秋山準

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テンプレート:Infobox プロレスラー 秋山 準(あきやま じゅん、男性、1969年10月9日 - )は、日本プロレスラー実業家。本名は秋山 潤大阪府和泉市出身。全日本プロレス所属。本名の秋山潤名義で、全日本プロレス運営会社「オールジャパン・プロレスリング株式会社」、および有限会社アキヤマ・インターナショナル・コミュニケーションの代表取締役社長を務める。

なお、ノア移籍以前の全日時代はリングネーム「準」の下部にある「十」の右下に「、」をつけていた(命名の際、デビューから一定期間を過ぎたら「、」を外すよう命名者に言われていたらしい)。

かつては、対戦相手の負傷箇所を非情なまでに痛めつけるファイトスタイルから「氷の秋山」「キラー秋山」等と呼ばれた。団体トップでありながら他団体マットにも積極的に参加している。

来歴

学生時代

中学時代は水泳部に所属。レスリング高石高校進学後から始めたが、フリースタイル81kg級でインターハイ国体に出場するなど、素質とセンスの高さを見せた。専修大学レスリング部時代(3年上の先輩に中西学がいる、柔道部の高阪剛は同級生で友人。)は1年時に全日本学生選手権で準優勝を果たす他、4年時にはレスリング部の主将も務めた。

全日本プロレス

バスの中で吊革にもたれかかり疲れてうなだれるサラリーマンの姿を見て自分はああなれないと悟り、プロレスラーとして生きることを決意した。全日本プロレス入団へのきっかけとなったのはジャイアント馬場自らのスカウトによる。大学4年生時の7月のある日突然、当時専修大のレスリング部ヘッドコーチを務めていた松浪健四郎に「スーツを着て赤坂のキャピトル東急ホテルに来い」とだけ言われたとのことで、ホテルに馬場夫妻がいる事やスカウトの話しである事はまったく知らなかったという[1]。秋山は元々新日本プロレスの入団テストを受験していたが相手にされなかったことや、秋山自身がジャンボ鶴田のファンだったこともあり、馬場本人からのスカウトに感動して全日本プロレスへ入団した。秋山が全日本プロレスへ入団することを知った専大OBの長州力は「なんであんないい奴、取らないんだ!」と、同じく専大OBで当時新日本プロレスのスカウトも兼務していた馳浩を怒鳴りつけたそうであるテンプレート:要出典(後日、馳はこの件について「秋山の古傷である腰の状態が思わしくないため、プロレスは無理だと判断した」と語っているテンプレート:要出典)。

入団当初からジャンボ鶴田二世として期待され、1992年9月17日、後楽園ホールのセミファイナル(45分1本勝負)・小橋健太戦でデビューすると、同年末の『'92世界最強タッグ決定リーグ戦』には病気療養中の鶴田の代役として出場を果たす(パートナーは田上明)。その後も同期の大森隆男や、先輩三沢光晴、小橋とのタッグでタイトルを獲得するなど、団体の看板レスラーの一人に成長する。プロレス四天王と並ぶ五強と呼ばれた。

プロレスリング・ノア

2000年7月、全日本集団離脱からプロレスリング・ノアへ移籍。以前はイメージカラーのブルーのショートタイツを身に着けていたが、ノア移籍後は白主体へと一新した。三沢や小橋のパートナーという位置付けから独立し、若手を率いて「STERNNESS(スターネス)」を結成。旗揚げ戦初戦のメインで小橋とタッグを組み、1本目を三沢から、2本目を田上から取る。翌日のメインでの小橋とのシングルでも勝利を収める快挙を見せるなど、以降は団体の中心選手として活躍。

2001年7月27日日本武道館で三沢を破りGHCヘビー級王座を獲得。念願のシングル王座初戴冠を果たし3度防衛。2002年9月には、齋藤彰俊とのタッグでGHCタッグ王座も獲得した。

全日本時代とは異なり、他団体との交流戦にも積極的に出場。新日本プロレス永田裕志と団体の垣根を越えた信頼関係を築き、2002年1月の新日本東京ドーム大会ではメインでGHCヘビー戦を行い、永田に勝利した。2003年には新日本のG1クライマックスに参戦し決勝戦に進出するも、天山広吉に敗れた。

2004年3月には、団体の管理する正式ベルトの名称である『GHC』を模した白GHC(グローバル・ハードコア・クラウン)ベルトを創設した。

2005年10月にはWRESTLE-1 GRAND PRIX 2005に出場し、2回戦でボブ・サップとの対戦が実現するが敗れる。

2006年1月22日、GHCヘビー級選手権者・田上明を後頭部へのロージャンピングニーで下し、3年9か月ぶりにGHCヘビー級選手権者(第9代)へ返り咲いた。同年9月9日、挑戦者丸藤正道に完璧首固めで敗れ(27分29秒)、王座から陥落した。試合前に菊地毅と負けたら前座に戻ると約束していたため、翌月のシリーズでは6年3か月ぶりに青タイツで登場した。

2008年7月、秋山は東京スポーツ紙上で、森嶋猛に力皇猛が挑戦するGHCヘビー級選手権でタッグパートナーの力皇が勝てなければ坊主にすると公約してしまった(自分がうっかり言ってしまったことを記者によって記事にされてしまう)。試合で力皇は王座獲得に失敗、8月のシリーズ開幕前に公約を守って坊主頭にした。

2009年3月、佐々木健介が保持していたGHCヘビー級王座に挑戦し、勝利。約2年半ぶりに3度目の王座に返り咲いた。翌月、潮崎豪と防衛戦を行ない、勝利。また、5月17日にはKENTAと初のGHCシングル王者同士の一騎打ちを行い"元祖"スターネスダストαを解禁し、勝利した。

2009年6月14日、ヘルニアのため同王座を返上、以降の大会を欠場すると発表された。同年12月23日の丸藤正道プロデュース興行(ディファ有明)において橋誠戦でリングに復帰。リストクラッチ式エクスプロイダーで勝利した。橋は同年末付でノアとの契約が満了しフリーとなっており、師匠である秋山からのはなむけの師弟対決となった。

2010年3月 - 5月、ノア初のシングルリーグ戦となるグローバル・リーグ戦に出場。Aブロック1位となり、決勝戦で高山善廣とノアでは初のシングル対決を行うが、エベレストジャーマン・スープレックス・ホールドに敗れ準優勝となった。

2011年春にチャンピオン・カーニバルに出場。秋山にとって11年ぶりの全日の登場となった。また、ノアのグローバル・タッグ・リーグで斎藤彰俊とタッグを組んで優勝する。

2011年9月の永田裕志主催の「BLUE JUSTICE. 3 ~青義~」のメインタイトルマッチで永田とタッグを組んで出場、試合中に永田と一緒に腕固めを仕掛けた際に白目を剥いて行い、観客を湧かせた。

10月23日、全日本両国大会にて諏訪魔をスターネスダストαで破り、全日本時代には獲得できなかった三冠ヘビー級王者となる。その後、生やしていた頭髪を剃り落とし、スキンヘッドとなった。

12月、プロレス大賞殊勲賞を受賞する。

2012年1月22日、斎藤とタッグを組んで新日本プロレスに流出したGHCヘビー級タッグベルトを奪還すべく、BAD INTENTIONSと対戦。これに勝利し、三冠とGHCタッグの四冠王者となる。

同7月22日のノア初の両国国技館興行ではTNAのマグナス、サモア・ジョー組の挑戦に敗北。齋藤彰俊と共に保持していたGHCタッグのベルトを流出させてしまう。

三冠ベルトは太陽ケア、大森隆男、武藤敬司ら全日本の挑戦者を退け4度の防衛を果たしたが、8月26日に船木誠勝に敗れて手放した。

12月、年内をもってプロレスリング・ノア退団が会社より発表、12月24日有明大会を最後に退団した。

全日本プロレス(再入団)

2013年1月に行われた決起集会で、小橋からバーニングを託され、潮崎豪、金丸義信、鈴木鼓太郎、青木篤志らを率いて再結成した。

1月26日、全日本プロレス「2013新春シャイニング・シリーズ」の最終戦に5人で来場し参戦を発表。

7月5日、バーニングが、全日本プロレスに正式入団を発表。

2014年6月6日、新会社を設立し7月1日付けで新会社側の社長に就任すると発表された[2]。その後新会社の社名が「オールジャパン・プロレスリング株式会社」と決まり、代表取締役社長に就任し7月1日より全日本の運営を引き受ける [3]

入場曲

  • 初代: U. S. FINAL BATTLE … デビュー -
  • 二代目: SHADOW EXPLOSION … 1996年頃 -
  • 三代目: STERNNESS … 2001年10月6日 -

長年使い続けた「SHADOW EXPLOSION」を変えたとき、「大会場に映える曲」と発言していた。実際にこの2日後の10月8日に、新日本プロレス東京ドーム大会に出場している。

主な得意技

エクスプロイダー
相手と向かい合い、右手を肩口へまわし左手を太腿の外から股に差し入れ後方へ反り投げる変形の裏投げ。素早く仕掛けられる為走りこんでくる相手へのカウンター技としても用いることが出来、また角度を調節することも可能な使い勝手の良い技である。受身の天才である三沢光晴をして「秋山のスープレックス(エクスプロイダー)は通常とは違い横向きに投げられるので受身が取りづらい。はっきり言ってやっかいだよ」と言わしめたほど。
バリエーションとして断崖式・雪崩式が存在するが、危険すぎるため一時期封印していた(雪崩式を食らった三沢は首に重傷を負った)。また断崖式が出されたのは2004年東京ドームにおける小橋戦、2007年武道館でのモハメド・ヨネ戦の2回。ただし小橋にはコーナートップからの断崖式という危険なシチュエーションで繰り出している。
新日本プロレス所属の飯塚高史の「ブリザード」とはロックの仕方が左右逆。雑誌のインタビューでは、左手を相手太腿のどこへ添えるかで角度を調整していると話している。
リストクラッチ式エクスプロイダー
股下を通した左手で相手の左腕を掴み、受身が取れない状態で後方に反り投げる。相手の股下を通したリストクラッチにすることで相手は急角度のフロント・スープレックスのような角度で脳天から後頭部を前に突っ込むよう鋭角的に叩き付けられるため、技の威力が非常に高い。以前までならこの技が決まれば試合はお終いとなっていたが、最近ではカバーに入る際に片エビ固めではなく体固めの体勢で押さえ込むため、キックアウトする相手も出てきている(以前は渾身の力で片エビ固め(3つ目のカウントが入るときにはほぼエビ固め)で押さえ込んでいたため、返されることは皆無だった)。
変形リストクラッチ式エクスプロイダー
リストクラッチしてのフィッシャーマンズ・スープレックス。後述のスターネス・ダストγと似た技であるが、垂直落下式のバスターではなく、自身もブリッジで反り返るスープレックス系の技であるという点で異なる。2007年1月潮崎豪に対して初めて繰り出し、その後も度々使用されている。
スターネス・ダストα
リストクラッチしてのフィッシャーマンズバスター。志賀が長期欠場する一因となった技である。このことを秋山は非常に後悔しており、半封印状態となっていた時期もあった。
変形スターネス・ダストα
スターネス・ダストαの形で持ち上げ、開脚して尻餅をつきながら、みちのくドライバーIIのように相手を垂直に落とす。初出は2009年3月のGHCヘビー級選手権。近年の王座戦はこの技で決めることが多く、一度もキックアウトされたことがない。
スターネス・ダストγ
αと同じくリストクラッチ式のフィッシャーマンズバスター。αはリストクラッチ式のバーニングハンマーに似た落とし方だが、この技はクラッチだけはリストクラッチで普通のフィッシャーマンズバスターの落とし方で落とす。最近はこの落とし方が多いが、この技を実際に使ったのは一度だけで、試合結果にはスターネスダストαと表示されている。
フロントネックロック
フロントスリーパーと胴締めの複合技。非常に動きづらく、逃げ出すことがほぼ不可能である。相手のスタミナを削ぐ繋ぎ技としても使われる。三沢によると「打開する方法は無い」とのことだが[4]、小橋と中西学が共に力ずくで返したことがある。小橋は両腕で踏ん張って首を抜くことができたが、これは秋山が小橋の右腕をクラッチできないまま技へ移行したためである。一方、中西は技が完全に決まった状態から秋山の体を持ち上げて立ち上がり、秋山を後方に投げ捨てた。
タラバガニロック
フロントネックロックの発展系。まず足を監獄ロックで捕らえてから、フロントスリーパーに移行する。足の自由が奪われるため、フロントネックロック以上に身動きが取れない。なお、名前の由来は小橋の秘密特訓にかけられたものである。
ジャンピング・ニーバット
相手に走りこんで飛び膝を相手の顔面・首筋に当てる技。これを出した際に当時の日本テレビ実況アナウンサーの若林健治が「ジャンボ鶴田直伝!」と叫ぶのはお約束と化していた。秋山もそれを誇りにしており、「一番思い入れのある技は何ですか?」という雑誌のインタビューに自身のオリジナル技ではなくジャンピングニーを選んでいる。なお、上半身を真っ直ぐに立て垂直に飛び上がり膝から脛付近を『面』で当てる鶴田のそれと比べると、胸を反らし腰から下を前方に突き出し膝頭を『点』で当てる。低空式で放ったり、後頭部へも放つことがある。
ブルーサンダー
背後から抱えてジャンピングボムの形で落とす技。全日本時代初期のフィニッシュ・ホールドで秋山のイメージカラーから名付けられた。現在は橋誠が「ゴリサンダー」の名前で受け継いでいる。
ナガタ・ロックII
新日本プロレス永田裕志が得意とする、グラウンド式の腕極め顔面絞め。2001年10月8日の新日本東京ドーム大会において永田とタッグ結成が決定した際、合同公開練習中に永田本人から直接伝授。秋山は代わりに、自らの必殺技エクスプロイダーのコツを永田に教授した。
ネックアンドアームブリッジ
別名橋いじめ、橋殺し。相手の片腕を取りテコの応用で相手の首を絞り上げる。佐々木健介が使うストラングホールドαと同種のダメージを与える技だが、ネックアンドアームブリッジの場合は技をかけている側は腕ひしぎ逆十字固めのようなあお向け状態である。
ノーザンライト・スープレックス・ホールド
専大の先輩でもある馳が開発した変形のフロント・スープレックス。串刺しエルボーからのロコモーション式で放つパターンも多い。最近はエクスプロイダーを多用しているため、あまり使用しない。
ドラゴンスクリュー
相手の足を捕えて回転し、膝にダメージを与える技。過去にはエプロンから断崖式で放ったこともある。
ゴッチ式パイルドライバー
全日時代(ノア移籍以前)に多用していた技。通常のゴッチ式と違い、相手の顔が自分の方を向いた形(ツームストーン・パイルドライバー)で繰り出すのが特徴。

主な獲得タイトル

全日本プロレス

プロレスリング・ノア

DDTプロレスリング

プロレス大賞

  • 殊勲賞 (2000年、2001年、2011年)
  • 技能賞 (2003年)
  • 敢闘賞 (1998年)

人柄

他のレスラーとの関係

馬場との関係
新人の頃、馬場にシャツの裾が出ていることを注意され、一度裾をズボンに入れるがすぐに「馬場さん、やっぱりこっちの方が良いです」と言ってまた裾を外へ出した。全日本において絶対的存在であった馬場へ口答えした秋山を見て他の選手は慌てふためいたものの、「コイツは大物になる」と感じた馬場は「最近の若者はよく判らん」と言いながら笑って許した(ちなみに馬場の教えから、現在もノアの選手の多くがシャツの裾をズボンに入れている)。
秋山を正統派のベビーフェイスに育てたかった馬場は「ストンピングのような下品なことはするな」と指導したが、秋山は試合中に使っていた。
小橋との関係
鳴り物入りで入団した秋山も、新弟子時代は厳しすぎる練習の日々と先輩からの嫉妬の目で心身とも参っていた。その時「何かあったら俺が相談に乗るよ」と言ってくれたのが他ならぬ小橋建太である。「人生で一番つらい時期」を助けてくれた小橋との歴史はここから始まる。小橋相手のデビュー戦は「何も出来なかった」と後に述懐しており、完全に小橋に引っ張ってもらった試合であったと語る。数年後、その小橋と「BURNING」を結成し、三沢・小川組の「アンタッチャブル」、川田・田上組の「聖鬼軍」、そして高山・大森組の「ノーフィアー」と激戦を繰り広げ、世界タッグ王者のベルトも巻いた。
しかし、2000年2月に下克上を掲げて反旗を翻し、NOAHの旗揚げ戦、有明決戦と経て現在は最大のライバル関係となっている。「小橋が居るからNOAHは最高」や、「僕がNOAHを辞める時は小橋さんが辞める時」、そして三沢光晴を破って初めてGHCを戴冠した時に長期離脱中だった小橋のために「小橋さんが戻ってくるまで巻いている」等の発言から分かるように秋山は心から小橋を尊敬しており、秋山のプロレス人生には常に小橋建太が存在していた。
2度目のGHCを奪取した時もベルトを腰に巻かなかった。理由として「小橋さんに勝つまでは巻かない」と、秋山の中ではたとえベルトを持っていたとしても、最強の人は小橋であることが良く分かる。雑誌等のインタビューでは大半が小橋の話題で埋め尽くされ、天然の小橋が何かをする度に鋭い突込みを入れるようになっている。
川田との関係
川田利明はあまり好きではなかったと公言しており、「全日本時代、川田さんのことは本当に嫌いだった。でも、自分がプロレスラーとして強くなれたのは、川田さんに叩きのめされ続けてきたから」と、多くのインタビューで語っている。なお、対四天王シングル戦では唯一、川田にだけ未勝利であるため、川田に勝つことが出来れば旧四天王越えが達成される。
KENTAとの関係
尊敬する小橋をめぐって、KENTAとは犬猿の仲であり、試合でタッグを組むことは無い上、対抗戦となるとKENTAは、感情を剥き出しにして秋山に攻めかかり、秋山も冷徹非情にKENTAを痛めつける。KENTAは秋山のことを『秋山氏』『白パン』と呼ぶほど両者の溝は大きいが、秋山自身は雑誌インタビューで「丸藤正道KENTAはどちらが将来性があるか」と尋ねられた際、「身体を張って頑張っているのだから、KENTAの方が将来性がある」と認めており、GHC防衛戦の際も「ジュニアが身体張って頑張っているのだから」と認める発言を最近は繰り返している。

不覚

普段は沈着冷静な試合運びをみせるが、ビッグマッチでは一瞬の隙を突かれ短期決戦で敗れたことが幾度かある。

  • 全日時代の2000年のチャンピオン・カーニバルでは、1か月前にシングルで三沢超えを果たし優勝候補に上げられていたが、トーナメント1回戦大森隆男戦で開始直後にアックス・ボンバーを喰らい、わずか7秒(ゴングが鳴る前を含めると約30秒)でフォールを奪われ敗退した。
  • 第2代GHCヘビー級王者時代の2002年4月7日、4回目の防衛戦となった有明コロシアム小川良成戦では、「5分以内に片付ける」と小川を挑発していたが、逆に4分20秒・変形首固めによって丸め込まれて3カウントを奪われ、ベルトを失った。
  • 2度目のGHCヘビー級王者時代の2006年9月9日、3度目の防衛戦となった日本武道館の丸藤正道戦ではまだ余力は残っていたが、一瞬のスキをつかれた完璧首固めで、丸藤にGHCを奪取された。
  • 2011年11月8日第2回グローバル・リーグ戦(後楽園)における金丸戦では、NO MERCY平柳玄藩の介入もあって5分14秒リングアウト負けを喫した。
  • 2012年8月26日、船木誠勝との三冠ヘビー防衛戦で、試合開始から船木の得意とする打撃戦に臨むも、4分37秒ハイブリッド・ブラスターに破れる。
  • 一方、2006年1月8日、田上明とのGHCヘビー級選手権試合の前哨戦では、開始早々のエクスプロイダー・ジャンピングニーからのエビ固めで、田上から0分12秒でフォール勝した。なお、この試合は特別再試合となり、秋山が勝った試合を通常通りの第8試合、志賀賢太郎が勝った再試合を追加試合の第9試合とされた。

体調

  • ノア旗揚げ頃から、小橋の長期離脱や団体を引っ張らなければならない責任感などのストレスで自律神経失調症に悩まされるが、必死の努力で克服した。
  • 2009年2月13日、NOAHが帝京平成大学と提携し講師として活動を行う発表の際、自身が27歳からパニック障害を患っていることを公表し、有用な克服法などを学生らと模索すると述べた。
  • 三沢が急逝した2009年6月13日の広島大会で椎間板ヘルニアを患い、GHCヘビー王座を返上するなど、40歳代を前後にコンディション不良に苦しんできたが、その後は2011年の三冠ヘビー級獲得などタイトル戦線に復帰している。近年は盟友永田裕志が唱える「アンチエイジング」に共鳴している。
  • 2012年をもってノアを退団。『休養のため試合に出ないとなると会社に迷惑がかかる。』と退団理由の1つに挙げている。

プライベート

  • リング上の厳しい戦いからは想像も出来ないが「買い与えられるものは全て買い与えてやりたい」というほどの子煩悩である。また大変な動物好きで犬1匹と猫5匹を飼っており、『どうぶつ奇想天外』にも出演したことがある。
  • 2005年4月1日に自身が社長を務める会社を立ち上げ、9月からは「+波動水」という天然水の販売を行う。その後商品名を「みんなの潤水」へ変更し販売中。
  • 自身のブログ「秋山社長の徒然日記」では闘病中の小橋建太の経過を伝えるレポーターも兼ねていた。秋山の弟子でありいじられ役である橋誠や、秋山の家族、先輩である泉田純至川畑輝鎮らと並んで小橋のエピソードが登場することが非常に多い。また、最近では秋山自身が薄毛を気にしていることもネタにしている。
  • 2004年からは「週刊プロレス」(ベースボール・マガジン社)でコラム「NOAHがわかる、NOAHがかわる」を連載(当初は毎週だったが、2005年から隔週となる)。ノア所属選手の裏話や次期シリーズの見所などを紹介していたが、2006年からはタイトルを「クロブタノート」と変更、泉田を主役としながらも秋山も「ブタ番」として、ノア番(ノア担当の番記者)とのトークや泉田のお見合い企画に参加した。「クロブタノート」が5回で終了した後は「NOAHがわかる、NOAHがかわる」が復活した。しかし77回で終了することを予告しており、その通りに終了した(秋山はコラム内で「次回からは爽やかなコラムが始まります」と予告しており、DRAGON GATE所属のCIMAが後を引き継いでいる)。
  • 2006年3月に日本公開された映画力道山」では、遠藤幸吉役を演じた。

脚注

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関連項目

外部リンク

テンプレート:全日本プロレス テンプレート:全日本プロレスリング社長 テンプレート:GHCヘビー級王者

テンプレート:三冠ヘビー級王座
  1. 「レスラーヒューマンストーリー 第135回 秋山準編」『週刊プロレス』2013年3月27日号、pp.63 - 66
  2. 「全日本プロレス」の商標権は白石伸生オーナーが所有しており、商標の譲渡の交渉を進めているためひとまず「新会社の社長就任」と発表された。
  3. 全日本プロレス オフィシャルサイト – 公式ホームページ運営会社変更・事務所移転のご案内
  4. 2006年9月9日のGHCヘビー級選手権試合(秋山vs丸藤)のテレビ中継の、解説者として発言。