、金融・商業においても支配的であった。コルベールは重商主義政策の柱に国内の金融業・商業・工業の発展を据えていたので、当然その担い手であるユグノーを保護し、これと提携する道を選んだ。

毛織物工業では、ラングドックプロヴァンスドフィネレヴァント地方への輸出用ラシャが大量に生産されていた。シャンパーニュ地方のスダンも北ドイツへの輸出用ラシャを生産し、毛織物工業の中核でもあったが、ここではユグノーの製造業者が織機の半数を所有していた[8]絹織物工業においては、17世紀中葉トゥールリヨンにおける顕著な発展が知られるが、それはユグノーの貢献に拠るところが大きい。リンネル工業をフランスに導入したのもユグノーであり、リンネルはイギリスへの輸出用商品として貴重なものであった[9]オーヴェルニュアングモアでは製紙業が発達していたが、その主な担い手もユグノーであった。ここで製造された紙はフランス国内のみならず、イギリスやオランダでも消費された。とくにオーヴェルニュのアンベールの紙は当時ヨーロッパで最良のものとされていた。これらの工業は一般的にナントの勅令廃止後に衰退した[10]

ラ・ロシェルボルドーにおける海上交易の発展にもユグノーは多大な寄与を為していた。ボルドーにおいては主にイギリス・オランダとの交易を担い、ラ・ロシェルにおいてはナントの勅令直前まで貿易は彼らの独占状態にあるという有様であった[11]。ユグノーの銀行家としては、17世紀初めにはリシュリューの財源となったタルマン家やラムブイエ家が知られる。またユグタン家も有名である。もともとリヨンの出版業者であったが、1685年にアムステルダムに移住し、そこで17世紀最大の銀行家にまで成長した[12]。フランス革命後には多くのユグノー銀行家がフランス金融界で活躍し、現在でもユダヤ系以外はプロテスタント系によってフランス銀行業は担われている[13]

ナントの勅令廃止によりユグノーの工業技術・資本はイギリス・オランダ・スイス・ドイツに流出し、それらの国々の工業的発展に寄与した結果、対フランス貿易における各国製品の競争力を高め、フランスの競争力などは前述のように弱まった。

脚注

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関連書籍

  • 『フランス・プロテスタント苦難と栄光の歩み-ユグノー戦争、ナント勅令、荒野の教会』 森川甫著 西部中会文書委員会 ISBN 4880771023

関連項目

  1. 『フランス・プロテスタント』p.13
  2. 『フランス・プロテスタント』p.19
  3. 『フランス・プロテスタント』p.55
  4. マックス・ウェーバーは、フランスの改革派が「フランス工業の資本主義的発展の最も重要な担い手の一つだった」(マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』p.28)と述べている。またウォーラーステインは『近代世界システム 1600-1750』において、ナント勅令廃止がフランス産業革命の立ち後れをもたらしたと指摘する(金哲雄『ユグノーの経済史的研究』p.14)。一方でウェーバーの研究に影響を受けた日本の大塚史学においては、ユグノーの経済史的役割は概して冷淡に扱われた(金哲雄『ユグノーの経済史的研究』p.5、pp.20-28)。
  5. この節は全般的に金哲雄『ユグノーの経済史的研究』に依拠する。
  6. 金哲雄『ユグノーの経済史的研究』p.2。
  7. 金哲雄『ユグノーの経済史的研究』p.56。
  8. 金哲雄『ユグノーの経済史的研究』p.63。
  9. 金哲雄『ユグノーの経済史的研究』p.64。
  10. この衰退に宗教迫害がどれだけ影響を及ぼしたかについては主要な研究において見解が相違している。W・C・スコヴィルは『ユグノーの発展とフランスの経済的発展 1680~1720』(1960年)において、宗教的迫害の激しくなる時期と経済的衰退の時期が一致しないことを挙げ、むしろルイ14世の対外戦争に対抗した諸外国による高額の関税、インド産綿布の普及、国家による経済統制や国産品税の導入などがその原因であるとする(金哲雄『ユグノーの経済史的研究』pp.83-91)。それに対し、C・ヴァイスの先駆的研究「17世紀におけるフランス・プロテスタントに関する研究報告書」はナントの勅令廃止を経済的衰退の原因と見ている(金哲雄『ユグノーの経済史的研究』pp.106-113)。金哲雄も同様である(金哲雄『ユグノーの経済史的研究』pp.113-151)。
  11. 金哲雄『ユグノーの経済史的研究』pp.66-67。
  12. 金哲雄『ユグノーの経済史的研究』p.68。
  13. 金哲雄『ユグノーの経済史的研究』p.69。