第一次ブルガリア帝国

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テンプレート:ブルガリアの歴史 第一次ブルガリア帝国ブルガリア語:Първа българска държава英語:First Bulgarian Empire)は、7世紀より11世紀前半まで続いた東ヨーロッパブルガリアに栄えた帝国10世紀前半におけるシメオン1世の治世に全盛期を迎えたが、東ローマ帝国によって滅ぼされた。

歴史

建国

7世紀後半、黒海北岸の大ブルガリアから分離してドナウ川下流域のデルタ地帯に侵入してきたドナウ・ブルガール人は、アスパルフ(イスペリフ)を指導者としてこの地方(Praetorian prefecture of the East)の支配者であった東ローマ帝国と戦い、スラヴ人を支配する国家を形成し始めた。彼らは681年に東ローマ帝国と講和を結んでこの地域の支配権を認められ、第一次ブルガリア帝国を建国する。

建国当初のブルガリア帝国はテュルク系遊牧民のブルガール人の部族連合的性格を色濃く残し、君主は有力部族から選ばれる人物でハーンを称号とした。国内ではブルガール語話者のブルガール人[1]は少数派で、支配下には様々な部族に分かれた南スラヴ人が多数おり、ブルガール人は次第にスラヴ語を受け入れ、スラヴ人とブルガール人が一体となって現在のブルガリア人に繋がるテュルク系の要素を濃く残したスラヴ系の集団となっていった。

8世紀を通じブルガリアは東ローマ帝国と激しく争ったが、8世紀末に即位したクルム・ハーンのもとで神聖ローマ帝国に敗れて衰退したアヴァールの旧領を奪取し、東ヨーロッパ随一の大国に成長した。9世紀初頭にクルムは東ローマ帝国に勝利してトラキア地方に勢力を拡大し、のちの首都となるソフィアを奪った。811年には東ローマ皇帝ニケフォロス1世の親征を受けるがこれを打ち破り(プリスカの戦い)、813年には東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを包囲するに至る。しかし、814年にはブルガリア軍はレオーン5世によって撃退された。

ギリシア正教の受容

クルム以降、ブルガリアの歴代ハーンは東ローマ帝国支配下のスラヴ人の反乱を支援して南への拡大を続け、ボリス1世のとき864年にキリスト教に改宗した。キリスト教への改宗は異教の信仰を堅持する貴族たちの反抗にあったがハーンはこれを鎮圧し、893年に即位したシメオン1世のもとでコンスタンティノポリス総主教から独立したブルガリア正教会を確立。ハーンは918年より皇帝(初期はバシレウス、後にツァール)を称するに至った。

最盛期から滅亡まで

シメオン1世のとき、ブルガリア帝国の領土はマケドニア地方やギリシャペロポネソス半島北部にまで及び、第一次ブルガリア帝国は最盛期を実現したが、その後は次第に衰え、970年にはキエフ大公スヴャトスラフ1世によって占領され、971年にはキエフ軍を討った東ローマ軍によって併合された。976年には独立を回復したものの、マジャル(後のハンガリー王国)や東ローマ帝国にしばしば敗れた。986年トラヤヌスの門の戦いからテンプレート:仮リンク968年-1018年)が激しくなり、1014年にはクレディオン峠の戦いサムイル帝が敗走後まもなく病死、1018年、ブルガリアは東ローマ皇帝バシレイオス2世によって完全に併合し尽くされ、第一次ブルガリア帝国は滅亡した。

脚注

  1. ブルガール語と同時に発見されるギリシャ語の碑文等から、公用語はギリシャ語だったと推定されている。ブルガール語を参照。

関連項目

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