落語立川流

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丸に左三蓋松は、立川流の定紋である

落語立川流(らくご たてかわりゅう)は、東京における落語家の団体の1つである。

特徴

  • 落語のいわゆる定席[1]へ出演できない(例外あり)。そのため、不定期にホールや市民会館などで独演会や一門会を開催している。なお、「余一会」(寄席で31日に行われる特別興行)は立川流一門からも参加する場合がある。
  • 創設者である立川談志を頂点とする家元制の組織体系を採っていた。プロ落語家志願者を育てるための従来の師弟関係(Aコース)のほかに、一般人もお金を払うだけで弟子になれる制度がある(Cコース)。Cコースは落語家にはなれない。なお、談志の死去に伴い家元制度は廃止となった[2]
  • 直弟子なら家元へ、孫弟子ならその師匠への上納金制度があったが、これも家元制度と共に廃止される。
  • 立川談志の一門のみによって構成されるので、実質的に談志一門として認識される。例外はあるものの、ほぼ全員が立川の亭号を名乗る。
  • Aコースは落語家のみで構成され、色物は存在しない(例外あり)。
  • 法人組織ではない。

沿革

誕生以前の前史

落語立川流の誕生とは直接の関係はないが、落語協会分裂騒動は間接的に関わってくる重要なエピソードである。

1978年5月9日落語協会に分裂騒動が勃発した。当時協会が推し進めていた大量真打昇進制度をめぐり、協会会長5代目柳家小さんと最高顧問6代目三遊亭圓生が対立、3代目古今亭志ん朝7代目立川談志ら一部の幹部が圓生に同調し脱会の動きを見せた。

5月24日、圓生主導による新団体落語三遊協会設立には圓生一門、7代目橘家圓蔵と弟子の5代目月の家圓鏡(現:8代目橘家圓蔵)、志ん朝が参加。談志は最も強力な賛同者と目されていたものの、公式発表直前に突如として協会残留の意向を示し、この新団体に参加することはなかった。

5月25日上野鈴本演芸場新宿末廣亭浅草演芸ホール池袋演芸場の各寄席達の席亭会議で、それまで新協会の出演を賛成していた席亭達は、当初は落語協会の半数が落語三遊協会に移籍する予定だったが、当初よりも規模が縮小された落語三遊協会に落語協会と一本化しなければ寄席を使わせないことを通告。このため、末廣亭席亭・北村銀太郎の仲介で5月31日に圓蔵、圓鏡、志ん朝は協会に復帰。結局圓生一門のみほとんどが翌6月1日に協会を離脱し、落語三遊協会を結成することになった。

なお、圓生没後、落語三遊協会は自然消滅し、分裂騒動は圓生派の事実上の総敗北に終わった。1980年2月1日総領弟子5代目三遊亭圓楽一門を除く全弟子は落語協会に復帰したが、圓楽一門は復帰せず、圓楽一門は大日本落語すみれ会結成。1990年円楽一門会に改名し現存する。

落語協会ではこの騒動後、真打昇進に関して師匠推薦に代わり「真打昇進試験」制度を導入する。

なお、この騒動は圓楽と談志が黒幕になって圓生を動かし仕掛けたという説も存在している。目的は彼らのライバルであり、当時は将来の落語協会会長と目されていた志ん朝の香盤を落とすことであったとされている[3]。しかし、最終的に協会に戻った志ん朝は、表向きには「会長小さんの温情」という形[4]で香盤が下がらなかった。

この談志黒幕説の真偽の程はいずれにせよ、談志にとっては甚だ面白くない騒動の落着であったことは間違いない。

誕生

1983年の落語協会真打昇進試験では、林家源平柳家小里ん林家種平、林家上蔵 (現:3代目桂藤兵衛)、蝶花楼花蝶(現:7代目蝶花楼馬楽)、林家正雀古今亭八朝林家らぶ平立川談四楼、立川小談志(4代目喜久亭寿楽)の10名が受験した。当時理事であった談志が不在中、談志の弟子2人(談四樓と小談志)が不合格となる一方、林家三平の弟子で、力量が明らかに劣ると思われた源平が合格した(他の合格者は小里ん、花蝶、正雀)。談志はこの試験の結果と考査基準に異を唱え、大半の弟子と共に脱会、立川流落語会を創設した。談志は家元制度を確立し、初代家元となる。

結果

圓生一門脱会事件の結果、東京の常設寄席席亭は番組編成上、落語協会落語芸術協会以外の出演は困難であるとした。そのため立川流は、一門として寄席に出演する意志は当初から持たず、代わりにホールでの落語会を中心に活動している。「日本すみずみ出前寄席」という企画では99,800円で真打1人、二つ目2人、前座1人の計4人を全国各地に派遣した。

他方、落語協会ではこの事件により会長小さんの就任以来の懸案であった真打昇進制度改革は事実上の頓挫に追い込まれた。結果、真打昇進試験は撤廃され、旧来の師匠・会長・席亭の三者合意の制度に戻った[5]。以降、真打昇進制度は一部の抜擢を例外とすれば事実上の年功序列で機械的に運用されている。

家元談志の死去

2011年11月21日に家元の談志が死去に伴い2012年1月には一門で話し合いが持たれ、その結果家元制度を廃止し総領弟子の土橋亭里う馬が新代表となり再スタートした。

出演場所

トップの談志を初め志の輔、談春、志らく、談笑という売れっ子たちは、自分の独演会を積極的に開くことを主要な活動としている。

他の者が出演する場は、立川流の一門会である。いわば彼らの定席である。

立川流日暮里寄席
JR京成日暮里駅前のホテル・ラングウッド内「日暮里サニーホール」で毎月開催されている一門の定期興行。前座から真打まで一門の噺家が複数出演する。一般2000円
立川流広小路寄席
地下鉄上野広小路、JR・地下鉄御徒町「お江戸上野広小路亭」で毎月開催されている一門の定期興行。前座から真打まで一門の噺家が複数出演する。一般2000円
荒川区防犯寄席
東京都荒川区が防犯イベントとして年数回開催する無料の寄席。立川流専門ではないが、立川流一門の出演が圧倒的に多く、真打クラスも多く出演している。

立川流顧問

元は立川流設立時、権威付けの意味合いで、談志と親しい、格上ないし惚れ込んだ著名人に名を貸してくれるよう頼んだ。

その名残から名義だけ(森繁久彌ほか)のものもいれば、昇進試験の際の審査も行うもの(野末陳平、吉川潮ほか)まで多様である。

特に吉川潮は談志が全面的に信頼を寄せており、発言力は極めて大きい(2代目快楽亭ブラックの除名を決めたのは吉川)。事実上筆頭として立川流の運営に関わっている。

組織構成

立川流にはA・B・Cの3コースがあったが、現在は廃止。Aコースは落語家、Bコースはビートたけし他の芸能人を中心とする有名人、Cコースは一般人で構成され、それぞれ昇進基準が異なっていた。

昇進基準

Aコースの職業落語家には噺のほか、舞踊などの修得が必修とされ、家元の面前での試験により昇進の可否が決定される。B・Cコースの基準はそれに比して緩やかである。Bコース初の真打は、1988年11月昇進の立川藤志楼こと高田文夫であった。

Aコースの弟子は、

  • 二つ目昇進には、落語50席と都々逸長唄かっぽれなどの歌舞音曲
  • 真打昇進には、落語100席と歌舞音曲

の修得が求められる。2012年6月の新体制発足以後は、前座修行が最低3年必要になった(入門からわずか1年半で、新体制発足直前に二つ目に昇進した談笑門下の立川吉笑のような例が今後なくなる)。家元である談志は昇進の条件として「持ちネタが2席でも、客を爆笑させることができればよい」ともしていたが、その基準をクリアできる弟子はいないのが現状である。

2002年5月、「二つ目への昇進意欲が感じられない」として、一門の前座6名が破門を言い渡された。これにより前座が1名になってしまったため、翌月に立川談吉(現:泉水亭錦魚)が立川談一の名で復帰。2003年5月、復帰試験が行われ、立川談修のみが合格。不合格となった立川志加吾と立川談号は2003年8月に雷門小福門下に移籍し、それぞれ雷門獅篭雷門幸福となった。2004年1月、立川キウイ立川談大(2010年死去)は、一門の新年会席上で再度復帰試験を受ける。判断に窮した談志は立川流真打達に判断を一任。厳しい意見が相次いだが、二つ目ではなくあくまでも前座としての復帰という条件を談志が提示、談志の意を汲んだ談四楼、志の輔らの音頭によって、ようやく一門復帰を許された。

構成員

旧Aコース(弟子)

代表

理事

真打

二つ目

前座

  • 立川志の輔門下
  • 立川談春門下
    • 立川春太郎
    • 立川春来
  • 立川志らく門下
    • 立川がじら
    • 立川らく人
    • 立川志ら松
    • 立川志ら鈴
    • 立川らくぼ
  • 立川談四楼門下
    • 立川長四楼
    • 立川寸志
  • 立川談笑門下
    • 立川笑笑

死去

破門・除名等(主なもの)

  • 立川談志門下
  • 桂文字助門下
    • 桂文字ら
  • 立川談四楼門下
    • 立川康四楼(立川康四樓)
  • 立川志らく門下
    • 立川こらく
    • 立川らく坊
    • 立川らく兵
  • 立川志の輔門下
  • 立川談春門下
    • 立川春樹
    • 立川春松
    • 立川はるか
  • 立川談笑門下
    • 立川笑吾

旧Bコース(談志が認めた有名人)

死去

旧Cコース(談志が認めた一般人)

  • 立川久蔵
  • 立川呑志
  • 立川志隆
  • 立川七志
  • 立川朝志
  • 立川談地妻
  • 立川抜志

系図

  • 現在Aコースに所属しているものを列記した(破門や脱会したものは含まない)。
  • 順は香盤ではなく、入門順である。真打は太字、前座は小文字で示した。
  • †印は物故者、名跡の後の数字は代数を表す。

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上納金制度

かつて入門者には、家元への上納金の納付が義務付けられていた。 家元が亡くなり、理事会制度となったため、現在は廃止されている。

Aコース

入会金10万円 前座・見習・二つ目は月2万円、真打は月4万円。(但し真打で会費総納入額270万円に達した者は満了となる)

Bコース

入会金10万円 月々2万円

Cコース

入会金2万円 月々5千円

※2001年6月より

滞納者の弟子に対する厳しい毅然とした処遇

2000年8月、滞納者が多数いる事が発覚した。談志は滞納者に破門を申し付けたが、滞納分の同額から3倍の支払いを条件に復帰を承認する。支払い不能であった立川談々・國志館・志っ平は、そのまま破門。國志館は圓楽門下に移り三遊亭安楽、後に全楽を名乗り、志っ平は10代目桂文治門下に移籍し前助、文治没後柳家蝠丸門下となって二つ目に昇進、柳家小蝠となった。

立川流に関する書籍

  • 「談志が死んだ──立川流はだれが継ぐ──」(講談社、2003年) ISBN 4-06-212185-9

脚注

  1. 定席とは、年間ほぼ毎日、演芸を開催している寄席が、レギュラーで開催している興行のことである。東京で落語の定席といえば鈴本演芸場末広亭浅草演芸ホール池袋演芸場である。国立演芸場を含む場合もある。立川流が定席に出た、例外的な例は末広亭2006年4月中席の立川藤志楼落語芸術協会の顔付けに加わる)、国立演芸場2006年6月上席の立川談笑落語協会の顔付けに加わる)のみ。
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  3. すなわち、それまでは志ん朝、圓楽、談志であった香盤順を、談志、圓楽、志ん朝に入れ換えようと目論んだ。
  4. 実際には温情以外にも、騒動の黒幕と言われながらも協会残留を決め込んだ談志に対する、協会幹部の牽制や思惑も含まれていたとされる。
  5. 真打昇進を希望する者に関係者の前で一席やらせる『試験』は、その後も一部の一門で行なわれているが、事実上の通過儀礼であり、この試験結果次第で師匠たちが推薦をするかを決めるなどという重要なものではなくなった。
  6. ダンカンはAコース「立川談かん」からビートたけし門下へ移籍、改名後、1986年2月にBコースへ再入門、そのまま「ダンカン」を名乗る。

関連項目

外部リンク