羅生門 (1950年の映画)

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テンプレート:Infobox Film羅生門』(らしょうもん)は、1950年昭和25年)に公開された日本映画である。黒澤明監督作品。モノクロ

当時、映画芸術協会に参加していた黒澤明監督が、松竹で手掛けた『醜聞』に続いて、大映で手がけた作品である。原作は芥川龍之介の短編小説 『藪の中』と『羅生門』。人間のエゴイズム、人間信頼をテーマに、ある殺人事件の目撃者や関係者がそれぞれ食い違った証言をする姿を、それぞれの視点から描いている。

本作の作劇は、「対立する複数の視点から同じ出来事を全く違う風に回想し、真実がどうだったのか観客を混乱させる」という法廷心理劇のような手法が用いられており、これはアメリカや中国など、多くの国の映画やフィクションに影響を与えている。

自然光を生かすためにレフ板を使わずに、鏡を使って撮影したり、当時はタブーとされてきた太陽に直接カメラを向けるという撮影[1]を行ったり、その画期的な撮影でモノクロ映像の美しさを極限に映し出している。撮影は宮川一夫が担当し、黒澤は宮川の撮影を「百点以上」と評価した[2]。音楽は早坂文雄が手がけ、全体的にボレロ調の音楽となっている。

日本映画初となるヴェネツィア国際映画祭金獅子賞アカデミー賞名誉賞を受賞。黒澤明日本映画が世界に紹介されるきっかけとなった。

あらすじ

平安時代。荒れ果てた都の羅生門で、杣売り旅法師が放心状態で座り込んでいた。そこへ雨宿りのために下人がやって来る。下人は退屈しのぎに、2人がかかわりを持つことになったある事件の顛末を聞く。

ある日、杣売りが山に薪を取りに行っていると、武士・金沢武弘の死体を発見した。そのそばには、「市女笠」、踏みにじられた「侍烏帽子」、切られた「縄」、そして「赤地織の守袋」が落ちており、またそこにあるはずの金沢の「太刀」と妻の「短刀」がなくなっていた。杣売りは検非違使に届け出た。旅法師が検非違使に呼び出され、殺害された武士が妻・真砂と一緒に旅をしているところを見たと証言した。

やがて、武士殺害の下手人として、盗賊の多襄丸が連行されてくる。多襄丸は女を奪うため、武士を木に縛りつけ、女を手籠めにしたが、女が「生き残った方のものとなる」と言ったため、武士と一対一の決闘をし勝利した。しかし、その間に女は逃げてしまったと証言した。短刀の行方は知らないという。

しばらくして、生き残っていた武士の妻が検非違使に連れて来られた。妻によると、自分を手籠めにした後、多襄丸は夫を殺さずに逃亡したという。だが、眼前で他の男に抱かれた自分を見る夫の目は軽蔑に染まっており、妻は思わず自分を殺すよう訴えた。あまりのつらさに意識を失い、しばらくして目を覚ましたときには、夫には短刀が刺さって死んでいた。自分は後を追って死のうとしたが死ねなかった、と証言した。

そして、夫の証言を得るため、巫女が呼ばれる。巫女を通じて夫の霊は、妻は多襄丸に手籠めにされた後、多襄丸に情を移し、自らの夫を殺すように彼に言ったのだと回顧した。そして、これをきいた多襄丸は激昂し、妻を生かすか殺すか夫が決めていいと言ってきたのだという。しかし、それを聞いた妻は逃亡した。多襄丸も姿を消し、一人残された自分は無念のあまり、妻の短刀で自害したと証言した。

だが、杣売りは、下人に「3人とも嘘をついている」と言う。杣売りは実は事件を目撃していたのだ。そして、杣売りが下人に語る事件の当事者たちの姿はあまりにも無様で、あさはかなものであった。

製作

製作経緯

伊丹万作唯一の弟子として指導を受けた橋本忍は、伊丹の死後佐伯清の弟子となり、サラリーマンをしながら脚本の勉強をしていた。1949年、橋本は芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色した作品を執筆、佐伯にこの脚本を見せたところ、かねてから付き合いのあった黒澤明の手に脚本が回り、黒澤はこれを次回作として取り上げた。橋本の書いたシナリオは京の郊外で旅の武士が殺されるという殺人事件をめぐって、関係する三人が検非違使で証言するが、それがみな食い違ってその真相が杳として分からないという人間不信の物語であった[2]が、映画にするには短すぎたため、杣売りの証言の場面と芥川の『羅生門』のエピソードと、ラストシーンで出てくる赤ん坊のエピソードを付け足した。

当時東宝争議の影響で映画芸術協会を設立してフリーとなっていた黒澤は、大映で製作交渉をするが、娯楽映画路線だった大映はこの難解な作品の映画化に首をひねった。しかし、映画芸術協会の設立者の一人であった本木荘二郎が首脳陣に「セット一杯で出来る」と口説いてようやく企画が了承された。

撮影

撮影は大映京都撮影所で行われた。その撮影所前の広場に「羅生門」のオープンセットを建設した。このセットは間口18間(約33メートル)、奥行12間(約22メートル)、高さ11間(約20メートル)[2]で、柱は周囲4尺(約1.2メートル)の巨材18本を使い、「延暦十七年」と彫られた瓦を4000枚焼いた。さらに門の右側を大きく崩し、荒廃した姿を再現した。完成された門はとても巨大なものになり、黒澤も「私もあんな大きなものを建てる気はなかった」[3]と語っている。大映重役の川口松太郎も「黒さんには一杯食わされたよ」と愚痴っている[3]。門の扁額も縦1メートル20センチ、横2メートル15センチの大きさで、字は書家の宇野正太郎によるもの[4]

この映画で作られたセットはこの巨大な羅生門と検非違使の白洲のみで、森のシーンは奈良奥山の原生林と光明寺の森で撮影が行われた。

出演者は黒澤映画常連の三船敏郎志村喬千秋実らに京マチ子森雅之上田吉二郎、端役に加東大介本間文子の8人のみである。ヒロインの真砂役は当初、原節子でいくつもりだったが、京がこの役を熱望して眉毛を剃ってオーディションに臨んだため、京の熱意を黒澤が買い、京に決まったという。

冒頭の雨のシーンでは、モノクロカメラで迫力のある雨の映像を撮るために、水に墨をまぜてホースで降らせたという。このやり方は『七人の侍』の豪雨の中の合戦シーンでも用いている。

試写会は1950年8月25日に行われるつもりだったが、その4日前のアフレコ収録中に撮影所が出火し、オリジナルネガは無事だったが、一部の音ネガが消失してしまった。翌日には映写機でのテスト中に再び炎が上がり、フィルムから放出された毒ガスにより30人ほどのスタッフが病床についたという[5]。黒澤は残り2日間で録音作業を行い、25日の試写会に間に合わせている。しかし、大映社長の永田雅一は試写で「こんな映画、訳分からん」と憤慨し、途中で席を立ち、製作を推進した重役を左遷させている。

公開

試写会が行われた翌日、1950年8月26日に公開されたが、国内での評価はまさに不評で、この年のキネマ旬報ベストテンでも第5位にランクインされる程度だった。映画批評家らも作品を評価せず、批判ばかりを浴びることとなった。興行収入も黒澤作品にしては少ない数字であった。

その一方、同年末にヴェネツィア国際映画祭カンヌ国際映画祭から日本に出品招請状が送られた。先に行われるカンヌ国際映画祭の候補作を選ぶため、各映画会社からお勧めの作品を選ぶこととなり、大映からは吉村公三郎の『偽れる盛装』と『羅生門』を選出した[6]。その中から関係者による投票を行い、上位2作品『また逢う日まで』と『羅生門』が候補作として選ばれた。しかし、『また逢う日まで』は製作会社の東宝争議の影響で出品費用が捻出できないため辞退、『羅生門』が残るも、こちらも辞退している。当時は海外の映画祭がどういうものであるのか全く知らなかったため、どんな作品を送ったらいいかも分からなかったという。

そんな中、イタリフィルム社長のジュリアーナ・ストラミジョリは、ヴェネツィア国際映画祭の依頼で日本の出品作を探すこととなったが、何本と候補作を見ていると、その一本の『羅生門』を観て感激し、これを出品作としようとした。しかし、大映の首脳陣は断固これに反対した。そこでストラミジョリは自費で英語字幕をつけて、映画祭に送ったのである。

ジャン・コクトーが審査委員長を務めた第12回ヴェネツィア国際映画祭で上映されると大絶賛され、1951年9月10日に見事金獅子賞に選ばれた。しかし、この作品が選ばれるとは思っていなかったため、日本人の製作関係者は誰一人も映画祭に参加していなかった。そのため急きょ町を歩いていたベトナム人の男性が代わりにトロフィーを受け取ることになった。この姿は写真報道され、この無関係のベトナム人が黒澤本人であるとの誤解を招いたこともあった。

永田雅一は、受賞の報告を聞いて「グランプリって何や?」と聞き返し、「訳分からん」と批判していたにもかかわらず、手のひらを返したように大絶賛し始め、自分の手柄のように語った。人はそんな永田の態度を「黒澤明はグランプリ、永田雅一はシランプリ」と揶揄した。黒澤も後年このことを回想し、「まるで『羅生門』の映画そのものだ」と評している[3]。その後の大映は娯楽映画路線から芸術的大作映画路線へと転じ、吉村公三郎の『源氏物語』、溝口健二の『雨月物語』『山椒大夫』、衣笠貞之助の『地獄門』といった大映作品が次々と海外映画祭で受賞している。

黒澤明は、作品が映画祭に送られたこと自体も知らず、受賞のことは妻の報告で初めて知ったという。後に開かれた受賞祝賀会で黒澤は次の発言をしている。

「日本映画を一番軽蔑してたのは日本人だった。その日本映画を外国に出してくれたのは外国人だった。これは反省する必要はないか。浮世絵だって外国へ出るまではほとんど市井の絵にすぎなかったよね。我々は、自分にしろ自分のものにしろ、すべて卑下して考えすぎるところがあるんじゃないかな? 『羅生門』も僕はそう立派な作品だとは思っていません。だけど、「あれは まぐれ当たりだ」なんて言われると、どうしてすぐそう卑屈な考え方をしなきゃならないんだって気がするね。どうして、日本人は自分たちのことや作ったものに自信を持つことをやめてしまったんだろう。なぜ、自分たちの映画を擁護しようとしないのかな? 何を心配してるのかなって、思うんだよ。」[2]

1951年度の第24回アカデミー賞で日本映画初の名誉賞(現在の外国語映画賞)を受賞。翌1952年度の第25回アカデミー賞では、美術監督賞(白黒部門)にノミネートされ、この授賞式には淀川長治が出席した。

『羅生門』のグランプリ受賞は、当時まだ米軍占領下にあり、国際的な自信を全く失っていた日本人に、古橋廣之進競泳で世界最高記録を樹立したことと、湯川秀樹ノーベル物理学賞を受賞したことと共に、現代では想像も出来ぬ程の希望と光明を与えた。この受賞により黒澤明監督と日本映画は世界で認知・評価されることとなり、日本映画は黄金期へと入って行った。

評価

ランキング

本映画は現在に至っても国内外で高く評価され、映画批評家を対象にした過去作品のランキング等に載っている。

  • 1959年:「日本映画60年を代表する最高作品ベストテン」(キネマ旬報社発表)第12位
  • 1979年:「日本公開外国映画ベストテン(キネ旬戦後復刊800号記念)」(キネ旬発表)第9位
  • 1989年:「日本映画史上ベストテン(キネ旬戦後復刊1000号記念)」(キネ旬発表)第15位
  • 1989年:「大アンケートによる日本映画ベスト150」(文藝春秋発表)第4位
  • 1995年:「オールタイムベストテン」(キネ旬発表)
    • 「日本映画編」第7位
    • 「世界映画編」第33位
  • 1999年:「映画人が選ぶオールタイムベスト100・日本映画編(キネ旬創刊80周年記念)」(キネ旬発表)第5位
  • 2009年:「映画人が選ぶオールタイムベスト100・日本映画編(キネ旬創刊90周年記念)」(キネ旬発表)第7位

以下は海外でのランキング

  • 「映画史上最高の作品ベストテン」(英国映画協会『Sight&Sound』誌発表)※10年毎に選出
    • 1982年:「映画批評家が選ぶベストテン」第81位
    • 1992年:「映画批評家が選ぶベストテン」第66位
    • 1992年:「映画監督が選ぶベストテン」第10位
    • 2002年:「映画批評家が選ぶベストテン」第13位
    • 2002年:「映画監督が選ぶベストテン」第9位
    • 2012年:「映画批評家が選ぶベストテン」第26位
    • 2012年:「映画監督が選ぶベストテン」第18位
  • 2000年:「20世紀の映画リスト」(米『ヴィレッジ・ヴォイス』紙発表)第10位
  • 2010年:「史上最高の外国語映画100本」(英『エンパイア』誌発表)第22位
  • 2010年:「エッセンシャル100」(トロント国際映画祭発表)第14位

受賞歴

受賞

ノミネート

スタッフ

キャスト

多襄丸:三船敏郎
都の内外に悪名が轟く盗賊。女好きとしても有名。真砂の美貌や気性の激しさに惹かれ、金沢夫婦を襲う。
金沢武弘:森雅之 
旅をしている武士。言葉巧みに多襄丸に山奥まで連れて行かれ、木に縛られ、妻を手籠めにされる。
真砂:京マチ子
金沢の妻。一見、おとなしく貞淑な妻だが、内心では激しい気性を抱えている。
杣(そま)売り:志村喬
金沢の遺体の第一発見者。事件を目撃し、人間不信になるが、最後に人間らしさを取り戻し、捨て子を育てようと決心する。
旅法師:千秋実
生前の金沢を目撃していたため、検非違使に呼ばれる。杣売りの話を聞いて人間不信となるが、ラストの杣売りの行動に心を救われる。
下人:上田吉二郎
雨宿りの際に暇つぶしに杣売りの話を聞く。杣売りの偽善性を突き、人間のエゴイズムをさらけだす行動をラストにおこなう。
巫女:本間文子
巫女というより霊媒師。金沢の霊を呼び込み、証言をおこなう。
放免:加東大介
河原で倒れていた多襄丸を発見し、検非違使に連行する。

エピソード

下人役の上田吉二郎は、本作のグランプリ受賞後、葉書半分大の大きな名刺を作り、「グランプリ受賞の羅生門出演、上田吉二郎」と印刷して話題をまいた[7]

リメイク

暴行The Outrage アメリカ映画 1964年、オリジナル版『羅生門』の権利を正式に買い、この脚本を元に、舞台をメキシコに置き換えて再映画化された。

ウ・モーン・パー・ムアン』(U Mong Pa Meung、อุโมงค์ผาเมือง、英題:The Outrageタイ映画 2011年、オリジナル版『羅生門』の脚本をククリット・プラーモートが演劇用にタイ語に翻案した脚本を原作に、舞台を今から約500年前のタイに置き換えて映画化。

また、1971年(昭和46年)に松竹で、当時俳優として売り出し中の三船史郎三船敏郎の長男)の主演で、リメイク版『羅生門』の制作が発表されたが、準備中のまま完成には至らなかった。配役は次の予定であった。

脚注

  1. フィルムが焼けてしまうため、タブーとされていた。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 『黒澤明 全作品と全生涯』都築政昭
  3. 3.0 3.1 3.2 『蝦蟇の油 自伝のようなもの』黒澤明著
  4. 東京国立近代美術館フィルムセンターHP フィルムセンター・ニュース「『羅生門』扁額の書家が判明」 同サイトによると、その扁額は現在宮川一夫の息子が所蔵している。
  5. 映画保存協会 映画保存とは 第二章「映画フィルム」
  6. 東宝からは『また逢う日まで』と『愛と憎しみの彼方へ』、松竹からは『長崎の鐘』、東横映画からは『レ・ミゼラブル ああ無情』と『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』、新東宝からは『暁の脱走』を選出
  7. 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)

関連項目

外部リンク

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