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テンプレート:BLP unsourced テンプレート:落語家 立川 志の輔(たてかわ しのすけ、1954年2月15日- )は、富山県新湊市(現:射水市)出身の落語家タレント。本名、竹内 照雄(たけうち てるお)。左利きで、血液型A型オフィスほたるいか所属。出囃子は『梅は咲いたか』。2008年芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

来歴

生い立ち・学生時代

幼いころに両親が離婚。その後母親が亡くなり、5歳のころ、骨董店を営む母方の祖父母宅で、祖父母と母親の兄の伯父夫婦家族と共に生活し、伯父夫婦には実の子のように育てられた。祖父が落語好きでもあり、落語との出会いは、家族がテレビで見ていた5代目柳家小さんであったが、大学生になるまでは、落語には興味はなかった。

高校時代はソフト(軟式)テニス部所属、富山県代表でインターハイに出場したこともある。

富山県立新湊高等学校を経て、明治大学経営学部卒業。

明治大学在学中は落語研究会(落研)所属。同落研での伝統ある高座名「紫紺亭志い朝」を、2年先輩の三宅裕司(4代目)から引き継ぎ、5代目紫紺亭志い朝として活動。その後、2年後輩の渡辺正行に譲る(6代目)。

明治大学在学中、先輩の三宅裕司の影響もあり、演劇にも興味を持つ。

談志に入門

大学卒業後は、様々なアルバイトをしながら、劇団「シェイクスピア・シアター」や劇団「昴」の養成所に所属、演劇の勉強をする。その後、串カツ屋でのアルバイト生活がメインとなり、バイト後によく飲みに行っていた新宿ゴールデン街で知り合った広告代理店関係者に誘われて、広告代理店に入社。(社員であった時期には、テレビCM制作などに、従事する事もあった。)28歳の頃、社長から「現場も、営業も経験したけれどこれからどうする?」(社内でどの職種で働きたいか)という話があり自身ではその頃、頭の片隅では落語のことが忘れられずに、「半分以上は落語家がいいんじゃないか」と思いながらも「このまま会社にいるのは、会社にも失礼で、自分自身が辛く」、区切りをつけるために退社(社長にはあきれられた)。

大学在学中の落研時代から3代目古今亭志ん朝への憧れが強かったが、国立演芸場での「談志ひとり会」で7代目(自称5代目)立川談志の『芝浜』を観たことが、談志に入門する決め手となった。この時の談志の『芝浜』は、従来の『芝浜』とは異なる作風へと劇的に変化したものだった。

「落語家になりたい」と思い、広告代理店のサラリーマンを辞めた時期には、故郷の新湊高校で同級生だった女性と結婚をしており、落語家への転職を半年近く悩み、大学の同級生で落研でも一緒だった立川談之助(すでに談志に入門していた)に相談をし、「弟子入りはどうやってするのか?」などのアドバイスを受けたりもして、落語家になる事を決意をする。

談志門下には大学の後輩の立川談幸がいるが、志の輔のほうが入門が後だったため、談幸は兄弟子である。

1983年1月、29歳で談志に入門。「志の輔」の前座名で立川流の落語家となる。[1]

売れっ子に

1983年、師匠・談志が一門と共に落語協会を脱退。志の輔が寄席定席での前座修行を直前に控えての脱退劇であったため、志の輔は前座として寄席での仕事や高座に上がることは一度もなかった。

前座修行中、通常はほぼ無収入なのだが、前職の広告関係の知り合いからナレーションの仕事などの依頼があり、小遣い程度の収入はあった。

1984年10月二つ目に昇進。高座名も引き続き「志の輔」を名乗る。この頃から「志の輔」の名前を付けた落語会を開催するようになる(1984年2月に開催した、上野本牧亭での「勝手に志の輔の会」など)。

1985年TBSテレビ朝のホットライン』レポーターに抜擢される。その後、他の放送局からの仕事も一気に増えて売れっ子となった。

1990年5月、「志の輔」の名前のまま、落語立川流真打に昇進。

2002年から毎年1回、志の輔を座長に富山県出身の芸能人を集めて「越中座」という寄席形式での公演を富山県民会館にて開催。2006年からは東京でも開催し、ゲストに笑福亭鶴瓶が昼夜公演に飛び入り出演した(鶴瓶はその後、富山公演にも県外出身者ながら特別出演した)。志の輔は、昼公演では越中語(富山弁)で落語、夜公演では英語落語に挑戦した。富山県内の落語会では越中語(富山弁)での落語を披露することも多い。

2003年3月、現代落語の衰退を憂い、東西、流派を超えた落語家達と共に落語家グループ「六人の会」を結成し、「東西落語研鑽会」などの落語会を開催。2004年から2008年までは、毎年7月、「六人の会」を中心に「大銀座落語祭」を開催した。

2004年に「志の輔らくご in パルコ vol.9」で初演した新作落語『歓喜の歌』は映画化され、2008年2月に公開、志の輔自身も落語家役で短く出演した。同年、北海道テレビ開局40周年記念作品としてテレビドラマ化され(オリジナルとは設定がやや異なる)、9月7日テレビ朝日系で全国放送された。

2008年6月7日、志の輔の故郷である富山県富山市中央通りの商業ビル「セプラビル」3階にあった映画館を改装し、北陸銀行グループがオープンした「てるてる亭」という、定員250名の演芸ホールの「席亭のような、館長のような、番頭のような者」に就任。ホールでの公演のプロデュースをし、自身も年に数回、同ホールで「志の輔のこころみ」と題した落語会を開催している。

特徴

  • 落語立川流所属の落語家だが、現在は個人事務所「オフィスほたるいか」を立ち上げて独自にマネージメントを行い、「日暮里寄席」などの立川流一門の定期興行には参加せずに、全国各地での独演会や落語会への出演で、年間150本以上の高座を務めている(定席の寄席には出演できないが、人気が高いために高座に上がる回数は多い)。
  • 毎年、新作落語の会「志の輔らくご」を開催し、好事家だけのものではない新感覚の落語を提案している。各種メディアに取り上げられることも多く、新たな落語ファンをも発掘。独演会や落語会など「チケットの取りにくい落語家」の代表格になっている。
  • 数多くの新作落語を創作し、口演している。最初の創作落語は『親の顔』。小説家・清水義範の短編小説『バールのようなもの』をもとにした新作落語で、創作にあたって清水義範本人から許可をもらった。それ以降、清水義範とは交流があり、「自分の作品はいつでも落語にしてよい」とのお墨付きをもらっている。他にも、清水義範の短編小説やエッセイをもとにした『バス・ストップ』(原作:『バスが来ない』)、『みどりの窓口』(原作も同名)などの新作落語があり、志の輔が口演する新作落語の代表作となっている。
  • 1996年からは「志の輔らくご in パルコ」を、渋谷PARCO劇場で毎年開催(2005年は未開催(PARCO劇場の改装工事などの関連もあり))。2006年1月には「志の輔らくご in パルコ vol.10」で、落語界でも初めての同一会場での1か月公演を行い話題となる。以後、2012年現在に至るまで1か月公演を毎年行い、渋谷PARCO劇場における毎年1月の恒例となっている。
  • 2004年の「志の輔らくご in パルコ vol.9」で初演された新作落語『歓喜の歌』では、落語演目が終わるとすぐに高座の後ろ幕が開き、雛壇に並んだ本物のママさんコーラスグループによって『歓喜の歌』が合唱された。この際、志の輔は引き抜きで燕尾服風な衣装に着替え、指揮の真似をした(「志の輔らくご in パルコ 2008」での『歓喜の歌』では、演目後に登場するママさんコーラスグループは公演ごとに異なるグループだった)。『メルシーひな祭り』を口演した際にも、落語演目が終わるとすぐに高座の後ろ幕が開き、『メルシー――』の登場人物である商店街の店主らが登場、「雛人形」における雛壇状に並んだ。このように、大きなステージでの連続公演などでは、舞台装置、照明効果、音響効果などを駆使して演劇的な要素を取り入れた演出もしている。

エピソード

学生時代

  • 新入生の頃に明治大学和泉校舎で、偶然、落語研究会(落研)の先輩に学内での落語会に誘われ、先輩たちが演じる「生の落語」を初めて観る。その際、観客の学生たちが大爆笑するのに衝撃を受け、落研に入会した。それまでは、落語に対しては「NHKテレビで放送していて、お爺さんが座布団に座ってやっていて、家のお爺さんが観て楽しんでいる、お爺さん同士の楽しみ」程度の認識しか持っていなかった(生まれ育った環境などでの感想)。落研に入部後、初めて衝撃を受けたプロの落語家は、リズミカルで歌い上げるように落語を演じる3代目古今亭志ん朝。落研時代には下手ながらも真似をしており、落研の先輩の三宅裕司、後輩の渡辺正行も志ん朝の落語をコピーしていた。
  • 祖父が「この子は大学へは行かせてやってくれ」と叔父夫婦に頭を下げ頼んだことにより、大学へ進学することとなった。学生時代には伯父夫婦から仕送り(学費、生活費など)を受けていた。大学卒業後、すぐに落語家に入門しなかったのは、落語家になると前座修行と並行して自由にアルバイトすることが許されないため、結果的には仕送りを受け続けることになると考えたからである。先輩の三宅裕司の影響もあり、演劇にも興味があり、演劇の勉強ならばアルバイトをしながらでもできると思い演劇の世界へと進んだ。志の輔は、落語同様、演劇にも興味を抱いていた。演劇の勉強をしたことは、少なからず落語家としての志の輔にも反映されている。

劇団研究生時代

様々なアルバイトをしながら、劇団の研究生として演劇の勉強をしていたが、授業の中で「訛りを直す」授業があり、数人の「訛り」のある学生に対してがメインの授業に対し不信感を覚えて、劇団の養成所には行かず、アルバイトをする生活となる(劇団の研究生になるのには、「訛りは、個人的に直してから入るのが当然だろう?」と 当時の志の輔は思った。自身は、大学在学中の落研時代に「訛り」を直された経験がある)。

アルバイト~社会人時代

劇団の養成所を辞めてアルバイトがメインとなる生活をしていた時期、バイト後によく飲みに行っていた新宿ゴールデン街の店で知り合った広告代理店関係者に誘われ、「株式会社ニットー」に入社。28歳の頃まで、4年ほどサラリーマン生活を送る。

落語家として

  • 広告代理店でのサラリーマン生活を経て、7代目(自称5代目)立川談志に弟子入りを希望し、談志と面談した。志の輔の提出した履歴書を見て、談志は「あぁ~、劇団やってみても駄目、サラリーマンやっても駄目、落語家にでもなってみようって、そういう了見なんだ。ま、そこら辺でウロウロしてろ」と話し、入門を許可したとのこと。
  • 談志に入門してからの苦労を、高座や出演番組などで度々語っている。その際は、師匠・談志の偏屈な性格に苦しんだ過去をオーバーに表現する。
  • その一方、談志は志の輔を「立川流の最高傑作」と高く評価している。これは、志の輔が入門3か月後に談志一門が落語協会を脱退していることから、「寄席を経験しない弟子第1号」として志の輔を「立川流の実験台」と位置付け、結果成功を収めたことによる評価である。
  • 「落語で食べる(落語家で生計を立てる)」ということは、落語家を志した時から考えていなかった。「『落語家になる』『落語家でいる』ということのほうが先で、『食う』『食わない』は別物だった」とインタビューで語っている。
  • 入門から数か月、志の輔は前座見習いとして師匠・談志に付き人として同行していた。路線バスでの移動中、突然、談志から「志の輔、俺やめるわ」と言われ、当初は「何をやめるんだろう? 今日の予定は何だったろう?」と思ったが、談志の言った「やめる」とは「寄席を辞める(=落語協会脱退)」という意味だった(志の輔は、テレビ番組での様々な「ドキュメント番組」、「インタビュー番組」などで、落語家入門当時の話題では、「この件」の事では、『バスでの移動中に「俺出るわ」』と言われたとも語っていることもある)。
  • 談志から初めて教わった落語の噺は『道灌』。談志一門では『道灌』は最初に教わる噺の一つであり、噺の中での登場人物の設定、長屋などの部屋の構造、登場人物の部屋での位置関係など、落語の表現方法における基本を教わる。(志の輔が「談志から直接稽古を付けて貰った噺は『四席』だった。」と、ラジオやテレビでのインタビューなどで語っている。)
  • 朝のテレビ番組の情報リポーターと、午後からのラジオ番組のレギュラーがあったころ、都内に自宅とは別に部屋を借りて、仮眠をとったり落語の稽古をしていた。

趣味・交友関係

  • 春風亭昇太とは落語家入門が同時期であり仲が良く、毎年、お互いのスケジュールが合えば2人で国内外を旅行する仲である。
  • 国内での各種演劇公演やミュージカル公演を頻繁に鑑賞しており、毎年1回は、休みが取れればアメリカニューヨークへ行き(アメリカでの落語会の出演時も含む)、ブロードウェイで話題となっている演劇やミュージカル公演を鑑賞することを楽しみにしている。
  • 2008年6月富山県富山市中央通りにオープンした「てるてる亭」の開設にあたり、運営関係者からは「ホール名のどこかに『志の輔』を入れてほしい」と提案されたが「照れてしまう」との事で入れずに、志の輔の本名が「照雄」で「照ちゃん」と呼ばれていたので「てるてる亭」と命名した。

主な受賞歴

主な演目

新作落語

  • ディアファミリー
  • 生まれ変わり
  • 江戸の夢
  • 忠臣ぐらっ
  • 異議なし!
  • 質屋暦

古典落語


主な著書

主なCD・DVD・ビデオテープ

CD 

  • 『志の輔らくご 両耳のやけど 1〜10』 テイチクエンタテインメント
    • 1.お血脈・蜘蛛駕籠
    • 2.宿屋の仇討・千両みかん
    • 3.八五郎出世・芝居の喧嘩
    • 4.井戸の茶碗
    • 5.唐茄子屋
    • 6.鼠穴
    • 7.紺屋高尾
    • 8.小間物屋政談
    • 9.らくだ
    • 10.五貫裁き・茶の湯
  • 『志の輔らくご らくごのごらく 1〜5』 ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
    • 1.はんどたおる・死神
    • 2.へっつい幽霊・雛鍔
    • 3.しじみ売り
    • 4.抜け雀
    • 5.新・八五郎出世
    • 6.帯久
  • 『志の輔らくごBOX』CD5枚組 コロムビアミュージックエンタテインメント
    • (1)バスストップ・猫の皿
    • (2)だくだく・踊るファックス
    • (3)猿後家・ねずみ
    • (4)みどりの窓口・御神酒徳利
    • (5)帯久

DVD

  • 『志の輔らくご in パルコ vol.9』 パルコエンターテインメント
    • こぶ取り爺さん・歓喜の歌・浜野矩随
  • 『志の輔 らくごのおもちかえりDVD 1〜3』 アスミックエース
    • 1.歓喜の歌 2007
    • 2.ガラガラ
    • 3.メルシーひな祭り
  • 『午前様らいぶ 1〜5』
    • 1.三軒長屋
    • 2.百年目
    • 3.山崎屋
    • 4.宿屋の仇討
    • 5.紺屋高尾

ビデオテープ

  • 『志の輔らくご 午前様らいぶ 1〜3』
    • 1.親の顔・ねずみ (2001.1.6 サントリーホール 収録)
    • 2.みどりの窓口・ぬけ雀 (2002.1.12 サントリーホール 収録)
    • 3.バスストップ・井戸の茶碗 (2003.1.11 サントリーホール 収録)

タレント活動

  • 1985年ごろから、落語以外でのタレント業でもテレビラジオで活躍しており、テレビでは『ためしてガッテン』(NHK総合)に司会として出演中。この番組では健康法などを取り上げるが、私生活では「そんなものはまるで試したことがない」という。この番組での安定感のある司会ぶりは評価が高く、長期に渡って務め上げている。ほぼ同趣向の番組『スーパー知恵MON』(TBSテレビ)の司会を掛け持ちした時期もある。
  • ラジオでは『志の輔ラジオ 土曜がいい!』(文化放送)内の「志の輔特選落語」コーナーにおいて名人上手の落語録音を放送し、落語の普及に務めた。同番組終了後、2007年4月からは『志の輔ラジオ 落語DEデート』(文化放送)のパーソナリティを務めており、番組内で同様に落語録音を放送している。過去にも、担当のラジオ番組で落語の放送をしていたことがある。
  • その他、ゲストとしてテレビ番組、ラジオ番組に出演することも多い。

現在の出演番組

テレビ番組

ラジオ番組

過去の出演番組

テレビ番組

ラジオ番組

  • ときめき放送局 ニューウェーブ25時(1985年 - ?、アール・エフ・ラジオ日本) - パーソナリティ(小川乃り子、松澤一之と)
  • 若者通り22時 夜はこれから(1985年 - 1986年、茨城放送) - 火曜日パーソナリティ
  • 志の輔ラジオ 気分がいい!(1990年 - 1996年、文化放送) - パーソナリティ
  • 月刊志の輔レディオ(**年 - ****年、FMとやま) - パーソナリティ
  • 志の輔落語 スペシャルセレクション(****年 - ****年、FMとやま) - パーソナリティ
  • 立川志の輔の無イミダス(****年 - ****年、FMとやま) - パーソナリティ
  • 立川志の輔の無イミダス2000(****年 - ****年、FMとやま) - パーソナリティ
  • 立川志の輔の無イミダス21(****年 - ****年、FMとやま) - パーソナリティ
  • 志の輔のおしゃべりアフター5(****年 - ****年、FMとやま) - パーソナリティ
  • 志の輔 らくごのごらく(****年 - ****年、北日本放送ラジオ) - パーソナリティ
  • 志の輔ラジオ 土曜がいい!(2003年 - 2007年3月31日、文化放送) - パーソナリティ
  • GROWING REED 「落語の世界について教えてください」(2010年3月22日 00:00 - 01:00、J-WAVE) - ゲスト出演
  • 志の輔・シゲルのてるてるシゲシゲ - パーソナリティ(毎週日曜 12:30 - 13:00、再放送 毎週月曜 20:00~20:30、2009年4月 - 2013年9月、 北日本放送ラジオ、全国11局でも放送)

出演映画

CM

その他

  • ゴジラVS怪獣軍団 君も怪獣博士になれる! - 1989年に映画『ゴジラvsビオランテ』の宣伝を含めて製作されたオリジナルビデオ。本人が進行役を務めている。
  • 万葉線 - 土・日・祝日のみ、出身地を走る万葉線で車内アナウンスや沿線案内(声のみ)を行っている。

弟子

脚注

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  1. ラジオ番組『志の輔ラジオ 落語DEデート』(2011年10月23日、文化放送)において、ゲスト出演した女優・藤田朋子とのトークで「Wikipediaには虚偽の記載も含まれている」という話題になり、「『アルバイト云々で立川流に入った』なんて、これだけは勘弁してくれ」と志の輔本人が発言している。

関連項目

外部リンク