維摩経
テンプレート:Sidebar 『維摩経』 (ゆいまきょう、テンプレート:Lang-sa-short, ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ[1])は、大乗仏教経典の一つ。別名『不可思議解脱経』(ふかしぎげだつきょう)。
サンスクリット原典[2]と、チベット語訳、支謙訳『維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』・玄奘訳『説無垢称経』の3種の漢訳が現存する。しかし、漢訳は7種あったと伝わる。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳である。日本でも、仏教伝来間もない頃から広く親しまれ、聖徳太子の三経義疏の一つ『維摩経義疏』を始め、注釈書が多く著された。
概要
内容は中インド・ヴァイシャーリーの長者ヴィマラキールティ(維摩詰、維摩、浄名)にまつわる物語である。 維摩が病気[3]になったので、釈迦が舎利弗・目連・迦葉などの弟子達や、弥勒菩薩などの菩薩にも見舞いを命じた。しかし、みな以前に維摩にやりこめられているため、誰も理由を述べて行こうとしない。そこで、文殊菩薩が見舞いに行き、維摩と対等に問答を行い、最後に維摩は究極の境地を沈黙によって示した。
維摩経は明らかに般若経典群の流れを引いているが、大きく違う点もある。
- 一般に般若経典は呪術的な面が強く、経自体を受持し読誦することの功徳を説くが、維摩経ではそういう面が希薄である。
- 般若経典といえば「空」思想が説かれるものだが、維摩経では「空」のような観念的なものではなく現実的な人生の機微から入って道を窮めることを軸としている。
維摩経は全編戯曲的な構成の中に旧来の仏教の固定性を批判し、在家者の立場から大乗仏教の空の思想を高揚した初期大乗仏典の傑作である。
不二法門
維摩経の内容として特徴的なのは、不二法門(ふにほうもん)といわれるものである。不二法門とは互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではない、ということを説いている。例を挙げると、生と滅、垢と浄、善と不善、罪と福、有漏(うろ)と無漏(むろ)、世間と出世間、我と無我、生死(しょうじ)と涅槃、煩悩と菩提などは、みな相反する概念であるが、それらはもともと二つに分かれたものではなく、一つのものであるという。
たとえば、生死と涅槃を分けたとしても、もし生死の本性を見れば、そこに迷いも束縛も悟りもなく、生じることもなければ滅することもない。したがってこれを不二の法門に入るという。 これは、維摩が同席していた菩薩たちにどうすれば不二法門に入る事が出来るのか説明を促し、これらを菩薩たちが一つずつ不二の法門に入る事を説明すると、文殊菩薩が「すべてのことについて、言葉もなく、説明もなく、指示もなく、意識することもなく、すべての相互の問答を離れ超えている。これを不二法門に入るとなす」といい、我々は自分の見解を説明したので、今度は維摩の見解を説くように促したが、維摩は黙然として語らなかった。文殊はこれを見て「なるほど文字も言葉もない、これぞ真に不二法門に入る」と讃嘆した。
この場面は「維摩の一黙、雷の如し」として有名で、『碧巌録』の第84則「維摩不二」の禅の公案にまでなっている。
主な訳注
- 長尾雅人 『維摩経、首楞厳三昧経』 中央公論社「大乗仏典7」、中公文庫、2002年(新版)-チベット語訳版に基づく、後者は丹治昭義と共訳。
- 高橋尚夫・西野翠 『梵文和訳 維摩経』 春秋社、2011年(訳者は大正大学関係者)
- 植木雅俊 『維摩経 梵漢和対照・現代語訳』 岩波書店、2011年(パピルス賞受賞)
- 石田瑞麿 『維摩経 不思議のさとり』 平凡社東洋文庫-漢訳仏典に基づく。
主な解説講話
- 紀野一義 『維摩経』 大蔵出版〈佛典講座〉、新装版2004年
- 鎌田茂雄 『維摩経講話』 講談社学術文庫、1990年
- 菅沼晃 『維摩経をよむ』 日本放送協会出版〈NHKライブラリー〉、1999年
- 増補改訂版 『誰でもわかる維摩経』 大法輪閣、2011年
- 『ひろさちやの『維摩経』講話』 春秋社、2012年
脚注・出典
- ↑ 「ニルデーシャ」(nirdeśa)とは、「演説・説教」のこと。
- ↑ 原典は、大正大学学術調査隊によって、1999年にチベット・ラサのポタラ宮のダライ・ラマの書斎で発見された。
- ↑ この病気は、風邪や腹痛、伝染病などではない。維摩の言葉、「衆生が病むがゆえに、我もまた病む」は大乗仏教の慣用句となっている。