遊牧民

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遊牧民(ゆうぼくみん)あるいは遊牧民族(ゆうぼくみんぞく)は、人類の生活類型の二大区分である移動型と定住型のうちの移動型の牧畜遊牧)を生業とする人々や民族を指す。

概念

似た概念に移牧民があるが、こちらは季節ごとに移動しても定住地を持つ点が異なる。英語では、ノマド(nomad)がほぼ相当する言葉だが(語源はギリシア語のノマデス νομάδες)、牧畜以外の生業を取る移動型の人々(ジプシー等)を含んでいる。

遊牧民の存在は人類の歴史に大きく影響を与えてきた。特にユーラシア大陸の歴史においては、西アジアで牧畜の場を定住集落から離れて拡大する集団、すなわち遊牧民が誕生したことと、中央ユーラシアで遊牧民が騎馬技術を獲得したことの2つは、歴史の流れを大きく変えたと言える。

農耕民に比べて人口がはるかに少ないにも関わらず、生まれながらの騎兵である遊牧民は古代から中世にかけて強大な軍事力を誇った。特にモンゴル帝国はチンギス・ハン帝が没した時点でユーラシア大陸の大半を版図におさめるという、空前絶後の帝国であった。

遊牧

家畜を時間と空間的に移動させながら植生、水、ミネラルなどの自然資源を利用する生活と生産様式である。
ファイル:Glen1 Sweden.jpg
遊牧民のトナカイの放牧

特徴

遊牧民は、一箇所に定住することなく、居住する場所を一年間を通じて何度か移動しながら主に牧畜を行って生活する。

多くの場合、1家族ないし数家族からなる小規模な拡大家族単位で家畜の群れを率い、家畜が牧草地の草を食べ尽くさないように、その回復を待ちながら、定期的に別の場所へと移動を行う。

遊牧民は定住型の人々からは一般にあてどもなく移動しているかのようなイメージを抱かれやすいが、実際には拡大家族ごとに固有の夏営地・冬営地などの定期的に訪れる占有的牧地をもっていることが普通で、例年気候の変動や家畜の状況にあわせながら夏営地と冬営地をある程度定まったルートで巡回している。

遊牧民の生活している地域は乾燥帯ツンドラなどおおよそ農耕には向かない厳しい気候であるため、もっとも厳しい冬を越すための冬営地では数十から数百の家族単位で集団生活を営む例が多い。

遊牧民のもうひとつの特徴は、生活に交易活動が欠かせないことである。そもそも遊牧生活では、ミルク・毛皮・肉などを入手することは容易だが、穀類や、定住を要する高度な工芸品を安定的に獲得することが困難である。そのため、多くの場合、遊牧民の牧地の近辺には定住民、特に農耕民の居住が不可欠である。そのため、遊牧民は移動性を生かして岩塩や毛皮、遠方の定住地から遊牧民の間を伝わって送られてきた遠隔地交易品などを隊商を組んで運び、定住民と交易を行ってこれらの生活必需品を獲得してきた。一見素朴な自給自足生活を送っているような印象を受ける遊牧民の牧畜も、ヤギヒツジウマといった商品性の高い家畜の売買によって成り立ってきた部分は大きい。

歴史上の遊牧民

騎馬遊牧民は、銃砲の時代の到来まで、その人口に比して極めて大きな軍事力を発揮した。農耕民族は、農地や地場産業を維持する必要上、外征戦においてはその人口の1/30の動員がせいぜいであり、またそのような大量動員の際には非熟練兵士を多く抱えることとなる。騎馬部隊は少数の補助戦力にとどまるため、機動力を発揮しにくい。対して遊牧民は老幼の者と奴隷以外のほとんどの男性が熟練した騎兵となり、女性と非戦闘員男性もその後方から随伴し、生産と補給を並行して行った。また一箇所に留まらないため、その根拠地を掃討することも困難である。また、生身の人間には到底太刀打ち出来ない、圧倒的な速度と重量を併せ持つ騎兵の一斉突撃は、歩兵の陣形を容易に蹴散らすことが可能であった。

世界史上、もっとも大きな影響を及ぼした遊牧民は、北アジアモンゴル高原から中央アジアイラン高原アゼルバイジャンカフカスキプチャク草原アナトリアを経て東ヨーロッパバルカンまで至るY字の帯状に広がった騎馬遊牧民たちである。彼らは、匈奴サカスキタイの時代から、パルティア鮮卑突厥ウイグルセルジュークモンゴル帝国などを経て近代に至るまでユーラシア大陸全域の歴史に関わり、遊牧生活によって涵養されたの育成技術と騎射の技術と卓越した移動力と騎兵戦術に裏打ちされた軍事力で歴史を動かしてきた。中世以降は軽装騎兵が騎射で敵軍を混乱させ、重装騎兵が接近戦で敵軍を打ち破る戦法が用いられた。遊牧民を介してユーラシア大陸の東西はシルクロードなどを用いて交流し、中国で発明されたと言われる火薬などの技術が西に伝わった。

まとまった勢力として文献資料に初めてあらわれるのはキンメリア人であり、紀元前8世紀頃、南ロシア平原に勢力を形成したとされる。これに次ぎ、同じく南ロシア平原にスキュタイ人が現れる。スキュタイ人については、ヘロドトスの書物の記載が有名である。同じく歴史に登場するペルシアアケメネス朝もまた遊牧民を支配層とした国家である。アケメネス朝は後に続く広域国家の源流といわれる。紀元前4世紀頃から匈奴が中国の文献に登場し始め、紀元前3世紀には後へ続く遊牧国家の源流となる広域国家を形成した。西暦元年前後にイラン・イラクを支配した遊牧民系国家のパルティアは優れた騎射技術を持っていた。

4世紀頃に遊牧民族のフン族が引き起こしたゲルマン民族の大移動西ローマ帝国が滅亡した大きな要因であると言われている。その後も、遊牧民族の柔然・突厥・回鶻契丹が強大な軍事力でモンゴル高原からキプチャク草原に至るステップ地域を席巻した。

中世の中央アジア西部や東ヨーロッパでは、遊牧民族のテュルクモンゴルアヴァールブルガールハザールキプチャクペチェネグマジャルなどが覇権を争った。

13世紀頃、モンゴル帝国はモンゴル高原・中国・中央アジア・イラン・イラク・アナトリア・東ヨーロッパを支配するなど、強大な軍事力でユーラシア大陸を席巻した。モンゴル高原に割拠した遊牧民の部族は「モンゴル」・「メルキト」・「ナイマン」・「ケレイト」・「タイチウト」など。

14世紀後半になるとティムール朝がトゥーラーン・マーワラーアンナフル・ホラーサーン・ヒンドゥースタン・イラン・イラクを支配し、16世紀にはムガル帝国がインドに建国された。

14世紀にはオスマン帝国が興り、東欧・黒海沿岸・シリア・エジプト・イラクなどを支配した。

以降の長期間にわたり中国を統一した中華帝国は、前漢後漢以外のは遊牧民の王朝そのものか、その援助によって成立していた。匈奴は1世紀に南北に分裂し、南匈奴は後漢に服属し、北匈奴は後漢・烏桓鮮卑に滅ぼされた。ゲルマン民族の大移動を引き起こしたフン族が北匈奴の残党であるという説は有名である。西晋は南匈奴系の劉淵劉聡に滅ぼされた(永嘉の乱)。この頃、東アジアが発明され、騎兵の戦闘力は向上した。南北朝時代を経て300年ぶりに中国を統一したの皇室は半農半牧で鮮卑であった。を建国した李淵も鮮卑系ではないかと言われている。は遊牧民の帝国であるモンゴル帝国の一部である。明は王朝の軍事力として多くのモンゴル集団を従属させている。

しかし、これら遊牧民の軍事的活躍は、鉄砲大砲などの銃砲火器が発達するに連れて、下火となっていく。技術の進歩によって、射程距離、連射速度を伸ばした鉄砲の一斉射撃は、騎兵の突撃を返り討ち出来るほどの水準となった。また大砲は軽量化、高性能化していって様々な場所に展開できるようになり、遊牧民の陣地も素早く、遠距離から一方的に攻撃できるようになった。戦術も発達し、三兵戦術の概念が編み出され、騎兵のみに偏った遊牧民の戦術は時代遅れなものとなっていった。また、農耕民は経済、科学力を発達させ、合理性に則って都市を建設していった。こうして出来た都市の行政機構は、遊牧民の略奪を容易に許さなくなっていった。

中央ユーラシア遊牧民の民族概念

遊牧民の集団では同盟の締結、指導者家系の婚姻による成員及び家畜群の持参金的分割合流、あるいは政治軍事的理由での他集団の配下への統合など言語や祖先系譜を異にする他集団との融合が頻繁に生じる。また、指導者家系における新世代の独立などによる集団の分裂も日常的である。そのため、歴史的に祖先、言語文化を共有するとされる近現代民族観と、遊牧民における集団の統合意識、同族意識にはきわめて異質なものがある。例えば、現在中央アジアに分布する多くのテュルク系「民族」、例えばウズベク人タタール人といった遊牧民に由来する「民族」の多くが中世のモンゴル帝国においてチンギス・カン一族やモンゴル高原出身の武将の指揮下に再編成された中央アジアのテュルク・モンゴル系の遊牧民集団に起源を持つ。

実際には個々の遊牧集団は上記のように移動生活成員自体が複合的な種族構成を持つのみでなく、冬営地における夏季の留守番要員や農耕要員を包含する。さらに遊牧国家クラスの大集団になると支援基地として都市を建造してそこに行政事務をつかさどる官僚組織や手工業組織を配するなど多種族複合的な性格が強い。この種の遊牧国家の人造都市の特徴は権威の象徴としてのモニュメント的な見せる都市としての意味合いが強い。その典型がウイグルオルド・バリク大都である。

中央ユーラシア遊牧民の文化的特徴

中央ユーラシアの遊牧騎馬民共通の文化的特徴として、数々の点が指摘されている。

  1. 実力主義
    • 指導者は、能力のある者が話し合いで選出される
    • 農耕民に比べて女性の地位が高い
    • 能力があれば異民族でも受け入れて厚遇する
    • 男女を問わず騎馬と騎射に優れる、必然的に機動性に富むあり様がそのまま武力に直結している
  2. 人命(人材)の尊重
    • 情報を重視し、勝てない相手とは争わない
    • 実際の戦闘はなるべく行わず、指導者間の交渉で解決する
  3. 非完結の社会
    • 社会の維持に非遊牧世界の技術・製品・税を必要とするため領域内に農耕都市を抱え込む

などである。これらは人口が少ないがゆえの合理性に基づく。 抱え込む農耕都市が増加し支配下の都市間が交易などにより文化的・経済的に一体化することによって広域国家が発生する[1]

これらの文化は、遊牧に起源をもつものであるが、現代の国民国家、産業社会においてその遊牧的慣習は抹殺される傾向にある。その一因として、現代型の民族観、国家観と遊牧民の持つ集団編成原理に相容れない性格がある事が挙げられる。

遊牧民の食生活

モンゴルでは人間は「赤い食べ物」と「白い食べ物」で生きているという考えがあり、赤が肉、白が乳製品を指す。冬場は肉を食べる。干し肉等に加工して保存する。乳からはバターチーズヨーグルト馬乳酒なども作る。朝は乳茶も飲む[2]。肉食中心の遊牧民の生活において、馬乳酒は貴重な野菜の替りにビタミンミネラルを補うものとして夏場を中心に大量に飲まれている。酒とはいうものの、アルコール分は1-3%程度であり、水分、エネルギー、ビタミンC補給源として赤ん坊から年寄りまで飲用する[3]。酒というよりは限りなくヨーグルトに近い乳酸飲料であり、これだけで食事替りにしてしまうほどの夏のモンゴルの主食的存在である。大体1日に0.5 - 1.5リットル位を摂っているという報告が殆どだが、中には1人1日平均4リットルを飲んでいるという驚くべき調査結果もある。馬乳酒を1日3リットル飲むと1,200カロリーに相当し、基礎代謝に相当する。発酵の過程で増殖する酵母乳酸菌は、モンゴルでの乏しい食物繊維の替わりに、菌体が腸管老廃物を吸着して排出させている可能性がある[4]。北京農業大学の研究では、馬乳酒には12種類の人体必須微量元素、18種類のアミノ酸、数種類のビタミン群が含まれていた。乳酸菌ビタミンCを生成し、野菜を摂らない遊牧民のビタミンC補給源となっている[2][4]。馬乳酒にはビタミンCが100 mlあたり8-11 mg含まれている[5]。馬乳中の乳糖は発酵によりその多くがアルコール、乳酸または炭酸ガスに変換されるので乳糖不耐症の問題も起こりにくい。[6]。夏季に遊牧民が食事を摂らず馬乳酒のみで過ごしていることが旅行記[7]に記されている[6]。ただ乳糖不耐症のモンゴル人もなかにはいる。[8][9][10]

淡水魚野菜果物は通常入手できないため、ほとんど食べない[2]

上記のように肉(馬肉や山羊肉。ホルホグなど伝統料理がある)、乳製品、馬乳酒が必要なエネルギーとタンパク質を提供し、不足している糖分は体内でのアミノ酸からの糖新生で補われ、ミネラル、ビタミン類は馬乳酒が提供し、酵母と乳酸菌が食物繊維の代替を果たしている。必須脂肪酸については、家畜が自然の草を餌とするため肉、乳製品、馬乳酒にω-3脂肪酸ω-6脂肪酸がほどよいバランスで含まれている。偏った食事ではあるが、必要な栄養素はすべてそろっていて健康を維持できることになる。また魚を食べることもある。[11]

脚注

  1. Mohsen Farsani, Lamentations chez les nomades bakhtiari d'Iran, Paris, 2003.
  2. 2.0 2.1 2.2 http://kiifc.kikkoman.co.jp/tenji/tenji08/index.html キッコーマン国際食文化研究センター - 館内展示パネル - 自然がささえる草原の食卓
  3. http://www.jinruisi.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=85683 テンプレート:リンク切れ
  4. 4.0 4.1 石井智美「内陸アジアの遊牧民の製造する乳酒に関する微生物学的研究」『国立民族学博物館地域研』JCAS連携研究成果報告4、2002、pp103-123 
  5. 石井智美モンゴル遊牧民の乳利用〜健康維持の秘密〜 話題 畜産の情報 2012年5月号
  6. 6.0 6.1 http://clover.rakuno.ac.jp/dspace/bitstream/10659/406/1/S-31-2-197.pdf モンゴル遊牧民の製造する乳製品の性質と呼称に関する研究
  7. 南満州鉄道株式会社編纂1926『露亜経済調査叢書外蒙共和国(上編)』pp.315-316,p.320,pp.337-342.大阪:大阪毎日新聞社
  8. http://www.kingyoen.jp/column/column05_1.html
  9. http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/013/013260.html
  10. http://blog.goo.ne.jp/yanzaga/e/b43bd4b394581e2225e06abc32610abd
  11. http://blog.livedoor.jp/biwako_satellite-mongolia/archives/51704780.html

参考文献

テンプレート:参照方法

  • Alain Romane, nomades in the world, cambridge London 2004.
  • Gérard Chaliand, Les Empires nomades de la Mongolie au Danube : Ve siècle av. J.-C. - XVIe siècle, Perrin, 1995 (2e éd. revue et corrigée)
  • J-M.Durand, Les Documents épistolaires du palais de Mari, 3 vol., Le Cerf, LAPO, Paris, 1997, 1998, 2000.
  • GOGUEL, Frédéric. «Les chrétiens sous la férule des ayatollahs» dans Résister et Construire, Lausanne, nos 37-38, janvier 1997, p. 58-62.

関連項目

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