辛評
テンプレート:特殊文字 辛 評(しん ぴょう、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期の武将または政治家。字は仲治。豫州頴川郡陽翟県(河南省禹州市)の人。三国時代に魏に仕えた辛毗の兄。
正史の事跡
姓名 | 辛評 |
---|---|
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 仲治(字) |
本貫・出身地等 | 豫州頴川郡陽翟県 |
職官 | 〔不詳〕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 袁紹→袁譚 |
家族・一族 | 弟:辛毗 |
袁譚配下の幕僚
袁紹配下。袁紹が韓馥から冀州を譲られた、初平2年(191年)前後に仕官したと思われる。荀諶・張導(字は景明)・高幹・郭図らと共に韓馥を説得し、冀州を袁紹に譲らせた[1]。なお、曹操配下の郭嘉は同県の出身、同僚の郭図や荀諶、曹操配下の荀彧らとは同郡の出身である。
辛評が袁紹陣営で台頭してくるのは、建安5年(200年)の官渡の戦いで袁紹が敗れてからである。戦後に審配が孟岱・蒋奇の讒言を受けると、辛評は郭図と共に孟岱らを支持し、一時は審配を失脚に追い込む。しかし、審配は逢紀の弁護を受けて、辛うじて復権した。
建安7年(202年)夏、袁紹が後継者を指名しないまま死去すると、辛評と郭図は長男の袁譚を後継者にしようとする。しかし、辛評と郭図が権力を握るのを恐れた審配と逢紀は、袁紹の生前の寵愛を根拠に三男の袁尚を強引に承継させた(『後漢書』袁紹列伝によると、袁紹の遺命を偽造したという)。ここに、袁氏内紛が勃発するのである。
建安8年(203年)、辛評は郭図と共に、審配への個人的敵愾心を動機として、袁譚に袁尚への先制攻撃をそそのかし、これを実施させた。だが結果は、袁尚の反撃に敗北し、袁譚は平原に追い込まれる。なお、袁譚配下の王脩は、侫臣を斬って袁尚と和解するよう説くが、この「侫臣」とは辛評、郭図を指すのであろう。
辛評の家族
この後、辛評本人の姿は史書では見られなくなり、その家族の動向が綴られていく。平原に追い詰められた袁譚は、郭図の進言もあって曹操への一時降伏を得策だと考え、郭図の推薦により辛評の弟辛毗を使者として曹操の陣へ送り込んだ。結果、和睦は認められたが、辛毗はそのまま曹操の家臣として留め置かれた。
建安9年(204年)2月、袁尚派の審配が鄴を守備するようになる。審配は、郭図と辛兄弟への恨みを募らせていたため、城内に残されていた3人の家族を捕えようとした。この時、郭図と辛毗の家族は脱出したが、辛評の家族は収監されてしまった。辛評の家族は、審配が曹操軍との篭城戦を戦う最中に、ことごとく処刑されてしまう。審配が最後に敗北して曹操軍に捕えられると、辛毗は審配の処刑を強く望み、これが容れられた。
建安10年(205年)1月、袁譚と郭図は、南皮で曹操に攻め滅ぼされた。しかし、この時まで辛評が付き従っていたか、袁譚らと命運を共にしたか、それ以前に南皮の戦いが開始された時点での生死すら、史書からは窺い得ない。
物語中の辛評
小説『三国志演義』での辛評は、当初は韓馥の幕僚とされているが、史実では韓馥の部下になったことはない。建安4年の、対曹操戦略の論争では、荀諶と共に短期決戦戦略を支持して持久戦略を退け、袁紹の決断を促した。
袁氏内紛において辛評は、史実通りに袁譚を支持した。ただ『演義』では、南皮の戦いまで辛評は袁譚に随従している。戦況が絶望的となると、辛評は、袁譚の命で曹操の下に降伏の使者として赴く。しかし曹操はこれを拒絶し、その一方で、辛評には辛毗同様に自分の家臣になるよう勧誘した。辛評は袁譚への忠義を選んで拒絶したが、南皮城内に戻ったところ、交渉結果に失望した袁譚から曹操との内通を疑われてしまう。これにショックを受けた辛評は、その場で昏倒し、絶命した。中国中央電視台のドラマ『三国演義』では、この墳死の間際に審配に遺言し、弟が冀州を攻撃すれば、わが一族を皆殺しにしてくれと頼んだことになっている。審配からそれを突き付けられた辛毗は、絶叫して倒れている。
出典
- ↑ 『資治通鑑』