趙成ミン
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テンプレート:Infobox baseball player 趙 成珉(チョ・ソンミン、1973年4月5日 - 2013年1月6日)は、韓国のプロ野球選手(投手)、野球指導者。ソウル特別市出身。名前は「趙成民」とも表記。
経歴
韓国アマ球界のエースとして活躍し、テンプレート:Byに異例の8年契約で読売ジャイアンツへ入団。2年目のテンプレート:By後半から一軍に昇格。速球とスライダーを武器に抑えとして活躍し、あこがれの宣銅烈とも投げ合うなど徐々に頭角を現す。テンプレート:Byは開幕からローテーションの一角に入り、好投しても負ける不運等があったが前半だけで6完投3完封で7勝を挙げ、先発ローテーションの座をつかんだかに見られたが、前半戦とオールスターゲームの疲労により右ひじを故障した後は、一転して不運なプロ野球人生をたどる。
以降は右肘の手術とリハビリの繰り返しとなり、大きな活躍は見せられなくなる。2000年、韓国の人気女優チェ・ジンシル(崔真実)と結婚。テンプレート:By5月のヤクルト戦で約2年ぶりの先発勝利をあげたが、その年のオフ、契約を1年残しながら自主的に退団。
退団後は、韓国プロ野球入りを狙うが、交渉に失敗し、長期間の空白期を持つようになった。テンプレート:By12月にチェ·ジンシルと破局に至ると「もう一度野球をしたい」と野球復帰を夢見たがそれも挫折した[1]。
テンプレート:Byとテンプレート:Byに韓国プロ野球にドラフト参加申込書を送付するが、全ての球団から敬遠された[2]。一時引退し、韓国でシュークリーム(ビアード・パパ)のチェーン店事業を起こすが失敗に終わる。2004年8月、妻への暴力容疑で逮捕された。起訴猶予となり釈放され、チェ・ジンシルとは離婚。
テンプレート:Byからは韓国で解説者として再び野球に携わっていたが、5月5日にハンファ・イーグルスと契約を交わし、契約金無しの年俸5000万ウォンの条件で現役復帰。8月15日に一軍デビュー。4番手投手としてマウンドに上がり、1.1回を投げ、勝利を挙げた[3]。しかし、2007年10月22日にハンファを自由契約となる。
2008年からは解説者に復帰し、韓国では史上初となる元現役選手の野球エージェントとしての活動も始めた。また母校・高麗大学校のインストラクターなど指導者としての活動も始め、2011年1月斗山ベアーズの2軍リハビリコーチに就任し、翌2012年からは2軍ブルペン担当に変更となったが、同年10月に斗山を退団した。
2013年1月6日、ソウル特別市江南区のマンションで、交際女性の家で首をつって自殺したと思われる状態で発見された[4]。39歳没。直前に交際女性から別れを告げられていたことが判明した[5]。
論争と疑惑
2002年12月に離婚したいと訴える記者会見を開いた。その場で、自分がなぜチェ・ジンシルと離婚したいと思うかについて、記者団に説明した。その過程で自分が不倫を犯したという疑いを受けているという事実も明らかにしたが、その時に不倫相手と疑われた女性について言及し、男女の仲ではなく、「共同経営者の友人としての関係」と話した[6]。
2002年8月と10月、事業投資資金の名目で、チェ・ジンシルの母とその弟から借金をした。2002年12月の記者会見後は、その借金に関して贈与だと主張し始めた。これに対して2億ウォンの貸付金返還請求訴訟を起こされた。2004年8月、裁判所は成珉に合わせて1億8750万ウォンを賠償するよう判決を下した[7]。
2002年12月の記者会見時にチェ・ジンシルの妊娠に関して、自分の子ではないかもしれないと発言していた。2008年10月のチェ・ジンシルの自殺後、2人の子供は遺産を受け継ぐことになったが、成珉はその遺産を管理することについて権利を行使しようとすることにより、6年前に自分が虚偽の事実を流布したことを公然と認めている[8]。
エピソード
- 巨人時代の愛称は「コリアンエクスプレス」。
- 高身長を理由に兵役を免除されている。
- 巨人で最初にピアスをしてプレーしていた選手である。
- 日本語の学習に長渕剛や安室奈美恵の歌を活用した。日本語での意思疎通に通訳をほとんど必要としない。
- 結婚式にはチームメイトの桑田真澄、岡島秀樹、村田真一の他、前田亘輝らも出席した。
- NHKの野球中継及びスポーツニュースの際には、苗字の趙を「チョ」のほかに「チョー」と表記されたこともある[9]。
- 1998年のオールスター戦での肘の故障以降の低迷の原因は、当時の横浜ベイスターズ監督の権藤博のせいだと宝島社『巨人軍タブー事件史』内のインタビュー「憎んで愛したジャイアンツ」の中で語っている。本人によると「権藤に『肘が痛いので交代したい』と日本語で申し出たが、権藤は『こいつ何言ってるんだ』としらを切った」との事である。一方で、杉村繁は趙自身が出場できるという意志表示を行ったと証言している[10]。
- 生前に、元夫人のチェ・ジンシルと、チェ・ジンシルの実弟で趙成珉の義理の弟だったチェ・ジニョンが自殺している。チェ・ジンシルが自殺したと聞いた時は、相当なショックを受けた様子で、黙り込んでしまったという。
詳細情報
年度別投手成績
テンプレート:By2 | 巨人 | 22 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 11 | -- | .333 | 111 | 28.0 | 16 | 1 | 13 | 0 | 1 | 30 | 2 | 0 | 10 | 9 | 2.89 | 1.04 |
テンプレート:By2 | 15 | 15 | 6 | 3 | 1 | 7 | 6 | 0 | -- | .538 | 433 | 104.2 | 96 | 4 | 34 | 0 | 4 | 83 | 2 | 2 | 36 | 32 | 2.75 | 1.24 | |
テンプレート:By2 | 10 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | -- | .333 | 64 | 14.0 | 20 | 2 | 5 | 1 | 0 | 9 | 0 | 0 | 9 | 6 | 3.86 | 1.79 | |
テンプレート:By2 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 49 | 11.2 | 12 | 1 | 2 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 3 | 3 | 2.31 | 1.20 | |
テンプレート:By2 | ハンファ | 16 | 0 | 0 | 0 | -- | 2 | 2 | 0 | 4 | .500 | 101 | 19.1 | 30 | 1 | 9 | 0 | 6 | 8 | 0 | 0 | 15 | 14 | 6.52 | 2.02 |
テンプレート:By2 | 7 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 39 | 6.2 | 12 | 1 | 6 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 6 | 5 | 6.75 | 2.70 | |
テンプレート:By2 | 12 | 8 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | .333 | 191 | 43.0 | 41 | 3 | 19 | 2 | 5 | 18 | 0 | 0 | 23 | 20 | 4.19 | 1.40 | |
NPB:4年 | 53 | 17 | 6 | 3 | 1 | 11 | 10 | 11 | -- | .524 | 657 | 158.1 | 144 | 8 | 54 | 1 | 5 | 127 | 4 | 2 | 58 | 50 | 2.84 | 1.25 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
KBO:3年 | 35 | 8 | 0 | 0 | 0 | 3 | 4 | 0 | 4 | .429 | 331 | 69.0 | 83 | 5 | 34 | 2 | 11 | 30 | 0 | 0 | 44 | 39 | 5.09 | 1.70 |
記録
- NPB
- 初登板:1997年7月5日、対阪神タイガース15回戦(阪神甲子園球場)、8回裏に2番手として救援登板・完了、2回1失点
- 初奪三振:同上、9回裏にリード・シークリストから
- 初セーブ:1997年7月9日、対中日ドラゴンズ16回戦(札幌円山球場)、9回表に2番手として救援登板・完了、1回無失点
- 初勝利:1997年8月5日、対ヤクルトスワローズ19回戦(大阪ドーム)、8回表に5番手として救援登板・完了、2回無失点
- 初先発・初先発勝利:1998年4月8日、対広島東洋カープ2回戦(東京ドーム)、7回3失点
- 初完投勝利・初完封勝利:1998年5月2日、対ヤクルトスワローズ4回戦(東京ドーム)
- オールスターゲーム出場:1回(1998年)
- NPB打撃記録
- 初打点:1997年7月30日、対広島東洋カープ16回戦(東京ドーム)、8回裏に若林隆信から中犠飛
- 初安打:1997年9月20日、対広島東洋カープ24回戦(広島市民球場)、9回表にフェリックス・ペルドモから右前安打
背番号
- 51(1996年 - 1997年)
- 21(1998年 - 2002年)
- 99(2005年)
- 1(2006年 - 2007年)
- 86(2011年 - 2012年)