越後交通栃尾線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|} 栃尾線(とちおせん)は、新潟県長岡市に本社を置く越後交通が運営していた、長岡市の悠久山駅から長岡駅、見附市の上見附駅を経由して、栃尾市(現・長岡市)の栃尾駅までを結んでいた軽便鉄道路線。
目次
概要
長岡駅を中心に長岡市東部を結ぶ軽便線。前身の栃尾鉄道の名から、通称 栃鉄(とってつ)と呼ばれ、小さな車両は「マッチ箱」の愛称で親しまれた。
栃尾鉄道は、軽便鉄道としては全国でも例が少ない急行列車を運行しており、また全線電化やCTC化(一部区間)、カルダン駆動の新車の導入などの近代化にも中小私鉄としていち早く着手した。さらに、付帯事業として路線バスの運行のほか、野球場・ホテル・遊園地等沿線の観光開発にも乗り出すなど、誘客策も積極的に実施していた。新潟県中越地方の電車・バス3社合併により越後交通となってからも、沿線住民からは引き続き「栃鉄」と呼ばれて親しまれていたが、1975年に全線が廃止され、同社の路線バスに転換された。
路線データ
- 路線距離(営業キロ):26.5km
- 軌間:762mm
- 駅数(起終点駅を含む):25駅
- 複線区間:全線単線
- 電化区間:全線(直流750V)
歴史
駅の位置(配列)は経路図あるいは駅一覧の節を参照。
- 1915年(大正4年)
- 1916年(大正5年)
- 1917年(大正6年)9月12日軽便鉄道延長線(新潟県長岡市城内町-同県古志郡栖吉村間1.48M)敷設免許状が下付[9]
- 1918年(大正7年)9月26日軽便鉄道延長線(新潟県長岡市城内町-同県古志郡栖吉村間)指定の期限内に工事施工認可申請を為さざる為敷設免許状が失効(官報掲載日)[10]
- 1919年(大正8年)12月25日 上見附駅移転[11]、スイッチバックとなる
- 1922年(大正11年)5月30日鉄道延長線(新潟県長岡市城内町(長岡)-同県古志郡栖吉村(悠久山)間1.60M)敷設免許状が下付[12]
- 1924年(大正13年)5月1日 悠久山 - 長岡 (1.8M≒2.8km) 全線開通[13]
- 1925年(大正14年)「瓦斯倫自動客車」(単端式ガソリンカー)導入。軌道扱いの私鉄での先行導入例はあったが、地方鉄道としては日本最初の事例。
- 1927年(昭和2年)9月22日鉄道延長線(新潟県長岡市四郎丸町-同市荒屋敷町間1.08M)敷設免許状が下付[14]
- 1929年(昭和4年) 上北谷駅(初代)を太田駅に、上太田駅を上北谷駅に改称
- 1930年(昭和5年)10月1日軽便鉄道延長線(新潟県長岡市城内町-同市荒屋敷町間)につき指定の期限内に工事施工認可申請を為さざる為敷設免許状が失効(官報掲載日)[15]
- 1936年(昭和11年)
- 5月 混合列車廃止
- 5月1日 袋町駅開設
- 1937年から1946年までのいずれかの時期に神田口駅が廃止、下長岡駅が移転する
- 1948年(昭和23年)4月26日 全線600V電化。終戦後の燃料不足対策による突貫工事で、沿線市町村から電柱の寄付を受け、福島電気鉄道からの中古回転変流機購入や国鉄払い下げの架電部品を用いるなどの資材調達手法で、短期間での低コスト電化を実現した。これに合わせ、気動車多数を電車化改造。
- 1953年(昭和28年)
- 1955年(昭和30年)5月15日 東神田駅開設[16]。
- 1956年(昭和31年)
- 1960年(昭和35年)10月1日 長岡鉄道、中越自動車との3社合併により「越後交通」(現社名)に。路線名を栃尾線とする
- 1961年(昭和36年)12月11日 悠久山 - 上見附にCTC導入
- 1966年(昭和41年)6月 総括制御 (HL + AMM) の車両使用開始
- 1967年(昭和42年)11月14日 貨物列車廃止
- 1970年(昭和45年)5月1日 家政高校前駅を中越高校前駅に改称[16]
- 1973年(昭和48年)4月16日 上見附 - 栃尾 (10.4km)、悠久山 - 長岡 (2.8km) 廃止。同社のバス路線に転換
- 1975年(昭和50年)3月31日 長岡 - 上見附 (13.2km) の廃止により、越後交通栃尾線全線廃止。長岡 - 上見附は、翌4月1日より同社のバス路線に転換
駅一覧
- 全駅新潟県に所在。
- 所在地の市町村名・接続路線の事業者名は廃止時点のもの。
- ( )内は、開業当時の駅名。
駅名 | 駅間キロ | 営業キロ | 接続路線 | 所在地 | 廃止日 |
---|---|---|---|---|---|
悠久山駅 | - | 0.0 | 長岡市 | 1973年4月16日 | |
長倉駅 | 0.6 | 0.6 | |||
土合口駅 | 0.9 | 1.5 | |||
大学前駅(四郎丸駅) | 0.4 | 1.9 | |||
高校前駅 | 0.4 | 2.3 | |||
長岡駅 | 0.5 | 2.8 | 日本国有鉄道:信越本線・上越線 | 1975年4月1日 | |
袋町駅 | 0.7 | 3.5 | |||
神田口駅 | 0.2 | 3.7 | |||
東神田駅(家政高校前駅[17]→中越高校前駅)[16] | 0.2 | 3.9 | |||
下長岡駅 | 0.3 | 4.2 | |||
下新保駅 | 1.2 | 5.4 | |||
小曽根駅 | 1.2 | 6.6 | |||
宮下駅 | 0.9 | 7.5 | |||
浦瀬駅 | 1.2 | 8.7 | |||
加津保駅 | 1.5 | 10.2 | |||
椿沢駅 | 1.8 | 12.0 | 見附市 | ||
耳取駅 | 1.5 | 13.5 | |||
名木野駅 | 1.5 | 15.0 | |||
上見附駅 | 1.0 | 16.0 | |||
明晶駅 | 2.2 | 18.2 | 1973年4月16日 | ||
本明駅 | 1.6 | 19.8 | |||
太田駅(上北谷駅) | 1.3 | 21.1 | |||
上北谷駅(上太田駅) | 0.8 | 21.9 | |||
楡原駅 | 2.6 | 24.5 | 栃尾市 | ||
栃尾駅 | 2.0 | 26.5 |
廃線後の状況
廃線後、線路は撤去されたものの、市街地などの一部を除いて大部分は廃線跡が確認できるところが多い。現在遊歩道になっていたり、跨線橋があるのはその名残といえる。以下は廃線跡の主な現況である。
- 長岡駅東口の悠久山方には廃線跡の用地を利用して駐輪場が建てられており、さらにそこから先、栖吉川を渡る地点までは、一部私有地となっている以外は遊歩道として整備されている。国道352号線に面する廃線跡には機関車の車輪を模したモニュメントが設置されている。
- 新潟県道19号見附栃尾線の見附市から栃尾方面に並行する廃線跡は、刈谷田川を渡る鉄橋から上北谷駅跡までがサイクリングロードとして整備されている。
- また、鉄道運行当時上北谷 - 楡原間にあった「牛ヶ額隧道」は、新潟県道19号見附栃尾線のトンネルとして現在も運用している。
- 旧耳取駅付近から国道8号線のバイパスと交差するあたりまでの区間では路盤がほぼ廃線当時のまま残っている。
- 悠久山、浦瀬、上見附、栃尾の各駅跡では駅舎が営業所社屋(浦瀬駅舎を除く)、バスターミナル、ならびにバス待合所として平成に入るまで利用されており、栃尾駅舎は今なお現役であるが、他は2000年頃までに撤去されている。
なお、越後交通は2008年5月現在、同線にほぼ並行する形で下記のバス路線を運行している。
- (急行)長岡駅大手口 - 見附本町 - 小貫(楡原) - 栃尾車庫
- (快速)長岡駅東口 - 新榎トンネル(桑探峠) - 栃尾車庫
- 長岡駅東口 - 浦瀬 - 名木野(耳取) - 上見附車庫
- 長岡駅東口 - 悠久山公園入口 - 悠久山
- 長岡駅東口 - 試験場 - 悠久山 - 成願寺
車両
蒸気機関車
- 1号
客車
- ホハ1
- ホハ10
- ホハ11 - 元西武軌道線(後の都電杉並線)の250形265号であり、1928年(昭和3年)汽車会社製造の木造電車。譲受後改造されオープンデッキ付の客車となる。総括制御化を前に廃車となる(詳しい時期不明)。
- ホハ13(2代) - 「#電車」のモハ201-203の記述を参照。
- ホハ22 - 「#電車」のモハ201-203の記述を参照。
- ホハ23 - 元江ノ島鎌倉観光(現・江ノ島電鉄)100形の115号で、1957年(昭和32年)7月に譲受。当初はクハ101として使用する予定であったが、制御機器に問題があることから認可を受けられず、運転台付のまま客車として使用された。1966年(昭和41年)7月29日にクハ111となり、全線廃止まで使用された。台車は元小坂鉄道のものが使用され100形115号の台車はモハ212へ使用。
- ホハ24
- ホハ25 - 「#電車」のモハ201-203の記述を参照。
- ホハ50
気動車
下記のほかにも存在したが、いずれもガソリンカーで、当路線用に新造されたものであった。
- キ3 - 1929年(昭和4年)設計認可・松井車輌製作所製の片ボギー車。定員40人。その後車体両端に荷物台が設けられ、1943年(昭和18年)7月にキハ105に改番された。戦後の電化に伴い、1948年(昭和23年)3月に東急電鉄から譲受した主電動機を用いて電車モハ203に改造された。その後の経緯については#電車の節の当該車両の記述を参照。
- キ4・5 - 1930年(昭和5年)設計認可の松井車輌製作所製。キ3の増備車で、当初から荷物台を装備。キ3と同様にキハ106・107に改番され、その後電車モハ201・202に改造された。その後の経緯については#電車の節の当該車両の記述を参照。
電気機関車
- 50 - 草軽電気鉄道デキ50形を1947年(昭和22年)6月に譲受したもの。出力が小さく、1954年(昭和29年)10月に休車、1961年(昭和36年)4月10日に廃車となった。
- ED51 - 1949年(昭和24年)日立製作所水戸工場製の15t機で、貨物列車を牽引した。1967年(昭和42年)に貨物輸送が廃止されると、朝の通勤列車牽引機として使用されたが、乗客減から通勤列車が1969年(昭和44年)に廃止され、それに伴い除雪・保線用になった。その後部分廃止を前に1972年度(昭和47年度)に廃車となった。
電車
- モハ200 - 草軽電気鉄道モハ100形モハ105を、上記のデキ50と同時に購入。電化開業に向けた乗務員訓練などにも使用された。1959年(昭和34年)9月に吊り掛け駆動方式から垂直カルダン駆動方式に改造されたが、1972年(昭和47年)6月30日には電装解除されサハ306となり、全線廃止まで使用された。
- モハ201-203 - 上述のとおりキハ106・107・105からの改造でそれぞれ誕生。モハ201はガソリンカー時代に車体延長改造を受けており、残る2両も1953年(昭和28年)1月に同様の改造を施された。1954年(昭和29年)から1955年(昭和30年)にかけて3両全車が両ボギー化改造を受けたが、電動機が1個のままであったため出力不足が問題となり、1957年(昭和32年)から1966年(昭和41年)にかけて電装解除され客車ホハ22・ホハ25・ホハ13(2代)にそれぞれ改造。ホハ13は1972年(昭和47年)1月14日に廃車となり、他の2両は部分廃止時に廃車された。
- モハ205
- モハ206
- モハ207
- モハ209 - 1952年(昭和27年)自社工場製。車両前後両端にはデッキ、妻面中央部には梯子がついているという、電気機関車に似た特に異彩を放つスタイルであった。ED51を上回る出力を持ち、実際に電気機関車の代用として使われたこともあった。部分廃止時に廃車。
- モハ210 - 1954年(昭和29年)自社工場製。車体にアルミ合金を使用して自重の軽減を図り、乗客誘致の目玉としてクロスシートを設けロマンスカーと名付けた[18]。
- モハ211 - 1950年(昭和25年)自社工場製のクハ30を1956年(昭和31年)垂直カルダン方式を用いて電装した初のカルダン駆動車。
- モハ212 - 1957年(昭和32年)東洋工機製。垂直カルダン方式を最初から採用した13m級の大型車。同型が3両増備された(モハ213〜215)。
- クハ111 - 「#客車」のホハ23の記述を参照。
- サハ306 - 上記のモハ200の記述を参照。
貨車・荷物緩急車
- ニフ18
- ニフ19
- ワ16
- ユキ1形 - 1949年(昭和24年)、ワ3を改造して製作したロータリー車。屋根上にパンタグラフを設置し、車内のモーターでファンを回転させる電動式のロータリー車で日本では他には旭川電気軌道に存在したのみ。使用成績が芳しくなかったことから1958年(昭和33年)に廃車。
- ユキ2形 - 1954年(昭和29年)、ト12を改造して製作した私鉄唯一のジョルダン式雪かき車。栃尾線廃止まで在籍。
- ト12は元魚沼軽便線ケト212。栃尾鉄道には1949年(昭和24年)入線。
脚注
参考文献
- テンプレート:Cite book
- 今尾恵介監修、矢代新一郎編集 『日本鉄道旅行地図帳 6号 北信越』 新潮社、2008年
- テンプレート:Cite journal(再録:テンプレート:Cite book)
- 寺田裕一『私鉄の廃線跡を歩くIII 北陸・上越・近畿編』JTBパブリッシング、2008年
- 寺田裕一『新 消えた轍-ローカル私鉄廃線跡探訪- 5 上信越』ネコ・パブリッシング、2011年
- テンプレート:Cite journal(再録:テンプレート:Cite book)
- テンプレート:Cite book