永田裕志
永田 裕志(ながた ゆうじ、男性、1968年4月24日 - )は、日本のプロレスラー。千葉県東金市出身。新日本プロレス所属。千葉県立成東高校、日本体育大学卒業。
人物
父は千葉県立高校の校長兼野球部監督を務め、千葉県立成東高校では鈴木孝政、中村勝広らを指導した。妹であるネイルアーティスト・永田貴子は、米国で開催されるネイルトレードショー・WINBAで1999年入賞、2000年優勝の実績を持ち、裕志はもちろん、弟である日本の総合格闘家・永田克彦のコスチュームデザインも行なう。ちなみに克彦は、シドニーオリンピックのレスリングで、銀メダリストに輝いている。新日本プロレスの試合でレスリングルールによる対戦もしている。また、父と同様に裕志と克彦も教員免許を持っている。ケンドー・カシンとはチームJAPANでユニットを組む等、特に仲がよい。カシンが大学院に合格した際には「東金デストロイヤー」なる覆面レスラーとして「祝福」に訪れた。現在プロレス界の各タイトルを獲得しながらも、「技をかけながら自ら白目を剥く」キャラを主として「現在、新日本プロレスで最も盛り上がるのが、永田が白目になった瞬間である(金澤克彦)」と言われるほどの人気を博しており、シリアスな試合展開ながらも「ひょうきんレスラー」として人気を博している。
来歴
デビュー以前
1987年、千葉県立成東高等学校卒業後、日本体育大学に入学しレスリング部に所属。全日本学生選手権(1988年)および全日本大学グレコローマン選手権(1989年)で優勝を果たした。
1992年、全日本選手権優勝後、新日本プロレスに入門。同期には中西学、石澤常光(ケンドー・カシン)、大谷晋二郎らがいる。新日本に入門したのは馳浩の紹介。1992年9月14日山本広吉(現:天山広吉)戦でデビューを果たした。
初タイトル獲得まで
1995年、新日本プロレスとUWFインターナショナルとの対抗戦に出場。グレコローマンの下地を生かしたファイトで桜庭和志らと激闘を繰り広げた。
1997年から海外武者修行としてWCWに遠征。1998年に帰国。同年、蝶野正洋の負傷による王座返上を受けて組まれたIWGPヘビー級王座決定戦に自ら本隊代表として志願し、nWo代表のスコット・ノートンと対戦するも、ノートンのパワーに圧倒されて敗れる。
1999年8月28日、神宮球場で中西と組んで、後藤達俊&小原道由を破り、自身初のタイトルとなるIWGPタッグ王座を獲得した。この頃にリングコスチュームを青いショートタイツとレガースにし、以後数度模様などをマイナーチェンジをするもののこのカラーリングで定着する。
G1 CLIMAX優勝
2000年に中西、吉江豊、福田雅一と共にG-EGGSを結成、翌年まで活動。2000年3月2日にはZERO-ONE旗揚げ戦へスポット参戦した。
2001年、「G1 CLIMAX」決勝戦で武藤敬司を破り「G1」初優勝。同年10月8日には秋山準(当時プロレスリング・ノア所属)とタッグを組み武藤&馳組に勝利した。また、この試合をきっかけに新日本内でのスターダムを駆け上がっていくことになる。この年の12月31日、総合格闘技初参戦となったINOKI BOM-BA-YE 2001でミルコ・クロコップと対戦。1R21秒左ハイキックを受け、レフェリーストップによるTKO負け。
2002年1月4日の新日本東京ドーム大会で、前年10月にタッグを組んだノア・秋山の持つGHCヘビー級王座に挑戦するも敗れた。
IWGPヘビー級王座連続防衛記録樹立
2002年4月5日安田忠夫を破りIWGPヘビー級王座を奪取。以降、2003年5月2日に高山善廣に敗退するまで、橋本真也の持っていた防衛回数9を更新する10度の防衛を果たした。
2003年6月6日、ノアの武道館大会に二度目の参戦を果たす。そこで田上明に勝利を収める。1ヶ月後の大阪府立体育会館大会で秋山とシングルで対戦し、ここでも勝利を収め、9月12日の武道館大会で小橋建太の保持するGHCヘビー級王座に二度目の挑戦を果たしたが、王座奪取に失敗した。
11月30日、ノア・北海道立総合体育センター(きたえーる)で棚橋と組んで、本田多聞&小橋建太を倒し、GHCタッグ王座奪取。12月31日、「INOKI BOM-BA-YE 2003」でエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦し、1分2秒左フックでTKO負け。なお、イベント開催自体の開催が危ぶまれ、ヒョードル戦が決定したのが試合前日という混乱ぶりで、開催後も安田忠夫と永田のギャラが未払いとなり新日本プロレスが訴訟を起こすなどのドタバタがあった。永田はIWGPの防衛記録を持つなどのプロレスでの戦績と、アマチュアレスリングのバックボーンを持つことから大いに期待されたものの、2001年のミルコ戦に続く敗戦から、その後のプロレス業界の低迷も相まって「プロレス幻想を打ち砕いた」、「プロレス凋落の戦犯」などと批判・揶揄された。
2004年6月12日、全日本・愛知県体育館で、ケンドー・カシンと組んで、小島聡&カズ・ハヤシを倒し、世界タッグ王座を獲得。3大メジャーのタッグを制覇したのはベイダー、高山善廣に続き3人目。
ヒール転向
2005年1月、マッチメイクに異を唱え、新日本離脱を示唆する発言をする。3月、フロントとの確執の末ヒール転向を宣言。BNJに合流せず、1人で戦うことになった。その後、中西学、ケンドー・カシン、藤田和之らとレスリング軍団「チームジャパン」を結成した。同年4月26日、前田日明がヒョードル戦の内容に苦言を呈したのに対し「ニールセン戦が悪いんじゃないが、ヒョードル戦とはジャンルが違うだろ。胸に手を当てて考えろ。」と発言。
2005年10月、長州力が現場監督として新日本に復帰した際、蝶野正洋を中心とした反長州派が不満をぶつけるなか、中立を宣言する。長州に好意的な選手が少な過ぎるため、棚橋弘至と共に長州とタッグを組まされ、半ばうやむやな形で中西とともに本隊に戻っている。12月11日、当時IWGPヘビー王者のブロック・レスナーと対戦し、敗北。
コミカル路線
2006年に入り、スポーツ新聞の取材時にバレンタインチョコをかじる、徳島での試合を控えて阿波踊りで挑発する、誕生日ケーキを食べながら指をしゃぶるといったコミカルなパフォーマンスを行なっていた。4月にはワールドプロレスリングで試合が放送される際、白目をむいて鬼気迫る表情をする姿に「鬼神」「キラー永田」とテロップが入った。5月の第2回NEW JAPAN CUPでは、決勝でジャイアント・バーナードに敗れ準優勝。中西がZERO1-MAXの大森隆男とタッグを組み、IWGPタッグに挑戦する話が出た際に、王者チームに返上させて自身と山本のタッグや他のタッグを加えてトーナメントを開催することを提案した。
2006年5月、個人事務所「ナガタロック」を設立し、8月4日にリラクゼーションサロン「enishing」を開店した。6月には内外タイムスでコラム『永田裕志のセカンドバッグ』の連載を始める。9月、三冠王者になった鈴木みのるを見て「鈴木にベルトを獲られたんだから全日本のレスラーはB級レスラー」と発言したが、当の鈴木のブログで「B級と言っていいのは俺だけだ。永田はC級」とやりかえされる。その後もタッグ戦で鈴木との抗争を展開し、2007年1月に三冠ベルトを賭けて対決するも、惜しくもスリーパーホールドで敗れる。
IWGPヘビー級王者への復帰
2007年3月、「NEW JAPAN CUP 2007」で優勝。4月13日、大阪・大阪府立体育会館で行なわれたIWGPヘビー級選手権試合で王者棚橋弘至をバックドロップホールドで破り第46代IWGPヘビー級王者に返り咲いた。7月1日にはDRAGON GATEに参戦神戸ワールド記念ホールにてタケちゃんマンのコスチュームで入場しストーカー市川と対戦。9月9日、地元の千葉・東金アリーナで初の主催興業を行なう。10月8日、両国国技館で行なわれたIWGPヘビー級選手権試合で棚橋弘至の挑戦を受け、31分5秒ハイフライフローから片エビ固めで敗北、棚橋がIWGPヘビー級王者に返り咲いた。
2008年1月4日、「IWGP3rdベルト」を賭けてカート・アングルと対戦するもアンクルロックにより敗退。
ZERO1世界ヘビー級王座載冠
2008年2月17日、両国国技館で行なわれる予定の後藤洋央紀戦であったが、永田がウォーミングアップ中にめまいと左半身のしびれを訴え、リングドクターは脳梗塞の疑いがある判断。病院に搬送され試合は中止となった。精密検査の結果脳および頸椎に異常はなく、2008年2月27日会見を行ない、病名は「高血圧から来る出血か、海綿状血管腫ではないか」と説明した。
5月からシリーズに復帰。10月13日、田中将斗を破り、ZERO1世界ヘビー級王座を奪取。2009年2月27日の大谷晋二郎に敗れるまで3度の防衛を果たした。
青義軍、結成
2009年2月15日、昨年脳内出血による体調不良で緊急欠場し実現できなかった後藤洋央紀と両国国技館で1年越しの対決。最後はバックドロップ・ホールドで後藤を沈めた。4月5日には飯塚高史とチェーンデスマッチで対戦するがレフェリーストップで敗北。5月3日、飯塚とドッグカラー・チェーンデスマッチで再戦し飯塚をK.O.勝ちに収めた。
8月に行なわれたG1 CLIMAXでは毎試合、ご当地の球団のユニフォームで入場した。また、最終日にはイチローが着ていたワールド・ベースボール・クラシックのユニフォームを着て登場したた。後に本人のブログでは本物だったと書き記されていた[1]。
同年9月、平澤光秀、井上亘、スーパー・ストロング・マシンとともに青義軍を結成。12月5日には中邑真輔の持つIWGPヘビー級王座に挑戦するもボマイェで敗北を喫した。
TAJIRIとの抗争・和解
2010年1月4日の東京ドームで行なわれたレッスルキングダムIVで元横綱・曙と「ブルーマウンテンズ」としてタッグを組み、TAJIRI・田中将斗組と対戦するも、曙もろともTAJIRIのグリーンミストを受け、最後は永田はTAJIRIのバズソーキックでピンフォール負けを喫してしまい、戦前の公約どおり地元の東金市で自ら銅像になる罰ゲームを受けることになった。
翌1月30日に後楽園ホールでは高橋裕二郎・内藤哲也のコンビ「NO LIMIT」とタッグを組み、TAJIRIとバットインテンションズのジャイアント・バーナード・カール・アンダーソン組による6人タッグマッチを行なうも、裕次郎のチャンピオンベルトによる攻撃に激怒したことで試合中にチーム内で亀裂が発生、いがみ合いの末にNO LIMITは試合放棄し、直後にTAJIRIからグリーンミストを受けて反則勝ちになる。
翌日31日のディファ有明で青義軍の井上亘と共にTAJIRI、飯塚高史と対決、TAJIRIのグリーンミストに対抗して毒霧「ブルーミスト」をTAJIRIに使い、反則負けになるも屈辱を晴らす。しかし、その後はTAJIRIのいないチームとの対決でも惜しみなくブルーミストを使うようになる。そして、2月14日にブルーミストを封印し、自らのストロングスタイルでTAJIRIとシングルマッチで対決、序盤と終盤で2度TAJIRIにグリーンミストを受けるも目の位置を変えることでこれを耐え抜き、腕折り以外で初めて白眼を向き仁王立ちをする「緑の大魔神」に変身。強烈な膝蹴りと投げっぱなしのバックドロップをお見舞いし、腕折りでギブアップ勝ちするも、セコンドの制止が入るまでの間、白目を剥きながらゴングとレフェリーの制止を無視して腕折りを仕掛け続けていた。
その後はTAJIRIとの戦いが無く、8月8日のG1 CLIMAX XXのスペシャルタッグマッチで矢野通の椅子攻撃で右膝を負傷していたTAJIRIとタッグを組み、CHAOSの飯塚高史とCHAOS入りしたNO LIMIT高橋裕二郎のタッグと対戦。始めは2か月近くの抗争を根に持っていたため、TAJIRIに対して冷たい態度を示していたが試合中の飯塚と裕次郎による執拗な右膝攻撃を受けているTAJIRIを見かねて手をさしのばすようになる。
結局、試合はTAJIRIが飯塚に捨て身のグリーンミスト攻撃で反則負けするも、TAJIRIは飯塚からアイアンフィンガーフロムヘルを奪い、序盤での猛攻撃に対し一矢報いようとするも裕次郎に妨害されてしまう。しかし、直後に永田が裕次郎をブルーミストで撃沈させたことでグリーンミストとブルーミストの奇跡の競演を果たし、飯塚を羽交い絞めにしてTAJIRIのアイアンフィンガーフロムヘルによる飯塚への地獄突きに成功する。その後、2人で敬礼ポーズをとり、固く握手をして和解する。
2011年
2011年3月、NEW JAPAN CUPに出場し優勝。4月、全日本プロレスに参戦し、チャンピオン・カーニバルに初出場。決勝で真田聖也を下し、優勝を収め、両メジャー団体春の祭典を制覇する快挙を成し遂げた。
6月18日、大阪大会のタッグマッチに勝利した直後、プエルトリコから帰って来た青義軍の盟友、ヒデオ・サイトーに襲撃を受け、バックステージで「嘘だと言ってくれ…夢だと言ってくれ…」と落胆の声を漏らし続けた。その翌日、盟友の裏切りで落胆している中、全日本に参戦し、諏訪魔の保持する三冠ヘビー級王座に挑戦するも、諏訪魔のバックドロップに敗れる。
8月のG1 CLIMAXでは優勝戦線に食い込む活躍を見せていたが、最終戦のヒデオ・サイトー戦でピンフォール負けを喫し、予選落ちに終わる。9月19日神戸大会でヒデオと対戦。バックドロップホールドで雪辱を晴らし、試合後、ヒデオが平澤に戻りかけたところを矢野通に襲撃され、台無しにされる。
10月10日、矢野と対戦。試合中、矢野が鋏で野上ジャスティス慎平アナの髪を切ろうとするがそれを永田が阻止する。最後リバースナガタロックⅢを繰り出すと返盃で再び返されるが、それを逆に丸め返して勝利。全試合終了後、IWGPヘビー級王座を保持する棚橋弘至に挑戦表明を行うも、矢野のベルト強奪という暴挙に見舞われ、挑戦表明が流れてしまう。
11月12日大阪大会、棚橋と矢野のIWGP戦終了直後、負けたにも関らずふてぶてしくベルトを持ち逃げしようとした矢野を花道で迎撃。ベルトを奪い返し、棚橋に返却すると改めて挑戦表明を行い、棚橋がこれを承諾したことで10月に成立しなかったIWGP挑戦が正式に決まる。12月4日、IWGPヘビー級選手権に挑戦。30分以上にも及ぶ死闘を繰り広げるが最後は、棚橋のハイフライフローで敗北する。
2011年度年間プロレス大賞にて、NJC・チャンピオンカーニバルを二冠優勝し、「春男」の名を欲しいままにしたた功績とアンチエイジングを目標に掲げての元気溌剌なファイトスタイルを認めてもらい、敢闘賞を受賞した。
2012年
2012年1月4日のレッスルキングダムIVに24年振りに新日本に参戦する船木誠勝とタッグマッチで激突(永田のパートナーは井上亘、船木のパートナーは河野真幸)。試合終了直後、試合中に顔面(左目)への膝蹴りを受けたことに憤慨した船木の挑発に激怒、殴り合いの乱闘となった。
2月3日、東京ドーム大会での永田の膝蹴りで左目を負傷し、半年間の長期欠場が決まった船木の仇討ちを直訴してきた「STACK OF ARMS」河野真幸の挑戦を受け、全日本プロレスのリングでタッグマッチを行う。河野のパートナーの田中稔をバックドロップホールドで勝利を収め、全日本のリングでナガダンスを披露する。
その後、河野とシングルマッチで対戦するも、両者リングアウトで試合が終わり、その後、延長戦が行われるも永田のレフェリー無視が原因で起きたセコンド陣の乱入・乱闘で無効試合と不透明決着となる。3月4日、後楽園大会で再び河野と全日本プロレスのリングで、シングルマッチで対戦。今度は、場外カウントなしの決着戦で、リバースナガタロックⅢで勝利。3月20日、両国大会で河野と完全決着となるシングルマッチで対戦。今度は、ギブアップ・KOのみの、金網戦となり、最後はバックドロップで、KO勝ちを収めた。
11月、プロレスリング・ノアの開催するグローバル・リーグ戦に出場、開幕4連勝と健闘するも最終日の森嶋猛戦に敗れリーグ敗退。敢闘賞を受賞。
2013年
2013年1月4日、レッスルキングダム7の舞台で因縁の相手鈴木みのると対戦。バックドロップホールドで勝利した。
その後、昨年9月よりフリーランスとして新日本に参戦している桜庭和志に目をつけ、4月7日両国大会で後藤洋央紀をパートナーに桜庭、柴田勝頼組と対戦。ところが、試合終盤に放ったバックドロップを桜庭が上手く受け身を取れずにマットに着地。右肘の関節が不自然に曲がっていたことからレフェリーが試合を止めさせ、レフェリーストップ勝ちを収める。桜庭は「右肘関節脱臼」と診断され、長期欠場となってしまった。
6月22日、脱臼から回復した桜庭から復帰戦の相手として名指しで逆指名され、これを受諾する。7月20日秋田大会、地元での復帰戦となった桜庭とシングルマッチで初対決。最後は腕ひしぎ逆十字固めで捕えられてしまい、ギブアップ負けを喫した。
その後、桜庭とは9月29日の神戸大会でもタッグマッチで対戦したが、10月14日の両国大会で来場したグレイシー一族の挑発を受けて意気投合しタッグを結成。その後、11月9日の大阪大会では矢野通、飯塚高史組と対戦し、勝利を収めた。
11月10日 二年連続出場となるグローバル・リーグで優勝しメジャー3団体全てのシングルリーグを制覇するという偉業を成し遂げた。
2014年
1月4日、レッスルキングダムにおいて、桜庭とタッグを組み、ダニエル・グレイシー、ホーレス・グレイシー組と対戦。ダニエルに道着での首絞めを受け反則勝ちとなった。
2月8日、森嶋猛を破り、新日本プロレス所属選手としては初のGHCヘビー級王座を戴冠した。
2月11日、THE NEW BEGINNING大阪大会において、永田、桜庭対ダニエル、ホーレス組のリマッチが行われた。今回はプロレス対柔道の異種格闘技ルールとしてオープンフィンガーグローブでのパンチおよびチョークスリーパー、道着での首絞め有効の特別ルールで行われる。試合は桜庭がホーレスに道着でのチョーク攻撃を受け敗れた。
7月5日、丸藤正道に敗れ、GHCヘビー級王座から陥落した[2]。
得意技
フィニッシュ・ホールド
- バックドロップ・ホールド
- 永田の若手時代からの代表的なフィニッシュ・ホールド。投げられる相手は高角度でマットに叩きつけられる。ホールドにいく際にはブリッジをせずに自分の体を捻って覆いかぶさるような形になる場合が多い。元は通常型となるブリッジして固めるタイプを使用していたが、平成19年の越中詩郎とのIWGPヘビー戦あたりから、現在のフォームに変えた。
- 若手時代はバックドロップ・ホールドの考案者であるジャンボ鶴田に顔つきが似てると言われ「鶴田二世」と呼ばれていた。
- エクスプロイダー・オブ・ジャスティス
- 2013年のG1クライマックスから使用している、バックドロップ・ホールドに次ぐ新必殺技。リストクラッチ式エクスプロイダーの、相手の逆の手首を掴むバージョン。主に、バックドロップ・ホールドで試合が決まらなかった場合に使用するため、この技が最上級のフィニッシュ・ホールドである。
投げ技
- エクスプロイダー
- 秋山準の代表的な必殺技で、秋山とライバル関係を意識したあたりから使い始める。公開練習において秋山より直接伝授された。お返しに永田はナガタロックIIを秋山に贈った。
- リストクラッチ式エクスプロイダー
- 相手の手首を持ってのエクスプロイダー。
- パワー・スープレックス
- カウンター式のフロント・スープレックス。若手時代から愛用しており、現在もチェンジ・オブ・ペースとして使用している。
- マジックスクリュー
- 相手の頭を脇に挟んで持ち上げ、足をトップロープにかけ、そのまま首に対して自分の体を旋回させる(首へのドラゴンスクリュー)。
- 全日本・武藤の「ネックスクリュー」とは若干異なり、相手の腕を肩に掛けた状態で仕掛ける。元祖は永田裕志である。
- ドライブスクリュー
- スクリュー・シリーズその2。ブレーンバスターの体勢で持ち上げてきりもみ式に相手を脳天から落とす技。
- サンダー・デス・ドライバー
- 旋回式垂直落下ブレーンバスター。
- スペシャル・ローリング・サンダー・デス・ドライバー (SRTDD)
- ブレーンバスター、垂直落下式ブレーンバスター、サンダーデスドライバーを続けて放つとこの名称になる。対カート・アングル戦に向けて開発された。
- ノーザンライト・スープレックス・ホールド
- 師匠馳の影響を受けてか昔から時々使用している。
- フェース・バスター
- フロント・スリーパーの体勢で捕らえ、顔面からマットに叩きつける荒技。ナガタロックIIの繋ぎ技として使用する。ゲーム等では「ナガタバスター」「サドン・インパクト」という技名になっている。
打撃技
- 各種キック
- ローキック、ミドルキック、ハイキックそれぞれを使う。ビッグブーツも得意技。軸足を踏み切ることで放つビッグブーツ(ロケットキック)をキックボクシングの伊原道場でトレーニング中に開発した。また、現在もキックボクシングジムでのトレーニングは欠かさない。
- 延髄斬り
- アントニオ猪木の代名詞とも言える技。立っている相手に対して、ジャンプして後頭部へ回し蹴りを決める。この技に移行すると見せかけて、相手の膝へ低空ドロップキックを放っていくフェイント技が存在する。
- サッカーボールキック
- 尻餅をついている相手の背中を足の甲で蹴りつける。永田の場合は、蹴りを見舞う前に一度ムエタイのようなポーズを構えてから見舞うことが多い。
- タイナー
- コーナーにもたれかかっている相手の顔面に駆け上がって膝をぶち込む技。相手の蹴り足をキャッチしてそのままコーナーに押し込んで使用するパターンもある。
- 野上慎平アナウンサーからは自身のニックネームから転じて「ジャスティス・ニー」と呼称されている。
- ショルダーアームブリーカー
- 相手の腕をひねり、相手に背を向けるように立ち自身の肩に取った相手の腕の肘の部分を叩き付ける技。永田が相手の腕を折りにかかるときに使用される頻度の高い技。通称「腕殺し」。実際には相手の肘の内側を自分の肩にぶつけるようにしていて、相手の腕が折れない程度にダメージを与えるように考慮している。
- ムエタイ式エルボー
- 通常のエルボーと違い、額に向けて高速で何発も放つ。
- レフト・ジャブパンチ→ライト・フック
- 左手でジャブを見舞い最期に右手を大きく回してフックを放つ。
- シャイニング・ウィザード
- ここ一番では、両腕を大きく動かしアピールして放つ。
- サンダー・デス・キック
- 本人曰く、得意のキックに鋭さと力強さを加えた技。2006年のNEW JAPAN CUPに向けて開発された技だが、試合中に繰り出されたことは未だに無い。
関節技
- ナガタ・ロック・シリーズ
- ナガタ・ロック
- 変形足4の字固めと膝十字固めの複合技。体勢に入る前に敬礼のポーズをとるのが特徴。安生洋二のグランドクロス200とほぼ同じ。
- ナガタ・ロックII
- 若手時代からの得意技。グラウンド式の腕極め顔面締め。
- クロスフェイスとは若干フォームが異なり相手の首を締め上げる方向に曲げ、前腕部から腕全体で極める。
- 技の命名者は同時期にWCWに参戦していて仲が良かったカズ・ハヤシ。
- ナガタ・ロックIII
- ナガタ・ロックIIの体勢から移行し、コブラツイストのような形で相手の上半身を締める。当初永田はミルコ戦での初公開を予告していた。だが実際には対西村修戦で初公開された。これは極度の軟体であり通常の関節技が効かないとされていた西村に対しての対抗策であった。
- ナガタ・ロックIV
- 2006年5月3日、福岡国際センターでの真壁戦で初公開。ナガタ・ロックIIとほぼ同型だが、腕を両足で挟んで極めたIIとは異なり、足を使っての脇固めのように片腕を極めてのクロスフェイスである。
- 腕固め
- うつ伏せ状態の相手の腕を取り、またがるようにしてそのまま相手の上に乗っかるような体勢で腕を極める。腕ひしぎ十字固めと異なり、自分が立ったままの状態で極める。鈴木みのる戦で顔面をプルプルさせながら白目を剥く表情が「キラー永田」と呼ばれ、以後も「白目式腕固め」と称され定番となっている。
その他
- リバース・ナガタロックIII
- ナガタ・ロックIIIの体勢からさらに移行し、横方向に回転して相手の両腕を極めたままフォールの体勢にする技。ギブアップを奪う技ではなく、フォール技の一種。
- ファイヤーマンズキャリー・ホールド
- 稀に使用する押さえ込み技。
- ブルーミスト
- 永田がTAJIRIとの抗争中に使用した青色の毒霧。しかし初公開の時は毒素が強すぎて(青い)色素まで死んでしまったために無色透明になってしまった。
獲得タイトル
- 新日本プロレス
- 第31代、46代IWGPヘビー級王座
- 第39代、56代IWGPタッグ王座(パートナーは中西学→井上亘)
- G1 CLIMAX優勝(2001年)
- NEW JAPAN CUP優勝(2007年、2011年)
- G1 TAG LEAGUE優勝(2000年、2010年)
- 全日本プロレス
- 第50代世界タッグ王座(パートナーはケンドー・カシン)
- チャンピオン・カーニバル優勝(2011年)
- プロレスリング・ノア
- ZERO1-MAX
- プロレス大賞
- 年間最高試合賞(2001年):藤田和之×永田裕志(6月6日/新日本プロレス・日本武道館:IWGPヘビー級選手権)
- 年間最高試合賞(2002年):永田裕志×高山善廣(5月2日/新日本プロレス・東京ドーム:IWGPヘビー級選手権)
- 敢闘賞(2011年)
戦績
総合格闘技
テンプレート:Fight-start テンプレート:Fight-header テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-end
入場テーマ曲
- MISSION BLOW(ビッグマッチ前奏:彼こそが海賊-He's A Pirate-)
- MISSION BLOW (DJ Remo-con REMIX)
- MISSION BLOW (凱旋帰国試合使用バージョン)
- BLADE RUNNER (END TITLES)
- WARP(1997年の海外遠征出発まで使用)
敬礼ポーズ
敬礼ポーズは2000年頃から使われ始め、永田の代名詞と言ってもよい。今でこそ敬礼と言われているが、元々はナガタロックに入る時に会場の隅々まで見渡してやるという思いから使用しだした(ザ・プレイステーションインタビューより)。実際に、敬礼をする際には「会場の一番隅を見ている」と語っている(百識王より)。敬礼する時の掛け声は本人曰く「ゼァッ!」。
尚、アントニオ猪木はこのポーズを嫌っている。
近年ではタイトル獲得後などは「1、2、3、ゼアッ!」で締めることが定番となっている。
著書
- 『王者の挑戦―プロレス新時代のエースは俺だ』講談社、2003年。ISBN 978-4-06-211776-0。
- 『永田さんのかんがえたこと』エンターブレイン、2009年。金沢克彦との共著。
俳優業
- 劇場用アニメ『聖闘士星矢 天界編 序奏〜overture〜』(2004年2月公開) - 神々役
- アニメ『リングにかけろ1』(2005年、東映アニメーション)第7話において少年時代の本人役で出演、劇中での石松の地元での友人を務めた[3]。
- テレビドラマ『怪盗ロワイヤル』(2011年、TBS)最終話に本人役で出演。
- 『劇場版 ATARU THE FIRST LOVE & THE LAST KILL』(2013年9月14日公開) - 青義刑事役
- 劇団コラソン「先輩かっけ~っす!リターンズ」(2014年2月27日~3月2日、新宿・タイニイアリス) - ユウジ役
その他
- 永田本人の述懷によると、日体大のレスリング部で寮生活や先輩の理不尽な言動に慣れていたので、新日本プロレスでの道場生活にもすぐ適応した。寮で新聞を読んだり(新人は雑用に追われて休息の取れない生活を送ることが当たり前だった)、当時鬼コーチとして知られていた佐々木健介と笑顔で会話する永田を見て、唖然とする同期生も居たという。
- 嶋大輔が会長を務める永田会という後援会が存在する。
- ナガタロックIIが生まれ経緯は「93年頃はよく藤原組で練習していて、その時にカール・マレンコが逆腕キーロックみたいな状態からフェースロックを狙っていたのを見てアレンジ出来ないかって。で、試合前に練習していた時にカブキさんがアドバイスしてくれたんですよ。片方の腕を自分の足に挟んで、体重を相手の背中にかけてフェースロックをかけたら効くんじゃないかって。それで出来上がったのあの技だったんです。」と語っている[4]。また当時クリス・ベノワにこの技を盗まれ米国で使われていた。これについて永田は「ちょっとやられてたなって思いましたよ。当時向こうはトップで俺はペーペーだからね。だから俺は使うのをやめて、足を極めるナガタ・ロックIを誕生させたんですよ。」と語っている[4]。これによりIとIIの数字順が入れ替わる逆転現象が起きた[4]。
- 試合中に自身のブルーミストを誤って飲んでしまい、白目を剥いて倒れてしまうというアクシデントが起こった。
- 定番の白目があだとなりナガタ・ロックを仕掛けているにも関わらず何故かドクターストップを食らう破目になった。
- テレビ朝日の深夜バラエティトーク番組『アメトーーク!』でのプロレス企画「プロレス芸人(第2回 俺達のプロレスオールスター戦)」で、プロレス好きのお笑い芸人が選んだ今後期待のレスラーとして『白目を剥いて戦うレスラーだから』という理由で永田が選ばれた。因みに、同コーナーにおける永田の試合映像は東京ドーム大会で鈴木みのるとの対戦中に白目を剥いているシーンばかりだった。
- 芸能活動に関してはフィットワンと業務提携している。
- 2008年からG1 CLIMAXの前に「特訓」を行うことが恒例となっている。
脚注
関連項目
外部リンク
- 新日本プロレス 公式プロフィール
- NAGATA LOCK - 公式ホームページ
- 永田裕志のサンダーデスブログ - 公式ブログ
- 永田裕志のオフィシャルブログ 【I'm NJPW】 - 公式ブログ
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- SHERDOG 選手データ
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テンプレート:フィットワン- ↑ 永田裕志のサンダーデスブログ - 2009年8月17日
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 4.0 4.1 4.2 新日本プロレス技BOOK 2002年11月25日号