ハンファ・イーグルス

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テンプレート:独自研究 テンプレート:野球チーム テンプレート:Infobox ハンファ・イーグルス(Hanwha Eagles)は大韓民国(韓国)のプロ野球チーム。縁故地(ホームタウン)は大田広域市。本拠地は同市内の大田ハンバッ運動場野球場。この他、忠清北道清州市にある清州総合運動場野球場でも主催試合を行っている。経営母体は、ハンファ(旧:韓国火薬)。

チームのオーナー会社、ハンファグループが中華圏で使っている漢字表記は「韓華[1]であり、強いてチームのフルネームをこれを使って表記すれば「韓華イーグルス」になる。しかし、日本のメディアにおいてはグループの旧名である「韓国火薬」から錯誤された「韓火[2]、または「韓化[3][4]として書かれることが多く見受けられる。先述のとおり、これは誤りである(本球団に限らず、親会社のハンファので漢字表記全般にブレが見られる[5])。

歴史

草創期(1985年 - 1987年)

韓国プロ野球草創期、大田(テジョン)市(当時は忠清南道管轄)を本拠地として申し出る球団がなかったため、本来ソウルを本拠地として希望していたOBベアーズが、1984年のシーズンが終わるまで大田をホームとする新球団を創設する条件で、3年間大田に本拠地を構えていた。その間、KBOは忠清南道天安市出身の金升淵会長が総帥の韓国火薬に大田を本拠地とする新球団創設を打診。韓国火薬がこれを受諾して、1984年シーズンオフ、新球団を創設。球団の名前につける企業名は、一般人に怖い印象を与える親会社の韓国火薬の代わりに、ファンにもっと親密に近づけるように、グループ傘下の食品会社である「ピングレ」(韓国語でスマイルの意味)に決定。ニックネームは一般公募を通じて一番の得票を記録した「イーグルス」とし、新球団「ピングレ・イーグルス」の船出となった。

KBOと既存の6球団はピングレのリーグ参加を容易にするため、保有選手を供出することに加え、1984年と1985年のドラフトで、それぞれ10枚の特別指名権を与えた。これでピングレ・イーグルスは当時ロサンゼルス・オリンピック野球代表出身を含む、当時のドラフトの目玉になっていた大学出身の新人の多くを入団させて、チームを形作ることまでは難なく進んでいた。そして、ピングレ・イーグルスは、新球団のリーグ参加による衝撃を緩和するため、1年間の準備期間を経て、1986年シーズンからリーグ戦に参入させることにした。

しかし、各チームの保有枠から外れた選手や新人主体のチームは当時最下位の代名詞であった青宝ピントゥスと最下位争い。結局、球団元年の1986年は最下位、1987年は青宝を抜いて7チーム中6位で2年を過ごした。

飛躍と挫折(1988年 - 1992年)

2年間の最下位争いの後、初代監督の裵聖瑞(ペ・ソンソ)との契約の終了に合わせて、OBベアーズ三星ライオンズでそれぞれチームを優勝に導いた金永徳(キム・ヨンドク)を優勝請負人として監督に招いた。金永徳が監督を務めた1988年シーズンからチームは、その前とは違う戦いぶりを披露。シーズン序盤から上位争いに食い込み、当時全盛期を謳歌していた首位のヘテ・タイガースに0.5ゲーム差の2位で前期リーグを終了、世間を驚かせた。後期リーグは3位で終了して、プレイオフで後期リーグ2位の三星と対決。そこまで2年連続韓国シリーズに進出して、ポスト・シーズンの経験の豊富な三星の優位との予想を覆し、3連勝で三星を一蹴。また波乱を起こしながら、公式戦参入3年目で韓国シリーズ進出を決めた。ヘテ・タイガースとの韓国シリーズでは3連敗で一気に王手をかけられたが、それから第4、5戦をものにして、シリーズを第6戦まで持ち込んだ。結局第6戦に敗れて、2勝4敗で敗退した。

翌年のシーズンは1シーズン体制に制度が変更。リーグ戦の1位チームに韓国シリーズ直行の権利が与えられる制度の下で、ピングレは当時「ダイナマイト打線」と呼ばれた豪快な打線をバックにシーズン序盤から首位を快走。2位のヘテに5.5ゲーム差をつけて首位でリーグ戦を終了。2年連続で韓国シリーズ進出に成功した。そして、プレイオフを勝ち越してシリーズにあがったヘテとのリターンマッチになったシリーズの第1戦で李康敦(イ・ガンドン)がヘテのエース宣銅烈から1回裏先頭打者ホームランを打ったのを合図に打線の爆発で宣銅烈を打ち崩し、シリーズの緒戦をものにした。そこまでの韓国シリーズで緒戦を勝ったチームは全部優勝したが、1回裏に4点を挙げて勢いを保ったまま迎えた2回戦の2回表に当時2年目のショート、張鍾熏(チャン・ジョンフン)が決定的エラーを犯して逆転負けを喫し、そのまま4連敗。また、準優勝に甘んじた。

1990年は、シーズン中盤まで首位を走るも、2年間の準優勝の後遺症で故障者が続出。9月以降失速して3位で公式戦を終了。準プレイオフで4位の三星に2連敗で敗退した。

故障者の復帰と、年間ホームランと打点の新記録を樹立し韓国を代表する巨砲として成長を遂げた張鍾熏を中心とする打線の活躍により、1991年は2位で公式戦を終了してプレイオフに直行した。ここで、ロッテ・ジャイアンツを下して勝ち上がった三星を3勝1敗で退けて、韓国シリーズに進出。しかし、3度目の挑戦となった今度の相手もまたヘテ・タイガースであった。ヘテはこの年公式戦で2位以下に大きな差をつけながら、首位を独走して韓国シリーズに進出した。それで、誰もがヘテの圧倒的有利と予想した。シリーズが始まると、予想通りピングレは第2戦まで終始圧倒され2連敗で本拠地に帰ってきた。
本拠地に場を移して開かれた第3戦で先発の宋津宇(ソン・ジヌ)が8回2死まで一人の走者も許さない投球を演出しながら、1対0でリード。この試合はレギュラーシーズンでもなかった完全試合への期待で全国の野球ファンの視線を固定させた。しかし8回の3人目の打者が打った平凡なファウルフライを当時のライト守備についていた李重和(イ・ジュンファ)が落球すると、その打者に四球を許し完全試合を逃した。結局、ここから宋津宇が打たれ出してその試合も1対4で逆転負けを喫した。翌日の第4戦も宣銅烈の前に手も出せないまま完敗して3度目の挑戦は1勝も挙げられないまま終わった。

1991年も準優勝に終わったものの、翌年の1992年は最多勝と最優秀救援を席巻した宋津宇と韓国プロ野球史上初の年間40本塁打を記録した張鍾熏を軸にシーズン始めから首位を独走し、9月初旬には早くも韓国シリーズ進出を確定。最終的には、史上初の年間80勝を挙げた。なお、この年は宣銅烈がデビュー以来初めて負傷で戦線を離脱するなど2勝止まりだったのが影響して、公式戦2位ヘテが準プレイオフを勝ち抜いてきた同3位のロッテに最終戦の第5戦までもつれ込む接戦の末敗退する結末でロッテがシリーズの相手になった。この時点まではついにピングレに優勝のチャンスが到来すると思われた。しかし、公式戦で7勝止まりだったロッテの投手朴東煕(パク・ドンヒ)がレギュラーシーズンとは見違える好投を披露してピングレ打線を封じ、このシリーズは誰も予想しなかったロッテの4勝1敗の優勝で幕を下ろした。

沈滞期(1993年 - 1998年)

1993年シーズンは故障者続出であったが、特に2年連続でホームランと打点の年間記録を更新した張鍾熏の負傷と不振は致命的であった。そして、新戦力の方でも前年のドラフトで大卒、高卒でそれぞれ目玉になっていた具臺晟盧長震(ノ・ジャンジン)を取りながら、具臺晟は故障、盧長震はプロの厳しいトレーニングについていけず、チームを離脱した。 結局、チームも5年ぶりBクラスへ転落して、金永徳監督がこのシーズンオフ限りで、韓国シリーズでの4度の失敗とこの年の不振の責任を取って、契約切れをもって退団した。

翌年の1994年は親会社の韓国火薬の総帥一家の相続を巡る争いで、それまでチームの冠会社だったピングレが系列から分離。しかし、プロ野球チームの保有はそのまま親会社の韓国火薬が続けることになった。そして、ピングレ側の分離を持って韓国火薬もハンファに名称を変更。それにしたがってチーム名も「ハンファ・イーグルス」に変わり、ユニフォームやロゴも一新された。そして、金永徳監督の時にヘッド・コーチを務め、またロッテ・ジャイアンツを2度の優勝に導いた姜秉澈(カン・ビョンチョル)を後任監督として招いた。この年は、序盤の不振を克服して、ペナント・レースのヘテと同率3位で終了。準プレイオフでは対戦成績で勝ち越したヘテの方に開幕権を譲ったが2連勝で通過。4度の韓国シリーズの中で3度の失敗のリベンジを少しながら果たした。しかし、プレイオフでは太平洋ドルフィンズに3連敗となった。

1995年からは、1990年前後を支えた選手たちに衰えが見え始めたにも、1992年入団の鄭珉哲と1993年入団の具臺晟を除くと、それを補う新戦力はなかなか登場せず、世代交代に苦労してチーム戦力は下降の一路をたどるようになった。1996年は、16勝24セーブで5冠(MVP、最多勝、最優勝防御率、勝率、最優秀救援)のタイトルを取った具臺晟の大車輪の活躍で公式戦3位で準プレイオフに進出したが、4位の現代ユニコーンズに敗退した。そして、1997年・1998年は2年連続7位に止まり、1998年オールスターゲーム休み期間中に姜秉澈監督を解任するという、球団史上初のシーズン途中監督交代という事態に至った。

初優勝(1999年)

1998年シーズン途中、姜秉澈監督を解任してヘッド・コーチであった李煕洙(イ・ヒス)を監督代行として昇格させたが、7位でシーズンを終了。しかし、1998年シーズンオフ、後任の候補を探すも適任の人物が見つからず、そのまま李煕洙を正式監督として座らせ1999年シーズンに臨んだ。もともとプロでの監督経験がなかった李煕洙が2年連続7位のチームを受け継いで、監督代行を務める間目立った動きを見せなかったこともあって、1999年シーズンの展望は良い方ではなかった。

しかし、この年は2年間不振に陥った宋津宇の復活とともに、鄭珉哲、李相睦(イ・サンモク)の先発3本柱が立ち直って、8球団の中で一番安定した投手ローテーションを確立。その後を抑えの具臺晟が締めるパターンで、先発3人は揃って14勝以上、具臺晟は8勝26セーブ。それに1998年から始まった外国人選手の導入でこの年獲得したデービスとローマイヤーは、それぞれ3割30ホームランとシーズン45ホームランの活躍を見せ、主砲の張鍾熏も28ホームランで復活。これらの活躍で夏場からはLGツインズとマジックリーグ2位の座を置いて熾烈な争いを繰り広げた。

そして、9月中旬、現代との3連戦で全勝したことから快進撃が始まり、LGを退けてマジック・リーグ2位の資格でプレイオフに進出。プレイオフでもドリーム・リーグ1位でリーグ全体でも1位の成績を収めた斗山ベアーズを4連勝で破り、7年ぶりの韓国シリーズ進出を確定した。ロッテとの韓国シリーズでは、先発3本柱の安定した投球で4勝1敗で優勝した。

2000年代前半(2000年 - 2004年)

1999年の韓国シリーズ制覇は、李煕洙監督の能力によるものというよりはすべてがよい方向に進んだ結果というのが大方の見方だった。結局、優勝の動力だった先発3本柱の方は、鄭珉哲は1999年シーズンオフに日本の読売ジャイアンツへ移籍、李相睦は故障でリタイアして、宋津宇一人だけ先発ローテーションを守るなか、外国人のデービスとローマイヤーも怠慢な態度を見せ始め、前年優勝した勢いは完全に消滅。チームは7位に逆戻り、結局、もともと多くを期待されなかった李煕洙監督は2000年限りで退団した。

2000年シーズンオフ、自律野球を標榜し、投手分業制のシステムでLGを優勝に導いた李廣煥(イ・グァンファン)監督を招いた。李廣煥監督は赴任初年度にチームを準プレイオフに導くも公式戦では勝率5割を切り負け越した。斗山との準プレイオフでも敗退。2002年は6位、監督が球団OBの柳承安(ユ・スンアン)に変わった2003年は5位、2004年は7位と成績は低迷した。

2000年代後半・金寅植監督時代(2005年 - 2009年)

金寅植監督が就任した2005年は開幕前の低評価を覆し、公式戦4位で準プレーオフに進出し、3位のSKワイバーンズを破りプレーオフに進出したものの斗山に3連敗した。2006年は高卒ルーキー柳賢振(リュ・ヒョンジン)の活躍が話題を呼び、公式戦3位で準プレーオフ、プレーオフを勝ち抜き、前回の1999年以降、7年ぶりに韓国シリーズへ進出した。しかし、韓国シリーズでは三星に1勝4敗1引分で敗退した。2007年も上位争いに食い込み公式戦3位で3年連続でポスト・シーズン進出に成功。準プレーオフで4位の三星に勝って、3年連続でプレーオフに進出に成功したが、今度は2位の斗山に3連敗で敗れ、韓国シリーズ優勝はまたお預けとなった。2008年はオリンピック休み以降、調子を落とし4位争いからも脱落。公式戦5位に終わり、4年ぶりにポストシーズン進出に失敗した。

2009年は金寅植監督がWBC(ワールドベースボールクラシック)の韓国代表監督を務め準優勝という好成績を残したものの、肝心の自身の率いるチームは投手陣の世代交代失敗や、主砲金泰均の長期離脱もあり、6月から最下位を独走するようになった。そして長年チームを支えた宋津宇鄭珉哲の2人のベテラン投手も引退を表明し、一軍リーグ参入初年度の1986年以来となる23年ぶりのシーズン最下位を記録するなど、転機の1年となった。また金寅植監督もこの年限りで退任し、新監督には大田出身ながら現役時代や指導者の経歴を通してピングレ・ハンファに在籍したことのない韓大化が就任した。だが11月には金泰均李ボム浩の2名の主軸打者が日本プロ野球へ、12月には抑え役を務めていたブラッド・トーマスがメジャーリーグへとそれぞれ移籍し、大きな戦力流出となった。

2010年代(1)・韓大化監督時代(2010年 - 2012年)

韓大化監督初年度だが戦力的に苦しいとされた2010年は、投打ともに選手層の薄さが目立ち、球団史上初の2年連続最下位に終わった。この年限りでベテラン左腕の具臺晟も退団し、チームには1999年の優勝を知る者がいなくなり、更なる世代交代が進むことになった。2011年はLGと同率6位となり最下位から脱出した。オフには金泰均が復帰、韓国人初のメジャーリーガー・朴賛浩が入団した。2011年12月より本拠地のハンバッ運動場野球場の大規模改修工事が開始され、2012年4月の主催試合はすべて準本拠地の清州で開催された。2012年は序盤から低迷し続けたことで、シーズン途中の8月28日、韓大化監督の辞任が発表され、韓容悳(ハン・ヨンドク)首席コーチが監督代行として残りの試合の指揮を執ったが2年ぶりの最下位に終わった。

2010年代(2)・金応龍監督時代(2013年 - )

2012年10月、かつてヘテタイガース三星ライオンズを指揮し、10度の韓国シリーズ優勝を成し遂げた金応龍監督が、71歳という高齢にもかかわらず監督に就任した。同年12月、2006年よりエースとして活躍してきた柳賢振がポスティングにより米国MLBロサンゼルス・ドジャースへ移籍した。2013年シーズンは韓国プロ野球最多の開幕13連敗を記録し、2年連続最下位となった。しかも同年よりNCダイノスの加入により9球団制となったため、韓国プロ野球史上初の9位でもあった。低迷からの脱出を図るため、同年オフシーズンには鄭根宇李容圭の韓国代表選手2名をFAで獲得した。

チームの特徴

  • 選手、監督を問わず、チームに所属する期間が他球団と比べて比較的長い。
    韓国プロ野球現役最年長の43歳まで現役を続け、21年間の現役生活で一度も移籍しなかった宋津宇(ソン・ジヌ、1989年入団、2009年引退)を始め、鄭珉哲(チョン・ミンチョル、1992年入団、2009年引退)、具臺晟(ク・デソン、1993年入団、2010年引退)などが挙げられる。野手の方でも、19年間プレーして引退した張鍾熏(チャン・ジョンフン)のほか、生え抜きで10年以上在籍した選手が多い。だが、2009年以降チームの世代交代を進めたため、2010年からそういった生え抜き選手は減少傾向にある。
    監督の方でも、創設から2012年まで27年間歴任した監督の数が8人、監督の平均寿命が約3.4年であり、交代される時も大体は任期を満了して再契約を結ばない形となることが多い。シーズン途中での交代としては、1998年の姜秉徹監督、2012年の韓大化監督の例がある。
    これは、親会社が攻撃的な投資をする余力が他の球団より少なく、2010年までFAなどによる補強に乗り出さなったからでもあるが、目の前の成績よりチームの運営を長い目で見る特性に起因することもある。またチームに貢献してきたベテラン選手を優遇して1年や2年の不振では見切らないため、そのベテランたちが復活を遂げて選手生命が延びることの方が大きいと見られる。他球団を放出されたベテラン選手の再生にも長けている。
  • ピングレ時代の8年間はユニフォームの変更が一度もなかったが、ハンファになってからはユニフォームの変更が頻繁に行われた。メジャーチェンジとマイナーチェンジを含めて、15年間で6度のユニフォーム・チェンジがなされた。2009年からは、韓国プロ野球では初めて選手の背ネームをローマ字で表記したデザインが採用されたが、1年限りで終わった。
  • 上述の主力の長い在籍のおかげで、韓国プロ野球創設メンバーの6球団(OB・三星・MBC・ヘテ・ロッテ・三美)より4年遅れて一軍リーグに参入したにもかかわらず、現在KBO所属球団で最多(4人)の100勝投手を輩出しており、またその中で150勝以上が2人いる(宋津宇鄭珉哲)。ちなみに、韓国プロ野球で150勝以上の成績を残した投手は、史上3人しかない。さらに宋津宇は韓国プロ野球唯一の200勝投手である。しかも、この100勝投手4人全員が選手時代には韓国の他の球団に所属したことのないイーグルス一筋の選手である。
  • 2011年から2012年まで、開幕前の春季キャンプはまずハワイアリゾナなどアメリカ合衆国内で第1次キャンプを消化し、その後第2次キャンプを沖縄県で実施した。2013年、2014年の春季キャンプは全日程を沖縄県八重瀬町東風平野球場で行う。2004年から2011年まで秋季キャンプは、ハンファの経営するホテルが近隣にあるため、長崎市かきどまり野球場で実施することが多かった。2012年秋、忠清南道瑞山に専用の練習場が完成し、秋季キャンプを実施している。

歴代監督

  • 裵聖瑞(ペ・ソンソ)1985年 - 1987年
  • 金永徳(キム・ヨンドク)1988年 -1993年
  • 姜秉徹(カン・ビョンチョル)1994年 - 1998年7月 ※1998年はシーズン途中、成績不振の責任を取って解任
  • 李煕洙(イ・ヒス)1998年7月 - 2000年 ※1998年は監督代行
  • 李廣煥(イ・グァンファン)2001年 - 2002年
  • 柳承安(ユ・スンアン)2003年 - 2004年
  • 金寅植(キム・インシク) 2005年 - 2009年
  • 韓大化(ハン・デファ) 2010年 - 2012年8月 ※2012年はシーズン途中、成績不振の責任を取って辞任
  • 韓容悳(ハン・ヨンドク) 2012年8月 - 10月 ※ 監督代行
  • 金応龍(キム・ウンニョン) 2013年 -

永久欠番

  • 21 - 宋津宇(ソン・ジヌ、韓国語:송진우) 現ハンファ・イーグルス一軍投手コーチ
  • 23 - 鄭珉哲(チョン・ミンチョル、韓国語:정민철) 現ハンファ・イーグルス二軍投手コーチ
  • 35 - 張鍾薫(チャン・ジョンフン、韓国語:장종훈) 現福岡ソフトバンクホークス二軍・三軍打撃コーチ

主な在籍選手

投手


捕手


内野手


外野手



主な退団・引退選手

韓国人選手

柳承安(ユ・スンアン、在籍1986年 - 1991年)
球団創設時のメンバー。2003年 - 2004年はチームの監督も務める。2010年より警察庁野球団監督。息子はプロ野球選手の柳元相
韓禧敏(ハン・ヒミン、在籍1986年 - 1992年)
球団創設時からローテーションを支えた下手投げ投手。1994年 - 1995年の2年間は、初の韓国人選手として台湾プロ野球・俊国ベアーズでもプレー。
李相君(イ・サングン、在籍1986年 - 1996年、1999年 - 2001年)
球団創設期からチームを支えてきたエース投手。一旦引退して1997年から投手コーチを務めたが、通算100勝に未練を断ち切れず1999年に現役復帰。そのおかげで、選手としてチームの優勝を経験し、願望だった個人通算100勝も達成できた。2001年シーズンを最後に再び現役引退し、今はチームで投手コーチを務めている。
李康敦(イ・ガンドン、在籍1986年 - 1997年)
草創期の打線の中軸を努めた好打者。積極的なスイングで好球必打を信条とし、それでも高打率を残すなど、初球打ちの達人と言われた。
姜正吉(カン・ジョンギル、在籍1986年 - 1995年)
草創期、ダイナマイト打線と呼ばれたチーム打線で5番打者を任せられ、堅実な打撃で貢献した好打者。
李政勲(イ・ジョンフン、在籍1987年 - 1994年)
1987年の新人王。闘志溢れるプレイでファンに愛された。現役当時ダイナマイト打線と呼ばれたチーム打線のリードオフマンとして1991-1992年2年連続首位打者のタイトルを獲得。以降、韓国プロ野球で2年連続で首位打者をタイトルを獲得した打者は2009年まで出なかった(2010、2011年と李大浩が2年連続首位打者を獲得)。現在は親会社のハンファグループ傘下の天安北一高等学校の野球部監督を務めている。2012年には第25回AAA世界野球選手権大会の韓国代表監督も務める。
張鍾熏(チャン・ジョンフン、在籍1987年 - 2005年)
テスト生から入団して、引退する時は韓国プロ野球の個人通算最多本塁打記録を保持した。背番号35はチームの永久欠番となる。
詳しくは本人の項を参照。
韓容悳(ハン・ヨンドク、在籍1988年 - 2004年)
東亜大学中退後、張鍾熏同様テスト生として入団して、1990年代中盤はローテーションのエースにまで成長した。
入団時の背番号は、引退する時に40勝できればという願望を込めて40番を選んだが、引退した時はその3倍に上る120勝を超えた。
引退後はスカウトやコーチを歴任し、2012年8月28日、韓大化監督の辞任により同年10月初旬までハンファの監督代行をつとめた。
宋津宇(ソン・ジヌ、在籍1989年 - 2009年)
詳しくは本人の項を参照。
姜錫千(カン・ソクチョン、在籍1989年 - 2003年)
三塁手のポジションで堅実なプレイを見せ、好打者が並んだチーム打線を完成させた。
鄭珉哲(チョン・ミンチョル、在籍1992年 - 1999年、2002年 - 2009年)
読売ジャイアンツ。詳しくは本人の項を参照。
具臺晟(ク・デソン、在籍1993年 - 2000年、2006年 - 2010年)
オリックス・ブルーウェーブニューヨーク・メッツ。詳しくは本人の項を参照。
盧長震(ノ・ジャンジン、在籍1993年 - 1998年)
詳しくは本人の項を参照。
李栄雨(イ・ヨンウ、在籍1996年 - 2010年)
1999年の優勝に貢献した外野手。
文東煥(ムン・ドンファン、在籍2004年 - 2009年)
詳しくは本人の項を参照。
趙成珉(チョ・ソンミン、在籍2005年 - 2007年)
読売ジャイアンツ。詳しくは本人の項を参照。
金敏宰(キム・ミンジェ、在籍2006年 - 2009年)
詳しくは本人の項を参照。
(イ・ボムホ、在籍2000年 - 2009年)
起亜タイガース
柳賢振(リュ・ヒョンジン、在籍2006年 - 2012年)
ロサンゼルス・ドジャース
張盛好(チャン・ソンホ、在籍2010年 - 2012年)
ロッテ・ジャイアンツ
朴賛浩(パク・チャンホ、在籍2012年)
韓国人初のメジャーリーガー。現役最後の1年をハンファで過ごした。詳しくは本人の項を参照。

在日韓国人及び韓国系日本人選手

福士敬章(在籍1986年)
韓国名は張明夫(チャン・ミョンブ)。元読売ジャイアンツ南海ホークス広島東洋カープ
1986年、青宝ピントゥスから移籍も1勝18敗の成績で同年限りで退団、引退。
吉村元富(在籍1986年 - 1991年)
韓国名は高元富(コ・ウォンブ)。元南海ホークス
1989年、首位打者とゴールデングラブ賞を獲得。
高山智行(在籍2005年)
阪神タイガース。韓国名は高智行(コ・ジヘン)。
大原秉秀(在籍2009年)
東京ヤクルトスワローズ。韓国名は姜秉秀(カン・ビョンス)。

その他の外国人選手

宮城弘明(在籍1988年 - 1992年)
ヤクルトスワローズ。韓国での登録名は金弘明[6][7](キム・ホンミョン)。
もともと、韓国出身者とは血縁関係のない日本人なので、当時のルールでは球団に所属できなかったはずだったが、スカウトが在日韓国人と偽った上で入団した[6]
ダン・ローマイヤー(Dan Rohrmeier、在籍1999年 - 2000年)
1997年にシアトル・マリナーズでのメジャー経験あり。1999年、シーズン45本塁打で指名打者部門でゴールデングラブ賞受賞。
ジェイ・デービス(Jay Davis、在籍1999年 - 2002年、2004年 - 2006年)
韓国プロ球界の外国人選手としては史上最長となる7年間活躍。
ブライアン・ウォーレン(在籍2001年)
千葉ロッテマリーンズ
ホセ・ヌーニェス(在籍2001年)
福岡ダイエーホークス
マーク・スミス(在籍2005年)
ヤクルトスワローズ
エディ・ディアス(在籍2004年)
広島東洋カープ
セドリック・バワーズ(在籍2007年)
横浜ベイスターズ東北楽天ゴールデンイーグルス。韓国ではセドリックの登録名で登録した。
ビクトル・ディアス(在籍2009年)
中日ドラゴンズ
エリック・ヤング(在籍2009年)
オリックス・バファローズ
ホセ・カペラン(在籍2010年)
カリーム・ガルシア(在籍2011年)
オリックス・バファローズ
ショーン・ヘン(在籍2012年)
デニー・ボーティスタ(在籍2011年 - 2013年)
ダナ・イブランド(在籍2013年)
キャレブ・クレイ(在籍2014年)

脚注

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参考資料

外部リンク

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  1. 2011年中文版「韓華グループ紹介ブロッシャー」
  2. ハンファイーグルス紹介 - 『☆Strike Zone☆ 韓国プロ野球応援!』
  3. 1994年から2001年頃までの『週刊ベースボール』(連載コーナー「韓国プロ野球リポート」)
  4. 幻の野球アジアシリーズ~1995福岡 - 『[野球・メジャーリーグ] All About』(2004年12月31日付記事。ガイド:瀬戸口仁、最終更新者:コモエスタ坂本)
  5. 「韓火」と表記するメディア 「韓化」と表記するメディア
  6. 6.0 6.1 『プロ野球人名事典2003』(2003年4月25日、日外アソシエーツ発行・紀伊國屋書店発売。編著者:森岡浩。コード:ISBN 4816917713)
  7. 日本球界経験選手データベースより「宮城弘明」 - 『☆Strike Zone☆ 韓国プロ野球応援!』