篠原信一
テンプレート:MedalTableTop テンプレート:MedalCountry テンプレート:MedalSport テンプレート:MedalCompetition テンプレート:MedalSilver テンプレート:MedalCompetition テンプレート:MedalBronze テンプレート:MedalSilver テンプレート:MedalGold テンプレート:MedalGold テンプレート:MedalBronze テンプレート:MedalCompetition テンプレート:MedalGold テンプレート:MedalCompetition テンプレート:MedalGold テンプレート:MedalGold テンプレート:MedalBottom 篠原 信一(しのはら しんいち、1973年1月23日 - )は、日本の男子柔道家。青森県東津軽郡平内町生まれ。兵庫県神戸市長田区出身。身長190cm、現役時代の体重135kg(2008年11月現在の体重は110kg)。血液型O型。「篠」は、正式には「イ|」のない漢字(イメージとしては、竹かんむりがついた「条」(筿)に近い)である。
人物
中学1年より柔道を始め、育英高等学校を経て天理大学に進学。得意技は大外刈り。大学生の時に才能が開花し、外国人に負けない体格と技術、パワーによって多くの大会を制覇した。シドニーオリンピック100キロ超級にて銀メダルを獲得(後述する誤審問題を参考)。2003年に現役を引退。
オリンピックを三連覇した軽量級の野村忠宏は同じ大学の後輩であり、普段から冗談を飛ばし合うほど非常に仲が良い。段位は5段。現在、天理大体育学部准教授で、同大学柔道部監督。また、2008年11月から柔道男子日本代表監督を務めている。私生活では天理大学の1学年上の女性と交際しその後結婚。4人の子の父親である。柔道男子日本代表監督に就任してからは東京に単身赴任し代表選手の視察と指導を行っている。
主な戦歴
- 1992年 全日本ジュニア体重別選手権2位
- 1993年 全日本学生選手権優勝
- 1994年 正力杯国際学生体重別(95kg超級)2位
- 1994年 フランス国際2位
- 1994年 全日本学生選手権2連覇
- 1994年 全日本学生体重別選手権優勝
- 1994年 4月講道館杯優勝
- 1994年 12月講道館杯優勝
- 1994年 嘉納治五郎杯(95kg超級)3位
- 1995年 フランス国際優勝
- 1995年 幕張世界選手権(無差別)3位
- 1996年 嘉納治五郎杯(95kg超級)優勝
- 1997年 フランス国際優勝
- 1997年 全日本選抜体重別優勝
- 1997年 講道館杯優勝
- 1998年 ワールドカップ団体戦優勝
- 1998年 バンコクアジア大会優勝
- 1999年 全日本選手権優勝
- 1999年 バーミンガム世界選手権(100kg超級・無差別)優勝
- 2000年 全日本選手権優勝
- 2000年 シドニーオリンピック100キロ超級準優勝
- 2001年 ミュンヘン世界選手権(100kg超級)3位
- 2003年 全日本選手権3位(この大会を最後に、現役を引退)
誤審問題
シドニー五輪100kg超級決勝で、フランスのダビド・ドゥイエと対戦した際に、ドゥイエが内股を仕掛けてきたのに対して篠原は内股すかしで返した。これに対して、主審と副審の一人はドゥイエの技を有効とした。もう一方の副審は篠原の技を一本と宣告した。山下泰裕選手団監督は、審判委員から審判団の再協議を申し出られたにもかかわらず、フランス語の分からない山下はそれに気づかず試合の継続を許してしまった。結局、試合時間が過ぎてドゥイエの優勢勝ちとなった。試合後、山下泰裕選手団監督及び日本選手一同が猛抗議したが、判定は覆らなかった。日本でのNHKテレビアナウンサー・有働由美子も「今のは間違いなく篠原の一本。誤審です」と涙ながらに解説していた。
この結果に対して、日本では、柔道関係者、マスコミともに誤審と断定して審判を批判した。全日本柔道連盟にも抗議が殺到し、中には主審を務めたクレイグ・モナガンやニュージーランド柔道連盟(主審の出身国)に脅迫まがいの電子メールを送りつける者までいた。それでも篠原は「審判もドゥイエも悪くない。全て自分が弱いから負けたんです」とそれ以上言明せず、潔く引き下がった。
五輪終了後、国際柔道連盟は、この試合のビデオを分析した。その結果、篠原もドゥイエも技が完全ではないと国際柔道連盟理事会は判断し、問題の場面では両者にポイントを与えるべきではなかったと結論付け、篠原の内股透かしを無効としたことではなく、ドゥイエの内股を有効としたことについて誤審と認めた。だが、試合場から審判が離れた後は判定は覆らないという国際柔道連盟試合審判規定第19条によりドゥイエの優勝は覆らなかった。
この事件以後、国際柔道連盟では、誤審防止や判定の難しいケースに備えてビデオ判定を導入し、ルールの徹底と試合判定の明確化に力を入れるようになった。又、現在のジュリー制度のきっかけとなった試合でもある[1]。
なお、この二人の誤審問題はこれが初めてではない。この事件の3年前、ドゥイエの地元フランスで開催された世界柔道選手権大会の決勝でも二人は対戦しているが、明らかに不可解な判定でドゥイエが勝利している。この件に関しても日本側は抗議したが大きく問題視されることはなかった[2]。
引退後
天理大学体育学部准教授・同大学柔道部監督の傍ら、主に国際大会での解説を務めたり、関連番組へのゲスト出演をしている。解説者として活動し始めたばかりの頃は、優勝候補を尋ねられ「私に勝てれば優勝」など冗談とも本気ともつかない発言をして、アナウンサーを困惑させたりもした。非常に雄弁な一面ももっており、バラエティ番組に出ても芸人顔負けのジョークを飛ばしたりする。また、引退後は数年にわたりK-1や総合格闘技界からの熱烈なオファーを受けていたものの篠原自身は全く興味を示さなかった。
2008年11月4日には、北京オリンピックで金メダル2個を獲得して五輪後に勇退した斉藤仁の後任として、柔道男子日本代表監督に就任した。篠原は現役引退後は代表監督就任まで日本代表コーチの経験がなく、異例の代表コーチ未経験での代表監督就任となった。天理時代からの愛弟子である穴井隆将や西山大希、森下純平、上川大樹などの新鋭を発掘し、マンツーマン指導により強豪選手へと育て上げた。2010年世界選手権ではその新鋭たちの活躍により日本男子の獲得メダル数は過去最大となった。だが、2012年ロンドンオリンピックでは日本男子史上初の金メダル0個という結果に終わった。篠原は「これは私の責任。特に選手に対して最も申し訳なく思う」とコメントし、進退について全日本柔道連盟に一任した。強化委員長の吉村和郎は続投に強い支持を表明しており[3]、自身も続投に前向きの姿勢を示していたが[4]、10月に入ると続投を固辞する姿勢を見せるようになり、結果として辞任することになった[5]。
2013年3月をもって天理大学准教授を退職することになった[6]。大学を辞めたのは一連の柔道界のごたごたとは全く関係がないという。もともと柔道指導者は柄に合っていないと考えていたこともあり、40歳になったことをきっかけに4月からは昨年1月に設立した妻を代表取締役とする会社で一般廃棄物、医療廃棄物、産業廃棄物及びリサイクル物処理業務関連の仕事に取り組むことになった[7]。
受賞
- 1999年度JOCスポーツ賞最優秀賞
脚注
- ↑ 『毎日新聞』2012年7月30日
- ↑ 以上、『Number』2000年8月号より
- ↑ 吉村強化委員長「おれの責任」進退伺提出へ サンケイスポーツ 2012年8月5日
- ↑ 柔道の篠原監督続投の意向 女子の園田監督も続投へ スポーツニッポン 2012年9月9日
- ↑ 康生新監督!金なし男柔道立て直す 日刊スポーツ 2012年11月1日
- ↑ 篠原前男子代表監督氏 天理大退職へ スポーツニッポン 2013年3月30日
- ↑ 「篠原前監督 40歳で産廃業界へ転身」FLASH 光文社、2013年4月30日号、18-19頁