大都
大都(だいと)は、モンゴル帝国(元朝)のクビライ・カアンが1267年から26年を費やして現在の北京の地に造営した都市で、元朝の冬の都(冬営地)である。現在の中華人民共和国の首都、北京の直接の前身であり旧市街に匹敵するほどの規模を持つ、壮大な都市だった。
概要
ペルシア語資料では大都の音写である「ダーイドゥー」( دايدو Dāydū )およびモンゴル語、テュルク語で「カン、ハンの都」を意味する「ハンバリク」( خان باليق Khān Bālīq / Qan-balïq)で呼ばれている。マルコ・ポーロなど西欧諸国で「カンバルク」( Cambaluc )と呼ばれているのは後者に由来したものである。
北京地方はモンゴル高原・東北地区(満州)と中国中原の間の中継点に当たることから軍事的に重要な土地で、契丹人の遼のとき北方民族の支配下に置かれ、遼を滅ぼした金が首都中都大興府を置いた。1215年5月にモンゴルの圧力を受けた金が中都を放棄し、チンギス・カンの親征にともないモンゴル帝国軍による攻囲ののち接収される。モンゴル本土と中国の中継点であることからいち早くモンゴル帝国による北中国支配の拠点として復興され、燕京大興府と称した。チンギス、オゴデイ時代は耶律楚材など現地の漢人官僚たちによって運営が任されていたが、1251年7月にモンケが即位するとモンゴル帝国を3つの巨大行政府に分割し、そのうちの一つ、燕京等処行尚書省が設置された。オゴデイ時代にはマフムード・ヤラワチがこの長官として中央アジアから派遣され、サイイド・アジャッルなどがこの補佐として赴任している。こうして燕京はモンゴル帝国治下の重要な拠点都市として帝国東部の中心都市として位置付けられるようになった。同年に中国方面における軍事と内政を任され、後の開平府となる金蓮川に入府した皇弟クビライは、ついで燕京に入りこの地の統治権一切を掌握した。
モンケ歿後のアリクブケとの後継者争いに勝利したクビライは、1267年に燕京の城市の東北に接する土地に新たな都市を建設し始めた。大都の構造は、周礼の匠人営国の記載に則って構成され、南には宮殿と官庁街、北には市場が置かれる「面朝后市」など、中華帝国の帝都の理想形を模して作られた。こうした都城構成は、歴代中華王朝では一度も作られたことがなく、異邦人であるモンゴルが史上初めて実現させたものである。大都はこうした構成に見られる如く、純然たる計画都市として設計されたため、極めて整然とした構成美を持っていたとされる。
1271年に国号が大元に改められ、この新しい燕京も大都と改称された。これによりクビライ家の大元ウルスでは、上都開平府を夏営地、大都大興府を冬営地と定められた。大都は地方政権の一中核都市からモンゴルという世界帝国の首都として躍進し、通商を重視したクビライの許で全ウルスの経済的中心として位置付けられ以前にもまして著しく発展した。
大都は、内陸の都市としては驚くべきことに、「積水潭」と呼ばれる海につながる都市内港を持つよう設計された。現在の天津にあたる通州から閘門式の運河(通恵河)が開削され、城内の積水潭に繋げられたため江南地方からの物資も水運により結ばれるようになった。このため、陸上輸送された時代に比べて物資の輸送量は飛躍的に増大し、海のシルクロードを通してさまざまな国際商品が大都にもたらされ、国際商業都市として空前の繁栄を極めた。大都には西方の旅行者・商人も多く訪れ、その繁栄ぶりは、イブン・バットゥータやマルコ・ポーロなどの旅行記でヨーロッパにまで伝わった。
大都の前身である中都は、『集史』では「ジューンドゥー」( Jūngdū )と称されており、チンギス・カン治世中の廷臣ジャアファル・ホージャが城内に広大な土地を有していたことや、モンケ時代には中都城内のムスリム住民は3,000戸であったこと、さらにサイイド・アジャッルもここに庭園を持っていたなど、1215年の陥落以来、中都はモンゴル帝国の華北支配の要としてムスリム官僚をはじめとしてモンゴル帝国初期から中央アジアからのムスリム系の住民たちが多く集中して居住していたようである。現在の北京市内の南西部にある牛街礼拝寺は中国でも最古級のモスクであるが、これも中都城内にある建物である。もともと「ハンバリク」とはこの中都を指していたようである。
1368年にトゴン・テムル・カアン(順帝)により放棄されると、明のもと大都は北平と改称され、規模を縮小されて、太祖洪武帝(朱元璋)の四男、燕王朱棣に与えられた。朱棣が靖難の変で帝位を奪い、永楽帝として即位すると対モンゴル政策の拠点として再び重視され、大都の3分の2程度の規模で北京が建設され、明の首都となった。永楽帝は元の時代の宮殿を徹底的に破壊し、その上に新たに紫禁城(現故宮博物院)を建設した。現在の故宮博物院の北にある景山は、このとき宮殿の堀を掘った際に出た余り土を積み上げて造られた、人工の山である。
これ以降、北京は現在に至るまで中国の首都として繁栄することになる。
現在
1960年代に入ると、北京市は年々増加する交通渋滞を緩和するため市街地を取り巻く城壁を、一部を残して撤去することを決定した。1968年、この工事にともない北京市西城区の西直門を取り壊した際、その中から元代に建設された和義門が発掘された。西直門は、和義門にさらに土をかぶせる形で建設されていたのである。城門の残存部の高さは約22m、門道は長さ9.92m、幅4.62mで、磚(せん、煉瓦)で敷きつめられた門の上には、幅三間の城楼があったと推測される[1]。大都の遺物が発掘されるのはきわめてまれで、他には同じく西城区の一角にあった貴族の邸宅跡の調査があるのみであった[2]。
現在北京市内で確認できる大都の遺構は、西城区の積水潭(現在は什刹海)などの池や、海淀区から朝陽区にかけて見られる土城程度しか残されていない。
注記
参考文献
- イブン・バットゥータ 『大旅行記』 家島彦一訳
全8巻、平凡社[平凡社東洋文庫]、1996-2002年。