鹿児島県立鶴丸高等学校
テンプレート:日本の高等学校 鹿児島県立鶴丸高等学校(かごしまけんりつつるまるこうとうがっこう テンプレート:Lang-en)は、鹿児島県鹿児島市薬師二丁目にある同県立の高等学校。
目次
概要
- Kagoshima-1-chu-koushou.JPG
一中校章
- Kagoshima-1-koujo-koushou.JPG
一高女校章
- Ka-koh-koushou.JPG
新制県立鹿児島高校校章
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鶴丸高校校章
- 前身
- 鹿兒嶋縣立高等女學校→鹿兒嶋縣立第一高等女學校(一高女、1902年設立)
- 建学の理念
- 好学愛知
- 自律敬愛
- 質実剛健
- 校風を表す言葉
- For Others(For Othersの精神)
- 1965年、鶴丸高校第5代校長・栗川久雄が提唱。
- 文武両道
- 鶴丸は勉強するところである
- 1950年当時の生徒会長による発言[4]。
- 生活規範12箇条
建学の理念に基づいて1966年に制定され、「ミニマム・エッセンシャルズ」とも称される。本校生徒としての自覚に基づいた、日常生活及び学習活動の基盤として継承されており、天野貞祐の言葉をリード文とする。上述の校風を表す言葉「For Others」もこの中に記されている。
- 校名の由来
「鶴丸」の名は、薩摩藩主島津氏の居城であった鹿児島城の別名鶴丸城に由来する。名称候補として「第一」「中央」「東」「朝日」「鹿児島」「造士館」などがあったが、「封建思想を打破すること」「県下高等学校の中心を自任するような名称を避けること」「1948年設立の新制・鹿児島県鹿児島高等学校の本統を継承したとの誤解を与えないように配慮すること」とした県政当局及び進駐軍の方針並びに他校との連絡協議会における協定により、PTA関係者から寄せられた「鶴丸」に決定した。当時進駐軍は、「鶴丸」が封建領主時代における城の別名であったことに気付かず、「鶴が飛んでくるとは平和的でよろしい」として認可した。
- 校旗・スクールカラー
- 前身である一中、一高女の校旗が現存している。一中校旗は、前身の「鹿児島県立尋常中学校」の頃に製作されたもので、上部にはえんじ色の線が引かれている。これが後に改称されて「第一鹿児島中学校」となり、この線が略称の「一中」の「一」に見えたのは、全くの偶然であるが、引き立つことになった。
- スクールカラーは臙脂色で、これは一中時代の校旗に由来する。一世代前の男子襟章と、女子の冬服スカーフ止めには中央に臙脂色の線が用いられていた。現在の校舎は、「一中」の「一」をイメージして配置されている。また、体育系の部では、臙脂色を用いたデザインのユニフォームやジャージー、バッグを採用している場合が多い。
- 校歌
- 鶴丸高校校歌「はろばろと」(作詞: 中馬幸子、作曲: 郡山正)
- 一中校歌(作詞: 樋渡清廉、作曲: 石倉小三郎、E.プッチェル)
- 一高女校歌(作詞: 一高女国語科、作曲: 近森出来治)
なお、同校歌「はろばろと」は、別題「青雲(あをぐも)」がついている。
- 甲鶴戦(甲南・鶴丸スポーツ交歓会)
1971年から毎年、鹿児島県立甲南高等学校とスポーツ交歓会(対抗試合)を実施している。
- 学習
- ホームルーム
- 1964年4月にホームルーム研究指定校となった。
- 学級は「R(ルーム)」と称する(例えば1年1組は11R(じゅういちルーム))。
- 1学年の学級数が2桁だったときには、例えば1年1組は101R(いちまるいちルーム)のように呼ばれていた。
沿革
- 鹿児嶋縣立第一鹿児嶋中學校
- 1893年3月 鹿児嶋縣尋常中學校設立許可。
- 1894年4月 鹿児嶋縣尋常中學校、山下町校地(現・県民交流センター敷地)にて開校式。
- 1897年4月 鹿児嶋縣尋常中學造士館の規模維持のため、鹿児嶋縣尋常中學校より第2学年から第4学年までの各40名を移籍。
- 1898年4月 鹿児嶋縣第一尋常中學校と改称。
- 1899年4月 鹿児嶋縣第一中學校と改称。
- 1901年5月 七高の設立に伴い、鹿児嶋縣中學造士館の第4学年以上の生徒を収容した[5]。
- 1901年9月 鹿児嶋縣立鹿児嶋中學校と改称。
- 1906年4月 鹿児嶋縣立第一鹿児嶋中學校(通称・一中)と改称。
- 1913年2月 一中が薬師町に移転。
- 新学制により鹿児島県鹿児島高等学校第五部と改称。
- 鹿児嶋縣立第一高等女學校
- 1901年5月 鹿児島県立高等女学校設立許可、7月に加治屋町(現・鹿児島県立鹿児島中央高等学校校舎)に校舎起工、翌年12月竣工。
- 1902年5月 高等女學校、落成式兼開校式。
- 1910年3月 鹿児嶋縣立第一高等女學校(通称・一高女)と改称。
- 1935年11月 一高女校舎、大本営(8 - 10日)、行在所(15 - 18日)となる。
- 1948年4月 新学制により鹿児島県鹿児島高等学校第三部と改称。
- 鹿児島県立鶴丸高等学校
- 1949年4月 鹿児島県鹿児島高等学校第三部及び第五部を統合、第三部(旧一高女)校舎に鹿児島県鶴丸高等学校として発足。
- 1951年3月 鹿児島県鶴丸高等学校同窓会結成。
- 1952年4月 校歌制定。
- 1956年4月 現校名に改称。
- 1964年3月 薬師町(現在地、一中跡地)に新築移転。(移転については鹿児島県立鹿児島中央高等学校#沿革の項も参照。)
- 1964年4月 夜間課程が鹿児島県立日新高等学校(鹿児島県立鹿児島西高等学校、後の鹿児島県立明桜館高等学校の前身、現鹿児島県立開陽高等学校)として発足。
- 1971年7月 第1回甲南・鶴丸スポーツ交歓会(甲鶴戦)開催。
- 1972年5月 第2生徒館竣工。
- 1982年3月 生徒館(普通教室棟)増改築竣工、新館竣工。
- 1985年5月 現体育館竣工。
- 1993年5月 創立100周年記念庭園竣工(一中生銅像及び一高女生銅像の製作は中村晋也)。
- 1994年6月 創立100周年記念式典挙行。
- 1994年10月 文化館竣工。
- 2002年4月 2学期制へ移行。
- 2003年1月 第2生徒館耐震補強工事完工。
- 2007年3月 生徒館第1期耐震補強その他工事完工(2006年7月着工)。
- 2008年2月 生徒館第2期耐震補強その他工事完工(2007年8月着工)。
旧鹿児嶋縣立尋常中學校門柱(登録有形文化財)
- 概要
- 一中創立時の門柱は、当時の場所(鹿児島県鹿児島市山下町14-1)に保存され、かごしま県民交流センターの西門になっている。
- 薬師町(現在地)に移転後の1921年4月19日、一中同窓会によって一中の校名板が外され、片方に「鹿児嶋縣立尋常中學校門柱」の文字、もう片方に碑文が刻まれた。
- 登録年月日
- 登録基準
- 国土の歴史的景観に寄与しているもの
- 登録番号
- 第46-0064号
- 構造
- 洋風石造門柱2基
- 間口3.1m
- 本柱:高さ2.3m
- 脇柱:高さ2.2m
- 両側通用門付
- 用途の変遷
- 県立尋常中学校正門 → 県立図書館正門 → 鹿児島県庁舎裏門 → かごしま県民交流センター西門
※本項については以下を参照。
生徒会活動・部活動
- 生徒会
- 1954年、週番制度が始まる。
- テンプレート:要出典範囲
- 部・同好会
文化系24、体育系21の部、12の同好会があり、部活動加入率は7割を超える(2007年8月現在)。
※は休部中(2013年3月現在)
- 文化系
- 体育系
- 同好会
主な過去の成績
- 野球部
野球の名付け親である中馬庚が赴任した1899年に創部された。ただし、中馬が野球部創設に関与したという史料はない。1925年、選抜中等学校野球大会(現・選抜高等学校野球大会)第2回大会に春夏通じて鹿児島県勢として初の甲子園出場(甲子園開場前の大会を含む)。
- サッカー部
全国高等学校サッカー選手権大会に計3回(1950年第28回大会、1951年第29回大会、1957年第35回大会)出場。
- 男子バレー部
1951年、広島国体出場。
- 女子バレー部
1946年、京都国体に出場、準優勝。1956年、兵庫国体出場。
- ラグビー部
1956年、兵庫国体出場。
- 百人一首部
1983年より全国高等学校小倉百人一首かるた選手権大会に県代表として連続出場を続けている。1984年に3位、1996年に4位入賞。2005年に9年ぶりのベスト8、2012年には準優勝を果たした。
アクセス
- JR九州新幹線、鹿児島本線、指宿枕崎線「鹿児島中央駅」西口より徒歩約12分
- 鹿児島市電「鹿児島中央駅前」電停より徒歩約15分
- 鹿児島市営バス 9、13、35番線「鶴丸高校前」バス停より徒歩約1分
- 鹿児島市営バス 2、9、13、23、35番線「西田本通」バス停より徒歩約3分
著名な出身者・関係者
- 軍人
- 有馬正文 - 海軍中将
- 牛島満 - 陸軍大将(1年で熊本陸軍地方幼年学校に転校、のちに配属将校として一中に赴任)
- 野村直邦 - 海軍大将、東條内閣末期の海軍大臣
- 牧野四郎 - 陸軍中将
- 山岡大二 - 海軍少佐、海上自衛隊海将補
- 野田毅 - 陸軍少佐
- 政治・法曹
- 東郷茂徳 - 太平洋戦争開戦時・終戦時の外務大臣
- 池田清 - 元衆議院議員、貴族院議員、警視総監
- 寺園勝志 - 元鹿児島県知事
- 金丸三郎 - 元鹿児島県知事、元参議院議員(自由民主党)、元総務庁長官
- 井之口政雄 - 元衆議院議員(日本共産党)
- 益田哲夫 - 労働組合運動活動家
- 持永和見 - 元衆議院議員(自由民主党)、元厚生省薬務局長
- 大田弘子 - 経済学者、元経済財政政策担当大臣、みずほフィナンシャルグループ取締役会議長
- 柳田稔 - 現参議院議員、元法務大臣(民主党)、広島県選挙区選出
- 小里泰弘 - 現衆議院議員(自由民主党)、小選挙区鹿児島4区選出
- 森山裕 - 現衆議院議員(自由民主党)、小選挙区鹿児島5区選出、前財務副大臣、鶴丸高校・夜間課程入学、日新高校(鹿児島西高校の前身、現・開陽高校)卒
- 皆吉稲生 - 衆議院議員(民主党)
- 宇都隆史 - 参議院議員(自由民主党)
- マスコミ
- 大山勝美 - テレビプロデューサー
- 逆瀬川尚文 - 南日本新聞社社長
- 有村かおり - 元TBSアナウンサー
- 榎田卓央 - 元テレビ東京アナウンサー、テレビ東京営業局考査担当部長
- 小原茂 - NHKアナウンサー
- 鹿島綾乃 - NHKアナウンサー
- 瀬戸口克陽 - TBSプロデューサー、小渕優子の夫
- 岡田祐介 - MBCアナウンサー
- 前原智子 - 北陸放送アナウンサー
- 下松小百合 - KTSアナウンサー
- 山上真実 - KTSアナウンサー
- 経済
- 枝元賢造 - 元サッポロビール代表取締役社長
- 中馬清福 - 朝日新聞社顧問、『新聞は生き残れるか』著者
- 西村道子 - 学習塾昴社長
- 吉留真 - 大和証券SMBC代表取締役社長
- 上村基宏 - 鹿児島銀行頭取(2010年6月~)
- 吉田憲一郎 - So-net代表取締役社長
- 芸能・文化
- 黒田三郎 - 詩人
- 河野修一郎 - 作家、文學界新人賞受賞(『探照燈』)
- 蔵前仁一 - 旅行作家、編集者、装丁家
- 柳田理科雄 - 作家
- 辛島美登里 - シンガーソングライター
- 野口たくお - MBCタレント
- 桃月庵白酒 - 落語家
- 尾崎衣良 - 漫画家
- 平川綾真智 - 詩人(退学)
- 学術
- 原口虎雄(中) - 歴史学者、鹿児島大学名誉教授、原口泉の父。
- 勝田有恒 - 法学者、一橋大学名誉教授
- 好美清光 - 法学者、一橋大学名誉教授
- 久木田重和 - 東京経済大学学長
- 森昌朋 - 群馬大学大学院医学系研究科病態制御内科学教授、日本甲状腺学会理事長
- 福留留美 - 九州大学高等教育開発推進センター・専門職大学院人間環境学府実践臨床心理学専攻准教授
- 江石清行 - 長崎大学医学部心臓血管外科教授、長崎市長射殺事件で手術を担当
- 坂元真理子 - 鹿児島高専一般教育科准教授、英語学者
- 大楽浩二 - 独立行政法人防災科学技術研究所社会防災システム研究領域 主任研究員
- 深見聡 - 長崎大学環境科学部准教授、観光学者
- スポーツ
- 著名な教職員
脚注
- ↑ これは近年の同校発行「学校要覧」よりの引用文であるが、「学校要覧」のみならず、入学式や創立記念式典の校長式辞などでもよく用いられる表現である。しかしながら一方では、1996年に同校百年史編修委員会が編集・発行した『創立百年』の「序章」においては、「本県における中学校設立は山口・九州各県で最後となっているが、女学校は熊本、佐賀、沖縄より早く設置されている。ただ女学校は別として中学校はこれまで見てきたように明治二十七年四月の本校前身である県立尋常中学校の設立が、本県中学校における全く最初のものではないので実質的には最後であったというわけではない。」と述べている。
- ↑ 造士館と本校、及び甲南高校の関係性について、前掲の『創立百年』は、次の如く指摘している。「四月、前年末の県議会などでも話題になっていた分校の独立が実現した。そこで本校は鹿児島県立第一鹿児島中学校と称することになり、分校は鹿児島県立第二鹿児島中学校と称したのである。その開校式は五月十三日に行われたが、その式辞で校長事務取扱沢田事務官の挨拶に『この學校は明治二十九年十二月二十五日新設され縣立中學造士館と称したものが明治三十四年四月三十日に廃され、その五月一日に縣立第一中學校分校として開校し、それが同年九月二日鹿兒嶋縣立鹿兒嶋中學校分校と改稱し三十五年五月二十九日にこの地に校舎新たになり』とその歴史を説いている。明らかに中学造士館から説きおこしている。そうなると現県立甲南高等学校の歴史は、この分校独立からということにはならないのではあるまいか。」このことについては、造士館#後裔および中学造士館も参照のこと。
- ↑ 当時は既に明治17年設立の「鹿児島県立中学造士館(→官立鹿児島高等中学造士館→鹿児島県尋常中学造士館)」が存在し、これが本県旧制中学校(中等教育)課程を担っており、本校前身の県尋常中学校とは館馬場(やかたんばば、現在の国道10号線)を隔てて並立・対抗していた(『鹿児島県教育史 下巻』『創立百年』)。
- ↑ 「高校グラフィティー」『読売新聞』 2006年10月9日朝刊。
- ↑ 第3学年以下は、新設の鹿児嶋縣第一中學校分校に収容された。
関連文献
- 『鹿児島県史 第四巻』(1943) - 鹿児島県編
- 『鹿児島県教育史 下巻』(1961) - 鹿児島県教育委員会編
- 『鹿児島一中記』(1964) - 安田尚義編
- 『研究誌 鶴苑 創刊号』(1974) - 鹿児島県立鶴丸高等学校編
- 『創立百年』(1994) - 鹿児島県立鶴丸高等学校百年誌編集委員会編
- 『創立百周年記念誌 龍門』(1997) - 鹿児島県立加治木高等学校百年誌編集企画委員会編
- 『中学造士館の研究 史料の紹介と考察』(1997) - 山下玄洋
- 『卒業記念誌 はろばろと 第七号』(1999) - 鹿児島県立鶴丸高等学校編
- 『日本の名門高校ベスト100(公立高校編)』(2002) - 日本の名門高校ベスト100(公立高校編)編集委員会編