トヨタ・パブリカ

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パブリカ (Publica) は、トヨタ自動車1961年から1978年まで生産した小型乗用車である[1]

1950年代の国民車構想の影響を受けて開発されたパブリカは、トヨタ初の大衆車で、長年にわたって同社の生産、販売する最小車種として位置付けられた[2]。後のスターレット、そして現在販売されているヴィッツへと連なる、トヨタコンパクトカーの元流である。

車名の由来

大衆車」を意味する英語「パブリック・カー」(Public car)を略した造語である。唐辛子の一種の「パプリカ」と誤表記されることが多いが、単に字面が似ているだけで関連はない。

歴史

初代(P1#/2#型 1961 - 1969年)

国民車構想

テンプレート:Vertical images list パブリカの商品企画は、1954年5月に当時技術担当専務であった豊田英二から500~600cc級の前輪駆動大衆車の開発提案が出されたことに始まった。当時タクシー用に用いられていた小型車よりも1クラス下の、オーナードライバー向け大衆車を構想したコンセプトである。従前の自社最小クラスである1,000cc級乗用車(トヨタでは当時1,500cc車への切り替えで生産が途絶えていたが、1957年に初代トヨペット・コロナが再発売されている)より更に小型の車が、当時のヨーロッパでは多数出現しており、トヨタをはじめとする日本のメーカーを刺激する存在であった。初代クラウンの開発が完了した直後の1955年4月から、薮田東三を主査としたチームで開発が着手された。

その直後、1955年5月に当時の通商産業省(通産省)自動車課が国民車構想を計画しているという報道が浮上した。これは一定条件を満たす「国民車」の生産を国によって後援しようという「日本版フォルクスワーゲン計画」であったが、マスコミのスクープによって内部構想が明らかになっただけのもので、公式な政策とはならなかった。

この構想で通産省が想定した「国民車」の性能は、

  1. 最高時速100km以上。
  2. 乗車定員4名、または2名と100kg以上の貨物が積めること。
  3. 平らな道路で、時速60kmのとき、1L燃料で30km以上走れること。
  4. 大がかりな修理をしなくても、10万km以上走れること。
月産2,000台の場合、最終販売価格は1台25万円以下でなければならない。
性能と価格から勘案されるエンジン排気量は350~500cc、車重は400kg以下。

というものであった。大学教授などの助言も受けて自動車好きの若手官僚が立案したプランであったが、当時の主要自動車メーカー側も一応検討はしたものの、同年9月には日本自動車工業会の統一見解で「不可能」とする回答が出された。技術的に高度な要求であるが、仮に技術面をクリアしても、コストの制約があまりにも厳しく、価格が40万円超になってしまうと見積もられた。

それでもこの企画に刺激されていくつかのメーカーで小型車開発が着手されることになった。トヨタは期せずして、国民車構想のタイミングに合わせた形での新型車開発を進めることになった。

試作過程の路線変更

当初の計画では、豊田英二の意向により、シトロエン・2CVに倣った空冷2気筒エンジンと前輪駆動(FF)方式を採用することとなっていた。フロントサスペンションはウィッシュボーン独立式としたが、これにはドライブシャフトのとり回しを考慮し、戦後型イギリス車のモーリス・マイナーに倣った縦置きトーションバー・スプリングを採用した。

この車の開発にはタクシー業界から横やりが入った。超小型車によるタクシー業界での小型車増加(による料金水準の低下)を危惧したのである。タクシー業界がトヨタ乗用車の最大のユーザーであった当時、その意向は無視できず、とりあえず恰好が仕上げられた前輪駆動試作車「1A1型」を1956年9月に公開した。これは、「タクシー用としては小さすぎ、あくまでオーナーカーとしての販路を求めた車」であることを釈明する意図があり、スタイルも当時としては乗用車らしからぬ、後年の2ボックススタイルに近いものであった。

1957年以降、試作車が増加試作され、テストドライブも繰り返されたが、当時の日本における技術的限界から、前輪駆動の駆動系には耐久性の乏しさと急勾配でのトラクション不足のトラブルが続出し、以後の開発は容易に進捗しなかった。

このため、1959年2月に至って長谷川龍雄が新たに主査に任命され、超小型大衆車の開発を続行することになる。長谷川は同年5月、新大衆車の駆動システムについて、オープン・プロペラシャフトを介したホチキスドライブ型の後輪駆動(FR)方式という平凡なレイアウトへの変更を断行した。トヨタと長谷川自身にとって過去に経験のないFF車開発は、与えられた僅か2年の開発期間では不可能であるとの判断からである。固定軸のFRなら設計自体は容易であり、駆動方式の変更による重量増の問題は、他の部分の軽量化設計で補う方針が採られた。

また当時「500cc車には税制上の特典を設ける予定」という官公庁側からの不確かな触れ込みがあり、当初計画を描いた豊田英二も500cc~600ccを主張したものの、長谷川は「既に高速道路の建設が開始されている高速化時代にあって、500ccエンジンはあまりに非力で対応できないであろう」と判断し、やや大型の700cc級エンジン搭載とした。開発にあたっては100km/hでの連続走行が可能であることも考慮していたのである。500cc車の優遇税制は結局実現せず、長谷川による大排気量化は実用上的確な判断となった。

重量軽減と共に製造原価を念頭に置いたコスト管理も徹底され、その開発手法は以後のトヨタ車に踏襲されていった。生産については豊田市に「パブリカ専用」の大工場・元町第二工場を建設、低コスト量産体制の態勢づくりが為された。

基本構造

完成したUP10は軽量なフル・モノコック構造のボディを採用した。全長3,500 mm 余りの簡素なボディは、大きなプレス部材を用いて生産性を高める配慮が為されていたが、デザイン上やや華奢な印象があった。2ドア3ボックスの4窓セダン型ボディを標準とし、2,130 mm のホイールベースの中で、大人4人を載せる最低限のスペースを確保していた。それでも当時の軽乗用車よりはゆとりがあり、さらに独立したトランクスペースを設けていたのは長所であった。

軽量なエンジンをフロントアクスルオーバーハングさせつつ、プロペラシャフト位置も極力低くし、FRでのスペース効率の不利を克服する努力が為されていた。プロペラシャフトを持ちながらも全体の軽量化は特筆すべき水準に達し、セダンの空車での重量は、FFで企画されていた当初の計画を満たす580 kg に抑えられていた。プロペラシャフトの出力軸はクラッチ側に比べ低い位置から引き出されるようになっており、このためトップギアは当時一般的な直結の減速比1.0でなく、1.125とやや低速側に振られている(ディファレンシャル・ギアとタイヤ径によってバランスを取っている)。

サスペンションは前輪ダブルウィッシュボーン式サスペンション、後輪縦置き半楕円リーフリジッドの当時ごくコンベンショナルなレイアウトである。前輪サスペンションのスプリングには縦置きトーションバー・スプリングを用いていたが、これは軽量化や省スペース目的もさることながら、上下アームの間にドライブシャフトを通していた、FF一次試作車の名残である。前輪駆動を想定していた故の広いフロントトレッドも踏襲され、安定性が高まった。ステアリングギアボックスは当時一般的だったウォーム&セクターで、車の軽量さも手伝い、中庸無難な操縦特性となっている。

新開発のエンジンは697 cc、強制空冷水平対向2気筒OHVU型エンジンである。当初のボア×ストロークは78 mm × 73 mm のオーバースクエアで、水平対向2気筒で先例の多い、半球型燃焼室を持つクロスフロー配置となった。性能は最高出力28 PS /4,300 rpm、最大トルク5.4 kgm /2,800 rpm を達成、ロー以外シンクロメッシュ化されたコラムシフトの4速ギアボックスを介して、セダンの軽量ボディを最高110 km/h まで到達させた。

後年に至るまでトヨタ車史上唯一となったこの空冷エンジンは、水平対向2気筒であることと、遠心式のシロッコファン(プロペラファンよりやや効率が劣るがコンパクトで騒音が少ない)とシュラウドを組み合わせた強制冷却という点は、範をとったシトロエン2CVと共通する。しかし2CVのエンジンは、コネクティングロッド大端部を一体式とし、組立式クランクシャフト窒素冷却して圧入する構造や、簡素化を狙ったシリンダーヘッドガスケットの省略、左右同時点火など、常道から外れた特徴が多く、当時の日本の内燃機関の通例や生産技術から乖離した特殊な設計でもあったため、より常識的なBMWツェンダップなどのドイツオートバイ用水平対向2気筒エンジンをも参考とし、振動対策にも意を払った。経験の少ない空冷エンジンの設計で、開発陣は熱変形など冷却対策に苦慮したという。

排気バルブの隙間調整機構として、日本の乗用車としては初の油圧ラッシュアジャスターを採用[3]し、メンテナンスフリーを実現したことが特徴である。軽量かつ簡潔、しかもコンパクトにまとめ上げられたこのエンジンの採用で、FR車ながらエンジンルームの前後長を詰めることができ、FF車と大差ない居住空間が得られたが、同時に、空冷エンジン故の騒音暖房能力などにハンデキャップを抱えることになった。

U型エンジンは生産数を少しでも伸ばすため、出力を定速運転に適した10 PS /2,200 rpm とした上、1965年(昭和40年)6月から同社のライトバス(コースターの前身)でクーラーサブエンジンとしても利用され、生産設備償却と、当時観光バスでさえ普及の途上であったバス冷房の大衆化に貢献している(翌年2月に800 cc の2U-B型に変更)。

発売と失敗

車名である「パブリカ」は、当時流行していた一般公募による。賞金は当時としては超高額の100万円、応募はがきは108万通を数えた。先述の如くパブリック・カー(Public car)からの造語であり、国民車に相応しい名であるとされた。

1961年6月発売当時、セダンの価格は38.9万円で、軽乗用車並みかそれ以下という廉価さであった。広告コピーは「パブリカにはじまって、パブリカにつきる」であった。また、森永乳業タイアップし、同社の販売する濃縮乳酸菌飲料「コーラス」のビンの栓(王冠)を集めると、抽選でパブリカが当たるというキャンペーンを行った。この最初期型は、現在トヨタ博物館で見ることができる。

またトヨタ自動車販売は、パブリカ専売の新たな販売チャネルとして、既存の「トヨタ店」、「トヨペット店」につづく第三の販売店網の構築に着手し、この新チャネルは「パブリカ店(現在のカローラ店)」と名づけられた。パブリカ店は既存の販売店網に対し、小規模の拠点を多数展開すること、地元資本の新たな参加を求めること、同一地域、同一都道府県内で複数の店舗、販売会社を競合させること、などを基本コンセプトとした。「パブリカ」をキーワードとした徹底した(現代流に言えば)CI戦略、多彩なローン販売体制の整備、更にはユーザー想定顧客への運転免許取得あっせん推進など、販売推進にあらゆる手段が繰り出された。主婦層までユーザーターゲットに入れたことは「大根1本で1日走れます」というユニークなキャッチフレーズでもうかがわれる。

しかし発売時のパブリカは、純粋な走行性能や実用性こそ当時の日本において特記に値する高水準であったが、その装備類は極めて質素なものであった。機能性とコストダウンを重んじて徹底した簡素化を図った結果、外装にはメッキ部品がほとんどなく、ラジオヒーターなどの快適装備はもちろん、燃料計[4]フェンダーミラーすら装備されていないという、無い無い尽くしなありさまであった。

そのあまりの質素さゆえに、発売当初から大衆層には支持されず、販売台数は低迷した。当時は自家用車を購入することは大衆の「」のひとつであり、ゆえに自動車には単なる実用性以上に、装飾などによる「高級感の演出」が求められていたのである。パブリカの発売に対抗して軽自動車各車がデラックス化を推し進めた結果、購買層は軽自動車へと流れた。

デラックス化・派生モデルの出現

トヨタは翌1962年バントヨグライド式のセミオートマチック仕様車を追加した。ライトバン仕様は当時大きかった商用車需要に応える形で販売強化を狙ったものであり、トヨグライドモデルの投入は、イージードライブ性の向上による競合モデルとの差別化であったが、特に半自動変速機の後者を廉価な大衆車に導入したことは意欲的な試みと言える。

同年の全日本自動車ショーで「パブリカスポーツ」を参考出品する。これは後に改良のうえ量産化され、1965年に「トヨタ・スポーツ800」として発売される。空気抵抗の小さい軽量ボディによって高性能を発揮し、「ヨタハチ」の愛称で親しまれることになる。

1963年リクライニングシートやラジオ、ヒーターなどを装備、クロームメッキ・モールなどの装飾を施した「デラックス」仕様(UP10D型)を追加する。東京地区販売店のパブリカ朝日(現・トヨタ東京カローラ)が1962年、パブリカ販促の独自企画として、燃焼式ヒーターやラジオを装備し、メッキパーツをあしらった特別仕様車を売り出して好評であったことを受け、全国展開したものである。デラックスの登場で、パブリカの売れ行きはようやく上向きとなった。

デラックスの発売により、基本モデルは「スタンダード」と呼ばれることになった。また同年には、セントラル自動車にボディ製造を委託したコンバーチブルを追加発売し、漸くは月販3,000 - 4,000台と、当初の予定台数に乗った。

1964年2月にはトラックモデルを発売、同年9月にはマイナーチェンジを行い、エンジン出力を32psにアップし、更にアウタードアハンドル周りの安全性の改善対策が実施された(後述参照)。これに伴いバンにもデラックス仕様が追加。同時に「本格的ホーム・カー」と謳い、俳優の大坂志郎を起用したテレビCMも放映されている。

UP2#型系

1966年に、大規模なマイナーチェンジが行われた。排気量を800ccに拡大し、36psに出力が増した2U-C型エンジンに変更され(これと同時にバン、トラックもそれぞれ2U-B型エンジンに変更)、トルクチューブ・ドライブ化(操縦性と静粛性への配慮)やフロントノーズ形状およびリアデッキ形状の大幅変更など、同一車台ながらフルモデルチェンジに近い、大がかりな仕様変更を行った。

コンバーチブルモデルにはスポーツ800と同一のツインキャブ45psの2U型エンジンが搭載された。変更後の型式はUP20である。この年10月から、パブリカ店の名称は「トヨタパブリカ店」へと改められた。この間、数次にわたり販売価格が下げられ、1967年にはスタンダードの価格は35.9万円となった。トヨタは、当時1ドルが360円であったことにちなみ、パブリカを1000ドルカーと表現し、広告のキャッチコピーとした。

また1967年には、派生車種としてキャブオーバー型の商用車・ミニエースが発売された。

この年、日野自動車と業務提携したトヨタは、翌1968年、パブリカバンの生産を日野自動車に委託、バンは日野自動車羽村工場内の小型車ラインで製造されることになった。また同年は、後期型コンバーチブルやスポーツ800とほぼ同一の高性能型エンジンを搭載したスポーティーセダン、パブリカ・スーパーが追加された。なおパプリカ・スーパーは後期型コンバーチブルやスポーツ800同様、タコメータートリップメーター油圧計が標準で装備されていた。

アウタードアハンドルの改良

当時の自動車には、レバー形のアウタードアハンドルが前方を向いて取り付けてあるものが多かった。これはユーザーにとってボタンを押し込む方式に比べて(てこ比の違いで)操作が楽で、メーカーにとってはドアハンドルやドア内部のリンク機構を簡略化できる利点がある。このパブリカもそうであったが、1964年(昭和39年)6月4日に東京都世田谷区の道路で、小学1年生の女児がパブリカとすれ違いざまにアウタードアハンドルがに突き刺さり、その先端が心臓にまで達する事故が起きた。女児はすぐに病院へ搬送されたものの死亡した。以前にも同様の事故は発生していたか、この事故については全国的に大きく報道されて国民の注目を集めるに至り、事故から2日後にトヨタは全車種でアウタードアハンドルを安全なものに交換することを発表した[5] 。以後、他のメーカーもこれに倣い、前向きのアウタードアハンドルは日本車から姿を消す事となった。

2代目(P3#/5#型 セダン/バン・1969 - 1978年、ピックアップ・1969 - 1988年)

テンプレート:Vertical images list 1969年4月に二代目(UP/KP30型)へとモデルチェンジする。二代目では2U-C型/2U-B型空冷800ccエンジンもスタンダードのみに残されたが、主力は初代カローラに搭載されていたK型エンジン(1,100cc)を基本とする水冷直列4気筒1,000ccの2K型エンジンとなる。

また、トラックモデルは「ピックアップ」に改称された。業務提携した日野自動車も、羽村工場内に小型車専用ラインを設け、商用モデルの組み立てに参加した。

初代の発売から8年が経過し、高度経済成長期にあった日本ではモータリゼーションが進展していた。自家用車の保有台数は毎年倍増する勢いであり、また、第二次世界大戦直後に生まれたいわゆるベビーブーマーたち(2013年現在でいう団塊の世代)が自動車運転免許取得年齢に達していた。トヨタは、パブリカを初代モデル発売以来の「大衆車」という位置づけから、「若者が最初に購入する新車=エントリーカー」へと商品企画を変更した。

「1,000ドルカー」という初代後期型の直截的なキャッチコピーは消え、「ガッツ!パブリカ」「カモシカ」(ハイウェイの──、スタイリッシュなトヨタの──、──ルック、など)という、より抽象的なムードの表現に変化した。また、広告のイメージキャラクターには、大河ドラマへの出演などで人気が上昇中の若手俳優であった石坂浩二が起用された。

更にダイハツ工業との提携により、同社からはパブリカと同一ボディのコンソルテが発売された。コンソルテはパブリカと異なり、従来のダイハツ製乗用車であるコンパーノから転用された1,000ccエンジンが搭載された。

新たに設けられたスポーティグレードのSLは、カローラSLと同一の1,100ccのK-B型エンジンを搭載したが、同年10月、カローラがマイナーチェンジによって1,200ccになると期を一にして、パブリカSLのエンジンもカローラ用の3K-Bエンジン(77ps/6,600rpm)に変更された。同時に、トヨグライド式オートマチック仕様が1,000ccに追加された。なおこの年、パブリカ店はカローラ店に改称され、パブリカは商用車を除いてオート店の取扱い車種となった。

1970年10月、マイナーチェンジが行われた。インストルメントパネルを変更し、1,200ccモデルにシングルキャブレターハイ・デラックス仕様が登場、前輪ディスクブレーキが標準装備となった。これと同時に自動車排出ガス規制対策として、全エンジンにブローバイガス還元装置が設定された。

1972年1月に基本金型の変更を伴う大規模なマイナーチェンジを行い、エクステリアデザインを大幅に改め、前部をフラットデッキ化、後部をファストバック化する。この際、2U型空冷2気筒800ccエンジンを搭載するモデルは、乗用車排出ガス規制のクリアが困難との見通しから廃止されている(規制値の異なる商用版の2U-B型は1975年11月まで生産。パブリカの商用モデルのほか、同社のミニエースにも搭載されていた)。

1973年4月には、スポーティーな上級派生車としてパブリカ・スターレット(KP40系)が登場し、同年10月には新しい保安基準に適合させるためのマイナーチェンジを行った。

1976年2月には1200シリーズの51年排出ガス規制適合とともに最後のマイナーチェンジが行われ、適合モデルの型式が"B-KP50"となる。

同年9月にはATの復活もなされたが、1978年2月、二代目スターレット(KP60系)の登場を機に乗用車モデルの生産・販売を終了した。

商用モデルは、バンが1978年10月の2代目スターレットバン登場まで生産・販売され、残ったピックアップは、エンジンを排出ガス規制適合の1,300cc 4K-J型(型式はJ-KP39)に変更し、1988年まで生産された。ピックアップは、現在でも競合車種の日産・サニートラック と共にマニアに愛されている。 テンプレート:-

注釈

  1. ピックアップトラックのみ、2代目が1988年まで継続生産された。
  2. トヨタでは創業以来このような小型の車種を手がけた経験が無く、トヨペット・SAや初代コロナは共に排気量こそ1000ccであるが、いずれも車体は当時の小型車としては標準的な寸法であり、4ドアであったコロナは小型タクシーとしても使われていた。
  3. 乗用車用ではこのU型が日本初であるが、日本車のエンジンとしての初採用例は、東洋工業(マツダ)1950年に開発したCT型オート三輪用の空冷V型2気筒OHV・1,157ccエンジンがある。
  4. 当初、燃料タンクキャップのフィラーバーで計測し、残り4Lを切ると残量警告灯が点灯する仕様であった。
  5. 朝日新聞・昭和39年6月5日及び7日記事

関連項目

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外部リンク

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