郭図
郭 図(かく と、? - 205年)は、中国後漢時代末期の政治家、武将。字は公則[1]。豫州潁川郡の人。
正史の事跡
初期の事跡
潁川郡で計吏に推挙された。[2]その後、荀諶・辛評とともに袁紹に仕えた。初平2年(191年)に、荀諶・張導・高幹・辛評らと共に韓馥を説得し、冀州を袁紹に譲らせた。
『三国志』魏書袁紹伝によると、興平2年(195年)に郭図は献帝の下へ使者として派遣されている。冀州に戻るや、郭図は袁紹にこれを迎えることを勧めたが、受け入れられなかった。しかし、同伝の注に引く『献帝伝』と『後漢書』袁紹伝によると、この進言は沮授によるもので、郭図は淳于瓊と共にむしろ献帝を迎えることに反対していたとされる。どちらが正しいかは不明である。
建安4年(199年)、沮授と田豊が、曹操と対抗する上で持久戦略の採用を主張したのに対し、郭図は審配と共に短期決戦戦略の採用を主張した。すると袁紹は郭図・審配を支持した。さらに郭図が、監軍(袁紹軍総司令官の地位に当たる)の地位に在った沮授について、その勢威が強大すぎると袁紹に讒言したため、監軍の地位・権限は三都督へと三分割され、沮授・淳于瓊・郭図の3人が都督に任命されることとなった。
官渡の戦い
建安5年(200年)2月、官渡の戦いが始まると、郭図は淳于瓊・顔良と共に白馬に駐留する劉延を攻撃した。しかし曹操軍の迎撃に遭い顔良、さらには文醜の両将を喪失するなど苦戦した。
同年10月、袁紹が淳于瓊に命じて、烏巣の兵糧を守備させると、曹操はこれを攻撃しようと図った。この時、郭図はこの隙に曹操軍の本陣を急襲することを主張した。しかし張郃は、本陣は堅固であるだろうから、全力で直ちに烏巣へ救援に向かうべきであると反論した。結局袁紹は、軽騎兵を烏巣に向かわせ、重装備の兵で本陣を攻撃するという中途半端な選択をした。このため淳于瓊らが曹操軍に撃ち破られ、烏巣の兵糧庫も破壊されてしまった。このとき郭図が、責任追及を恐れて張郃のことを讒言したため、張郃は止む無く曹操に降伏することになった(『三国志』魏書張郃伝)。
ただし、『三国志』魏書武帝紀によれば、袁紹は騎兵を烏巣に向かわせ、張郃と高覧に曹操軍の本陣を守る曹洪を攻撃させたとしている。また袁紹軍は、張郃らが淳于瓊の敗北を聞いて降伏したため、総崩れになったとある。そのため、裴松之が張郃伝の注で指摘するように張郃伝と時系列の間に矛盾が生じている[3]。
袁氏内紛と最期
建安7年(202年)に袁紹が死去すると、郭図は辛評と共に長男袁譚を後継者に推戴した。これに対し、郭図・辛評と不仲であった審配・逢紀が三男袁尚を推戴したため、これが袁氏の内紛につながってしまう。翌8年(203年)、郭図と辛評は袁譚に助言・後押しをして、袁尚に先制攻撃を仕掛けさせた。しかし袁尚の反撃に敗北して、平原に追い込まれ苦境に陥った。
このため郭図は次の手として、曹操への一時降伏を袁譚に薦め、受け入れられた[4]。袁譚は辛毗を派遣して、曹操と同盟を結んだ。曹操は袁尚を攻撃し、鄴を攻め落とし審配を処刑した[5]。
曹操と袁尚が戦っている隙に、袁譚も一度は勢力を盛り返した。しかし、それが原因で曹操から盟約違反と非難され、両軍は再び交戦することになった。建安10年(205年)春、袁譚と郭図は南皮に追い込まれて最終的に敗北し、郭図は袁譚と共に殺された。『後漢書』袁紹伝によると、この時捕まった郭図の妻子も一緒に処刑されたという。
内紛における郭図
審配が忠義を尽くして壮絶な最期を遂げたことと、官渡の戦いにおける郭図の所業の悪さが原因で、一般には袁氏内紛でも郭図が悪者とされがちである。
しかし、袁紹による明確な後継者指名がなかったにもかかわらず、審配らは袁紹の生前の寵愛を理由に袁尚を推し、『後漢書』袁紹伝によれば袁紹の遺命まで偽造したとされる。また同伝によれば、衆目は年長の袁譚後継支持であったとしている。
もっとも、その後の対応では、郭図も審配憎しで袁氏兄弟の対立を煽っており、袁譚に袁尚への先制攻撃を嗾けるなど、依然として問題行動が多かった。
『後漢書』袁紹伝では、露骨に名指しで書かれている。荊州の劉表が、袁氏内紛に際し王粲に和解の手紙を書かせたが、そこには「変事は辛評・郭図より起こされ、災禍は同胞にもたらされたと聞いております」と記されている。また審配も袁譚に手紙を書き、そこにも「どうして凶悪な臣下郭図などに蛇足を描かせ、ねじ曲がった言葉で媚びへつらわせ、ご親好を混乱させるのですか」と記している。
物語中の郭図
小説『三国志演義』では無能な参謀として描かれており、袁氏を衰亡させた戦犯のように扱われている。
官渡の戦いの前哨戦で、関羽に文醜を討ち取られた際には、劉備を処刑するよう審配と共に袁紹に進言するが、劉備に巧言で逃れられている。また、劉備が劉表の下へ向かうと申し出ると、それを阻むよう袁紹に諫止したが、容れられていない。しかし結局、劉備は戻って来なかったため、袁紹がこれを討伐しようとすると、それよりも孫策と同盟して曹操を討つよう進言し、受け入れられている。
その後の官渡戦や袁氏内紛については、史実とほぼ同様の展開である。ただ、南皮の戦いでは楽進に弓で射られ、城の堀に転落して死んだことになっている。
参考文献
脚注
テンプレート:Reflist- ↑ 《九州春秋》
- ↑ 謝承《後漢書》
- ↑ この他、『三国志』魏書袁紹伝は、武帝紀と同様、張郃と高覧が降伏してから袁紹軍が総崩れになったとしている。『後漢書』袁紹伝も、武帝紀と同様、張郃は曹操軍の本陣を攻撃したものの失敗し、淳于瓊の敗北を聞いて降伏したとしている。また、『三国志』魏書荀攸伝では、張郃らの降伏を怪しむ曹洪に、荀攸は「張郃は自分の計略が採用されなかった事を怒って降伏したのです。あなたはどうして疑うのです。」と言っている。このように張郃降伏に関する張郃伝と、武帝紀などとの記述の違いは大きい。
- ↑ 『英雄記』によれば、郭図は袁譚に「曹操と同盟を結び、曹操と袁尚が戦っている隙に勢力を拡大し、その後に曹操と対抗するべきです。」と提案した。
- ↑ 『三国志』魏書袁紹伝注に引く『漢晋春秋』によると、後継者争いが激化し、曹操の河北進攻が強まった時、審配は袁譚に信書を送り、郭図の誅殺を求めたが、袁譚に拒否されている。『三国志』魏書袁紹伝注に引く『典略』によると、袁譚は審配の信書を読んで涙したが、実質的に影響力のあった郭図に逆らうことができなかったとされる。