谷衛友

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谷 衛友(たに もりとも)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名丹波山家藩初代藩主

生涯

永禄6年(1563年)、播磨平田城主・谷衛好の3男として生まれる。織田信長、次いで豊臣秀吉に仕える。天正7年(1579年)の播磨三木城攻めにおいては、敵に討たれた父の仇をその場で討ち、遺骸を奪い返す等の武勲を立てた。これを秀吉に賞され、本領ならびに2ヶ所の領地、感状と家紋「五三の桐」を賜る。

天正10年(1582年)、丹波国何鹿郡山家に封ぜられて1万6000石を領した。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いや天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正18年(1590年)の小田原征伐、天正20年(1592年)の朝鮮出兵など、秀吉の主なる合戦に従軍した。特に九州征伐では豊前巌城攻めでは一番乗りの功名をたてた。文禄3年(1594年)、伏見城の普請工事に参加する。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、丹波福知山城小野木重次らと西軍に属し、細川藤孝の丹後田辺城を攻撃する。しかし、歌道の師匠であった細川を積極的に攻める意思はなく、傍観的対応に終始した(田辺城の戦い)。戦後は小野木を攻撃するなど東軍に内応し、細川氏本多正純の仲介によって所領を安堵される。

慶長20年(1615年)の大坂の陣に参陣し、のち将軍の徳川秀忠の御伽衆を勤める。寛永4年(1627年)に死去。享年65。跡を4男の衛政が継いだ。

エピソード

  • 京都近郊に領国があったためか、公家と親交が深く、とくに園家とは姻戚関係にあった。外孫の一人は霊元天皇として即位し、以後現代の天皇家に至るまで皇室には谷家の血が伝わる。
  • 当時より武を高く評価されていたが、細川幽斎の弟子として歌道の心得もあったらしい。また、硬骨漢で知られ、天下人の秀吉にも媚びることなく、堂々と意見して喧嘩もしたと伝わる。その後、秀吉自らが酒肴持参で詫びに来たという巷談も伝わっている。
  • 非常に肝っ玉が強く、豊臣政権下では小大名ながら大大名だった加藤清正と互角に喧嘩をやり合っている(『武功雑記』)。

テンプレート:Quotation

  • 関ヶ原の戦いの頃、仲間と共に立身を誓い合った天下七兄弟と称されるうちの一人とされる。田辺城攻めの際、城にむけて空砲を撃って戦意をカムフラージュし、俗に「谷の空鉄砲」という言葉が伝わっている。
  • 関ヶ原戦後、細川忠興が論功を行った際、忠興の家臣の一人が具足を拝領したが、その具足は「頬は谷頬と言って、谷出羽守之面体を御似せてある逸品である」と評されるものであった。衛友に似せて作られた頬当て(仮面)であり、これが他家では恩賞とされる価値があったことが窺われ、衛友の武辺や評判が想像できる。
  • 関ヶ原戦後、細川家の豊前移封では山家領内を通過したが、その際、城下の渓谷に橋を架けた。橋は細川家に因んで「肥後橋」と呼ばれ、橋から城に向かう道も「肥後坂」と呼ばれている。江戸期における数度の同橋の流失・消失の際には、細川家から資金の援助があった。
  • 本人の肖像とされるものが伝わるが、大変質素な服装を身につけている。
  • 衛友の死後、所領は弟や甥に分知され、本家は4男衛政が相続した。

試刀術

父衛好は戦場働きの必然性のためか、刀剣の性能を見極める「試刀」の技術を独自に編み出して衛友に伝授した。

一般に「試刀術」(試剣術)と呼ばれるこの刀剣性能測定法は、美意識・美的価値による芸術としての刀剣鑑定・ランク付けではなく、鎧や兜といった武具など、そして実際に人間(通常、死罪人か死体そのもの)を斬ることにより、実際の道具としての刀剣性能を品評し、またはそれに必要な技術そのものであり、経験と知識、なにより錬度の高い技術を要した。

衛友はさらに研鑽した上で門人に伝授した。「谷流」とも呼ばれるこの流派に属するのが、初代の公儀御様御用(こうぎおためしごよう)・首切り山田浅右衛門である。衛好の弟子にして谷流を体系化した中川左平太(中川重良)、山野加右衛門(山野永久)、山野勘十郎(山野久英)、山田浅右衛門(山田貞武)と続く。

参考文献

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