康熙帝

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テンプレート:特殊文字 テンプレート:基礎情報 中国君主 康熙帝(こうきてい)は、の第4代皇帝玄燁(げんよう、燁は火偏に華)、廟号聖祖諡号は合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝(略して仁皇帝)。在世時の元号康熙を取って康熙帝と呼ばれる。

太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。その事実は歴代皇帝の中で「聖」の文字を含む廟号がこの康熙帝と、澶淵の盟を締結させた最盛期の皇帝の僅か二人にしか与えられていないことからも窺える。

生涯

即位

順治帝の第3子として生まれ、1661年に8歳で即位する。順治帝の遺命により、スクサハ(蘇克薩哈)、ソニン(索尼)、テンプレート:仮リンクオボイ(鰲拜)の重臣4人による合議制だった。康熙6年(1667年)にソニンが死去すると、オボイが反対派を粛清して専横を振るうようになった。康煕8年(1669年)、康熙帝は、ソニンの遺子テンプレート:仮リンクと謀ってモンゴル相撲にかこつけてオボイを捕らえて排除、15歳の時に親政を始めた。

三藩の乱

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青年時代の康熙帝

康熙12年(1673年)、三藩の乱が起こった。の臣であった呉三桂は順治帝に山海関を明け渡して投降し、その後南に逃れた南明永暦帝を殺したことで清から功績大と認められ、皇族でないにも拘らず親王に立てられていた。この呉三桂を筆頭とした尚可喜耿精忠の三人の藩王はそれぞれ雲南広東福建を領地としており、領内の官吏任命権と徴税権も持っていたので独立小国家の体を為していた。

康熙帝はこの三藩を廃止することを決めた。廃止しようとすれば呉三桂たちは反乱を起こすと群臣の多くは反対だったが、3名だけ「このまま藩を存続させればますます増長し、手に負えなくなり、結局反乱することと同じである。どうせ同じなら今廃止したらどうか。」という意見を出し、康熙帝はこれを採用した。

予想通り、呉三桂たちは清に対して反旗を翻した。三藩軍は清の軍隊を各地で破り、鄭氏台湾鄭経もこれに呼応した。そのため清は一時期長江以南を全て奪われるなど清朝崩壊の危機を迎える。群臣は康熙帝に故地満州に避難することを勧めたが、康熙帝は断固として三藩討伐の意思を変えなかった。呉三桂たちは「満州族を追い出して漢族の天下を取り戻そう」というスローガンを民衆に訴えたが、そもそも漢族の王朝である明を滅ぼしたのは他ならぬ呉三桂であったので民衆は三藩を支持しなかった。康熙帝が漢人の周培公らを起用したことで清軍は徐々に優勢になっていき、康熙20年(1681年)に三藩の乱を鎮圧した。その2年後にはテンプレート:仮リンクの意見を採用し、鄭氏政権からの降将施琅を登用して台湾を制圧、反清勢力を完全に滅ぼした。

外征

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避暑山荘の康熙帝銅像

台湾を収併した年、ピョートル1世(摂政:ソフィア・アレクセーエヴナ、顧問:テンプレート:仮リンク)時代のロシア帝国が満州族の故地である黒竜江付近のアルバジンに南下してきたのでこの地域の軍事力を強化し(テンプレート:仮リンク)、康熙28年(1689年)にテンプレート:仮リンクを派遣してネルチンスク条約を締結した。19世紀に受け入れさせられた一連の不平等条約と異なり、この条約は両国が対等の立場として結ばれたものである。中華思想によれば中国は唯一の国家であり、対等な国家の存在を認めず、国境など存在しないという建前だったが、この原則を揺るがす内容であった。これには側近のイエズス会宣教師フェルディナント・フェルビースト(南懐仁)の助言があったと言われ、条約締結の際にもイエズス会士が交渉を助けた。ただし、その後の対ロシア関係は理藩院によって処理されており、清の国内では朝貢国と同様の扱いを受けていた。そのためこの条約締結をもってして、清朝が主権国家体制の枠組みに包含されたとまでは言えない。

1670年代ジュンガル部ガルダン・ハーン(噶爾丹)がオイラトの覇権を握り、さらにモンゴルのハルハ部の内紛に介入、ハルハ諸部を制圧した。康熙32年(1693年)、ハルハの諸侯は康熙帝に保護を求め、康熙帝はこれに応えてガルダンと対決(テンプレート:仮リンク)、みずから軍勢を率いての戦闘を経て康熙35年(1696年)、ガルダンに致命的打撃を与えることに成功、ガルダンは敗走中に死去した(テンプレート:仮リンク)。従来、ハルハ諸侯は清朝に朝貢を行い、冊封を受けるのみで、他の朝貢国と同様、内政自主権を行使していたが、これ以後、清の盟旗制に組み込まれることとなる。

18世紀には、ダライ・ラマ6世を巡って生じたチベットの内紛で、青海グシ・ハン王家の傍系王族の一部とジュンガルのテンプレート:仮リンクが同盟を組み、康熙56年(1717年)、ジュンガル軍がチベットに侵攻し、ラサを制圧、チベットのテンプレート:仮リンクを殺害した。康熙帝はラサンの救援要請に応じて康熙57年(1718年)、チベットに出兵したが、この第一次派遣軍はジュンガル軍によって壊滅させられた(テンプレート:仮リンク)。これに対し康熙帝は、グシ・ハン一族の主立った者たちを、当初ジュンガルと同盟した者達を含めて北京に招き、爵位で釣って清朝側につけることに成功、康熙59年(1720年)の第二次派遣軍は、「グシ・ハンの打ち立てた法の道」を回復することを旗印に、グシ・ハン一族の軍勢とともに進軍、ガリーテンプレート:仮リンクの知事テンプレート:仮リンクとラサンハン軍にいたツァンテンプレート:仮リンクらゲリラ勢力の蜂起に苦しめられていたジュンガル軍はこれを見て戦わずして中央チベットから撤退していった。

康熙帝は「グシ・ハンの立てた法の道(ダライラマを擁するチベットのハン)」をチベットの正統の政体と認め、この政体の回復をチベット介入の旗印にしていた。康熙60年(1721年)には、グシ・ハン一族にハン位継承候補者を選出するよう求めたが、グシ・ハン一族は18世紀初頭以来、内紛の極みに達しており、一族とチベットの有力者が一致して支持しうる候補者を選出することができなかった。康熙帝はラサンを継ぐハンを冊封せぬまま没し、チベットの戦後統治処理は次代雍正帝の手に委ねられることになる。

康熙60年(1721年永和 (朱一貴))に、テンプレート:仮リンク台湾阿里港(現在の里港郷)で反乱を起こしたが、総兵テンプレート:仮リンク及びその族弟テンプレート:仮リンクを派遣し、翌康熙61に平定した。

北方民族の王者

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狩りをする康熙帝
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南巡する康熙帝

康熙22年(1683年)から康熙帝はほとんど毎年夏には木蘭囲場(現・承徳市囲場満族モンゴル族自治県)に赴き、モンゴル王侯とともに狩猟を行った。こうした狩場で十数日の間、モンゴル風のテント生活を送ったのである。康熙帝は弓の達人で、自ら虎や熊を倒したといわれる。また康熙42年(1703年)には熱河離宮避暑山荘を造り、毎年夏から秋にかけて北京を離れて熱河で過ごし、モンゴル諸王や外国朝貢使節を引見した。こうした北方民族の王者としての行動様式は家法として雍正帝や乾隆帝にも受け継がれていく。

国内政策

内政にも熱心であり、自ら倹約に努め、明代に1日で使った費用を1年間の宮廷費用としたと言われる。また使用人の数を1万人以上から数百人にまで減らした。国家の無駄な費用を抑え、財政は富み、減税を度々行った。また、丁銀(人頭税)の額を1711年の調査で登録された人丁(16歳~59歳の成年男子)の数に対応した額に固定し、1711年以降に登録された人丁に対する丁銀を当面免除した。これは地丁銀制へとつながる。

文化的にも『康熙字典』、『大清会典』、『歴代題画』、『全唐詩』、『佩文韻府』などを編纂させ、『古今図書集成』の編纂を命じた(完成は雍正帝の時代)。また朱子学に傾倒し、自ら儒学者から熱心に教えを受けて血を吐くまで読書を止めなかったと言われる。康熙帝の代から十哲の一人として朱子を祀るようになり、『朱子全書』、『性理大全』などの朱子に関する著作をまとめた。『明史』の編纂にも力を入れて大部分を完成させている(全巻完成は乾隆4年(1739年))。また、イエズス会宣教師ジョアシャン・ブーヴェらに実測による最初の中国地図『テンプレート:仮リンク』を作成させた。

康熙帝はテンプレート:仮リンクが生んだ第二子の胤礽(示偏に乃)を、1676年皇太子に立てていたが、1703年テンプレート:仮リンクがクーデターで失脚すると、1708年に胤礽は素行に問題があるとして廃され、その後崩御まで皇太子を立てることはなかった。そのため皇位をめぐって他の皇子の間で暗闘が繰り広げられ(テンプレート:仮リンク)、雍正帝の即位に関して様々な憶測が伝わり「雍正簒位」として民間に広まることとなる。

順治帝が清を中華王朝としたが、実質的に清を全国王朝としたのは康熙帝である。清東陵に陵墓がある。

后妃

  • テンプレート:仮リンク(ヘシェリ氏、赫舎里氏)子:皇子承祐(夭逝)、皇二子理親王胤礽(廃皇太子)
  • 孝昭仁皇后(ニオフル氏、鈕祜禄氏)
  • テンプレート:仮リンク[1](トゥンギャ氏、佟佳氏)女:皇八女(夭逝)
  • テンプレート:仮リンク(ウヤ氏、烏雅氏)子女:皇四子胤禛(雍正帝)、皇六子胤祚(夭逝)、皇七女(夭逝)、皇九女固倫温憲公主、皇十二女(夭逝)、皇十四子恂郡王テンプレート:仮リンク
  • 愨恵皇貴妃(トゥンギャ氏、佟佳氏)
  • 惇怡皇貴妃(グワルギャ氏、瓜爾佳氏)女:皇十八女(夭逝)
  • テンプレート:仮リンク(ジャンギャ氏、章佳氏)子女:皇十三子怡親王胤祥、皇十三女和碩温恪公主、皇十五女和碩敦恪公主
  • 温僖貴妃(ニオフル氏、鈕祜禄氏)子女:皇十子敦郡王テンプレート:仮リンク(示へんに我)、皇十一女
  • 順懿密妃(王氏)子:皇十五子愉郡王胤禑、皇十六子荘親王胤禄、皇十八子胤祄(夭逝)
  • 純裕勤妃(陳氏)子:皇十七子果親王胤礼
  • 恵妃(ナラ氏、納喇氏)子:皇子承慶(夭逝)、皇長子直郡王テンプレート:仮リンク
  • 宜妃(ゴロロ氏、郭絡羅氏)子:皇五子恒親王テンプレート:仮リンク、皇九子貝子テンプレート:仮リンク、皇十子胤禌(夭逝)
  • 栄妃(マギャ氏、馬佳氏)子:皇子承瑞(夭逝)、皇子賽音察渾(夭逝)、皇三女固倫栄憲公主、皇子長華(夭逝)、皇子長生(夭逝)、皇三子誠郡王胤祉、
  • 定妃(万琉哈氏)子:皇十二子履親王胤祹
  • 宣妃(ボルジギン氏、博爾済錦氏)
  • 成妃(ダイギャ氏、戴佳氏)子:皇七子淳親王胤祐
  • 良妃(衛氏)子:皇八子廉親王テンプレート:仮リンク
  • 平妃(ヘシェリ氏、赫舎里氏)子女:皇子胤禨(夭逝)
  • 慶妃(博爾済吉特氏
  • 襄嬪(高氏)子女:皇十九子胤稷(夭逝)、皇十九女(夭逝)、皇二十子簡静貝勒胤禕
  • 煕嬪(陳氏)子:皇二十一子慎郡王胤禧
  • 謹嬪(色赫図氏)子:皇二十二子恭勤貝勒胤祜
  • 静嬪(石氏)子:皇二十三子貝勒胤祁
  • 穆嬪(陳氏)子:皇二十四子誠親王胤祕
  • 通嬪(ナラ氏、那拉氏)子女:皇子万黼(夭逝)、皇子胤サン(示へんに賛、夭逝)、皇十女固倫純愨公主、
  • 端嬪(董氏)女:皇二女(夭逝)
  • 布貴人(ジョーギャ氏、兆佳氏)女:皇五女和碩端静公主
  • 貴人ゴロロ(郭絡羅)氏 子女:皇子胤ウ(示へんに禹)、皇六女固倫恪靖公主
  • 貴人袁氏 女:皇十四女和碩愨靖公主
  • 貴人陳氏 子:皇子胤禐(夭逝)
  • 庶妃張氏 女:皇長女(夭逝)、皇四女(夭逝)
  • 庶妃王氏 女:皇十六女(夭逝)
  • 庶妃劉氏 女:皇十七女(夭逝)
  • 庶妃ニウフル(鈕祜禄)氏 女:皇二十女(夭逝)

脚注

  1. 弟にテンプレート:仮リンクがおり、皇位継承争いでは雍正帝の擁立に貢献したが、後に誅殺された。

登場作品

武俠小説鹿鼎記』がよく知られており、鹿鼎記 (1984年のテレビドラマ)鹿鼎記 (2008年のテレビドラマ)でテレビドラマ化された。

康熙帝の生涯を描いたものとして、50回連続テレビドラマ『康熙王朝(康熙帝国)』が知られる。主演:陳道明テンプレート:仮リンク、総監制:葉志康、監督:陳家林・劉大印。

関連文献

テンプレート:Sister テンプレート:Sister

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